湘南フレンチの明日へ

高尾シェフの訃報を聞いた。
聞いたと言っても、最初は間接的で、大島武さん(大島渚監督のご子息)からの情報だった。大島さんとは、育った環境が(ほぼ12年の時間差はあるが)同じだったし、お父上を介して、以前藤沢市長をしておられた葉山俊さんや指揮者の福永陽一郎さんといった共通の知人があったりで、湘南地方の風土や文化の話をいろいろした。
その中に三笠会館鵠沼店の話題も含まれていた。
ぼくたち家族とこのレストランとの関係は、以前にも書いたことがある。
そんな話をしていて、高尾シェフの訃報を聞いた。
ちょっと、しまった、と思った。
話を聞いてみると、随分以前のことで、ぼくは、高尾シェフが亡くなってからも、一度ならず三笠会館鵠沼店に行っていることになる。漠然と、移動されたか引退されたのかなあ、などと思っていたが、敢えて問いただすこともしていなかった。
11月6日(日)、久しぶりに(いつもは6月の妻幸子の誕生日周辺と10月のぼくたちの結婚記念日周辺に行くのだけれど、この春は、家族のスケジュールがうまく合わずに行くことが出来なかった)三笠会館鵠沼店に行った。ローストビーフディナーの案内が送られてきたことも僕たちの背中を押した。
長男巌生の嫁奈保美も含めて6人で、至福の時を過ごした。
その折り、ふと思いついて、以前、ぼくたち夫婦の銀婚式を祝ったときに、備忘のために書いておいた駄文を打ち出して持参し、山岸支配人に手渡した。
山岸支配人も、ぼくたちの銀婚式のことを覚えてくれていた。
「あのときは、大変でしたよ。高尾と二人でメニューの相談をし、3度ぐらい試作してみましたし。まあ、わたしは味見をする係でしたが」
一瞬、食べかけのローストビーフが喉に詰まった。たった一度の、それも、たった6人だけのためのメニューのために、試作を3度も。まあ、元が取れないことは初めっから分かっていた。しかし、湘南フレンチの始祖を標榜する高尾シェフ自らが、それだけの労力と時間をかけて、ぼくたちの銀婚式ディナーに臨んでくださったことは、ぼくたちにとって素晴らしいプレゼントであったとともに、とても誇らしいことに思えた。
いくつかの三笠会館鵠沼店でのローストビーフの思い出が、頭の中を駆けめぐった。
先の文章にも書いたが、30年ほども前、結婚する前の幸子と最初に食べた時のこと。
ぼくたちの無理な注文に応じて、お昼の時間に特別に焼いてくださった時のこと。やや小振りな塊をそれぞれの皿に切り分けてくださった後、端の部分(まあ、パンで言えばミミに当たるところ)を小さな皿に盛ってくださり
「エンドカットと言います。ちょっと塩気がきつくなりますが、これはこれでおいしいものですよ。のこりの部分は、おみやげにお包みしておきますから」
次の朝、トーストに挟んで食べたエンドカットの味は忘れることが出来ない。
そんな話を山岸シェフにしたら、
「ええ、やはり味がきつくなってしまいますから、普段はお客様にはお出し出来ません。後でお包みしておきますよ」「パンに挟むのは、大正解で、パストラミビーフ何かよりずっと美味しいですよね」
そう言えば、前回のローストビーフを切り分けてくださったのは、高尾シェフではなかった。今、思い起こすと、今回紹介していただいた芳川シェフではなかったか。
「今日は、高尾が休みを取っておりまして、代わりのものですが」
きっと、この時すでに高尾シェフは病を得ていたのだ。
芳川新シェフが、傍目に見ていても緊張しておられるのが分かった。(今回は、ずいぶんとシェフ業も板に付いていたけれど)
高尾シェフの思いでも尽きることはない。娘は、
「わたしの結婚式には、絶対に高尾さんの料理。親子が同じシェフの料理で結婚式やるなんて素敵でしょ」
などと言っていたけれど、もうかなうことはない。
小さかった子供たちが、お子さまディナーを早く食べ終えてしまい、退屈してお店の中をうろうろしていたときなど、グリルでお肉や魚介類を焼きながら、にこにことした笑顔で相手をしてくださっていた高尾シェフの姿を見ることも、もうできない。
だけどね、芳川さん。ぼくたちが結婚したとき、高尾さんはシェフではなくて二番だったのだ。
高尾さんがシェフを引き継ぎ、湘南フレンチを作り上げた。ローストビーフの伝統も引き継いだ。
そして、今の鵠沼店のシェフは芳川さんなわけだ。芳川さんには、芳川さんの湘南フレンチがあり、ローストビーフがある。
ぼくたちは、これからも三笠会館鵠沼店に通い続ける。いいお店の伝統とはそういうものであり、ぼくたちは、このようなレストランとともに家族の歴史を刻み続けてこれたことを、心から誇りに思っている。
改めて、高尾シェフに感謝
合掌

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バンコックで:きわめて個人的なことをブログで書くことは、

タイのバンコックに来ている。日本の財団法人国際情報化協力センターがコーディネイトしているアジア圏の情報技術分野の会議。
2時間の時差がぼくには好都合で、いつも起きる日本の4時から5時が、こちらでは、2時から3時になるので、早朝の時間がたっぷり使える。ロクの散歩からも解放されるし。
そんなわけで、しばらく中断していた自分のホームページのメインテナンスが少し進んだ。
以前、落ち穂拾いとしてアップしていたきわめてプライベートな雑文の部分。
久々に読み返してみると、それぞれ、それぞれなりの感慨がある。で、ふと思い直してみると、もしかしたら、このような内容こそ、ブログで綴るべきものではなかったか。
この中の、三笠会館のことを書いた文章を読んだ、見知らぬ女性からメールを頂戴したことがある。近々結婚するのだけれど、結納のような会食を三笠会館鵠沼店でするので、サーチエンジンで調べてみたら引っかかったとのこと。
自分たちが新しい人生を踏み出す節目の食事を、このような(ぼくたちの)歴史に関わってきた店でとることが出来ることが、とてもうれしい、といった意味のことが書いてあった。
ぼくも、正直、ちょっと言葉に出来ないほどうれしかった。ああ、このような出会いがあるのだ、これがインターネットなんだ。
その後、彼女とは、二三度、メールの交換があり、彼女が僕たちの結婚式の司式をしてくださったブランチフィールド神父が主任をしているカトリック平塚教会の信徒だということもわかり、結婚式で歌う聖歌のアドバイスなどもした。
会ったこともないし、名前ももう失念してしまったが、ぼくの心の中には、何か暖かな思い出が残っている。
で、何だか中途半端になっている福永陽一郎のことや、まだ書いていない小倉朗のこと、そして、三笠会館を巡るさまざまな思い出など、改めてこのブログで書いてみようか、などと思っている。

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『部首のはなし』(阿辻哲次著)

中国文化史の阿辻哲次さん(京都大学)が、標記の御本(中公新書)を送ってくださった。
ぱらぱらとめくって二三の項目を読んでみると、すこぶる面白い。ここのところ、紙の本とはとんとご無沙汰で、もっぱらインターネットからダウンロードしたラジオ番組の耳学問しかやっていなかったのだけれど、最初のページから少しずつ読み始めた。なるほど、随筆とはこういうものだったな、と改めて思った。阿辻さんご自身の学識と、ご家族や友人知人たちにかこまれた日々の生活と、コモンセンスと言ってもよい世上に対する健全な批判精神が相俟って、読んでいて何とも楽しいのだ。
ちょっと人に話したくなるような知識や小話にも不足はない。悲しいかな、ぼくには、妻や娘ぐらいにしか話す機会はないのだけれど、さぞや、阿辻さん、祇園や銀座でもてるだろうなあ、とうらやましくなった。
なによりも、不思議というか、うれしいことは、阿辻さんの手にかかると、一見無味乾燥な漢字が、生き生きとした命を持ったものに感じられるようになること。例えば、「肉」の項目で紹介されている、「然」という字。「《火》と《犬》と《月》(=肉)からなる会意文字で、本来は犠牲として供えられた肉を焼くことを意味する字だった」(p60)のですって。まさに、旧約聖書のアブラハムが犠牲の羊を捧げる場面を彷彿とさせる。おっと、旧約聖書の世界に漢字があれば、《犬》のかわりに《羊》を配した漢字が作られていたかも。
で、ちょっと思い出したことがある。夏目漱石の『門』の一節。
すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。

この症状は、精神医学の世界では、わりと有名なものらしいのだけれど、近代の病を先駆的に経験した漱石の一面がよく表れていて、すごく印象に残っている。
こう考えてくると、阿辻さんのコモンセンスは、文字を世界と隔絶した無味乾燥な記号として扱う態度とは対極の、文字が人々の世界観としっかり結びついていた幸せな時代を研究しておられることと無関係ではない、という気になってくる。

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アメリカ民主党大会にbloggerが参加

例によって、National Public Radioの番組、On the mediaから
先週(2004年7月25日からの週)は、アメリカのありとあらゆるメディアが民主党大会での大統領候補正式指名に向けたお祭り騒ぎで沸き立っていたわけだけれど。
この大会は、他のあまたのメディアの取材陣とともに、bloggerからの取材申し込みがはじめて認められた、ということで、画期的な大会となった。といっても、取材が認められたbloggerは、200人の申し込みの内30人程度であり、大会全体の規模が数千人の参加者に対して、取材陣が一万人以上だということも忘れてはならない。
さらに付け加えると、民主党の広報関係者は、bloggerを他のメディア人と同列に捉えているわけではない、ということ。ほとんどのbloggerは個人の資格で参加しており、そのことは、blogの本質でもあるのだが、彼らから発信される情報や意見は、編集者の選択眼やや他のジャーナリズムには必ずつきまとう報道倫理の規制をうけていない。このことに対し、the Kennedy School of GovenmentのAlex Jonesは、bloggerたちが、大会に対してよけいな雑音を付け加えるだけではないか、というおそれを表明している。
この報道からも分かるように、アメリカではすでにblogはジャーナリズム論の一環として議論されるまでのメディアに成長もしくは成熟してきている、ということ。
では、日本のblogは。ぼく自身のことも含めて、日本の良き伝統?である私小説の文脈に収まっていくのか、既存のメディアを越えた批評メディアとして育っていくのか。ま、それを決めるのは、個々の書き手と、それに反応する(もしくは反応しない)読み手たちだけれど。

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音楽と日常

なんだか、このごろ、妻とよく音楽を聴きに行く。この2週間ほどを見るだけでも、
7月2日(金)に、ミッシャ・マイスキーとチョン・ミョンフン
7月7日(水)に、昼どきクラシックで横浜室内合奏団
7月11日(日)には、洗足学園の夏の音楽祭
といった具合。自分で言うのも何だけれど、まあ、よく遊んでいるなあ。
それにしても、先日書いたバーンスタインが振ったマーラーの第九シンフォニーに端を発する音楽会行かない症候群はいったい何だったのだろう、などと思ってしまう。
と言いつつ、いささか言い訳めくが、マイスキーとチョンとの演奏会を除けば、ぢつは安いものなのだ。昼時クラシックは、お一人様800円だし、洗足学園の音楽祭は、いわば学園祭みたいなもので、オルガンを中心とするさまざまな組み合わせの音楽、打楽器のアンサンブル、弦楽合奏という3つのコンサートを梯子して、お一人様1000円(その気になれば、3日間+前夜祭の多彩なコンサートを聴き続けることが出来る)。
それでも、それぞれに十分以上に楽しむことが出来た。マイスキーがアンコールで弾いたラフマニノフのボカリースをパイプオルガンとトランペットでまた聴くことが出来たりもして。
演奏会の前後には、それぞれ妻と食事をした。特に、昼どきクラシックの後で行った横浜美術館に入っているビストロのランチは、もう、ビックリするほどのコストパーフォーマンスの高さ。オードブル+メインディッシュ+パン+デザートで、税込み1260円。素敵な音楽と併せて、心の中心からリフレッシュすることが出来た。
そう言えば、この日、ぼくたちは、朝から近くのスポーツクラブに行って、汗を流してから、コンサートに行ったのだった。贅沢と言えば、贅沢な。しかし、安上がりと言えば、安上がりな。
洗足学園の音楽祭に行ったのも、まあ、娘が通っている、ということもあるが、パイプオルガンを弾いた荻野さんの20年以上も前のカトリック藤沢教会時代を知っていて、何だか懐かしい思いがした、ということもあった。
で、想いは20年以上前の、藤沢の音楽状況に引き戻される。
そう言えば、荻野さんは藤沢教会でトランペットの林さんと組んで、コンサートをやったこともあったっけ。今回、荻野さんと一緒にやったトランペットの人は、その林さんのお弟子さんだって、プログラムに書いてあった。
そして、藤沢には、藤沢市民会館というホールがあり、福永陽一郎がいた。
ずっと以前、藤沢市民交響楽団の定期演奏会のプログラムに、雑文を書いたことがある。
若いピアニストがコンチェルトでデビューしたとき。
全部を覚えているわけではないが、その一節はよく覚えている。
「今日、一人の若者がステージに駆け上る」
そのステージは、オイストラッフ、シュワルツコップ、リヒテル、小澤征爾とSFOなどが演奏したステージであり、藤響が毎回定期演奏会を行うステージであり、藤沢市民オペラがその歴史を重ねてきたステージでもあるわけだ。
少なくとも、藤沢市民会館のステージは、ぼくが音楽と関わり合って刻んできた人生の中で、演奏する側としても演奏を聴く側としても、常に音楽生活(ドイツ語にはMusizielenという便利な動詞があるが)の場(まさにTopos)を提供し続けてくれてきた。藤沢市民会館は、生活空間の中で音楽を提供する側とそれを享受する側とを取り持つという日本では希有の出来事だったのだ。
あのNHKホールでのバーンスタイン+イスラエルフィルによるマーラーの第九交響曲の演奏は、そのような生活の場と繋がった音楽とは対極のものではなかったか。
もう一度、昼どきクラシックの話に戻る。
演奏会が終わった後、ホールのチケット売り場には、次回のチケットを購入して帰る人の長い列が出来ていた。その行列自体に、ぼくは、何だかゆったりした昼下がりの時間の流れに身を委ねる心のゆとりのようなものを感じたのだった。

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グールドとトロント

トロントから帰ってきて、例によってOn the Mediaを聴いていたら、グレン・グールドの話題が耳に入ってきた。(スクリプトはここ
そう言えば。グールドはカナダ人で、トロントに住んでいたのだった。
ちょっと、しまった、と思った。しかしまあ、すぎてしまったことを後悔しても仕方がない。
この番組は、なかなか面白かった。
簡単にまとめると。グールドの「コンサートは死んだ」という象徴的な言葉を敷衍していく。
グールドがコンサート会場での演奏を放棄した 理由の一つは、座席による音響の違いにより、音楽の聞こえ方に大きな不公平があること。グールドは、すべての聴衆が平等に均一の音楽を享受することを理想とした。特に、グールドの耳には、コンサートホールの残響は、ある種の夾雑物として聞こえた。
もう一つの理由は、聴衆自身にあった。グールドは、聴衆を恐れていた。聴衆の心の片隅にある、ミスを期待する悪意が、グールドには耐えられなかった。
公開演奏を放棄したグールドは、最新の電子技術を用いた、理想的な一対一の音楽を目指した。デッドな音響のスタジオでオンマイクで録音された音楽は、聞き手の耳には、自分のためだけに演奏されたインティメイトなものに聞こえる。
また、録音された多くの試演を時間をかけて聞き直すことによって、演奏する側にも新たな発見、後編集による、より高度な創造行為の可能性も生じる。
このような姿勢は、従来の演奏スタイルに固執する演奏家たちからは、蛇蝎のように嫌われた。純粋主義者による完全主義者に対する憎悪。
グールドが死んで、もう20年以上経つ。彼の死の前後、彼の最晩年の録音の一つ、バッハのゴールドベルク変奏曲を、ある時期のぼくは、毎晩のように聴いていた。
編集者として、ようやく見習い状態を脱し、自分自身の仕事が出来るようになったころだったろうか。忙しくて、毎晩、帰宅は深夜だった。家族はとっくに寝ている。仕事の緊張感で、頭の芯の部分が変に覚醒していて、目が冴えてしまい、眠るどころではない。
ゴールドベルク変奏曲のLP(そのころは、まだCDは普及していなかった)に、そっと針を落として、スコッチの水割りを手に、いすに腰をかける。一口、口に含んで、そっと目を閉じる。
たいては、表面の間は眠れない。レコード盤をひっくり返し、水割りをもう一杯作り。いつのまにか、眠りに落ちていて、針は自動的に上がり、静寂が訪れている。氷が溶けきった薄い水割りを飲み干して、ベッドに潜り込む。
このような日々が、何日続いただろうか。ゴールドベルク変奏曲以外の曲は、念頭にも浮かばなかった。そもそも、この曲は、ある貴族の安らかな眠りのために、作曲されたと言われている。
ぼくは、グールドの異様に遅いテンポのこの曲の演奏を、深夜一人で独占していたのだった。
それからしばらくして、かなり熱心なコンサートゴーアーだったぼくは、突如として、コンサートに足を運ばなくなった。
きっかけは、バーンスタインがイスラエルフィルと共に演奏した、マーラーの第九交響曲。1985年9月8日(日)、NHKホール。
レニーファンの間では、歴史的な名演として評価の高い演奏会だ。
たしかにぼくも、まさに、金縛り状態で、演奏開始から最後まで、微動だにせずに引きずり込まれた記憶が、鮮明に残っている。
しかし。
この日、ぼくは、一人で渋谷に出かけた。時間が中途半端だったし、一人でレストランに入って食事をするのも億劫だったので、途中のマックでハンバーガーを食べた。NHKホールの周辺では、イスラエルの政策に反対する左翼の宣伝カーが、アジ演説をがなり立てていた。機動隊の警備と、入場の際の厳重なボディーチェック。たまたま小さなアーミーナイフを持っていたぼくは、咎められたらどうしよう、と内心びくびくしていた。
歴史に残る感動的な演奏の余韻に浸りながら、ホールを出たぼくを待っていたのは、週末の渋谷の喧噪だった。若者たちの汗と雑多な音楽。
ぼくには、世俗と隔絶されたホール内の出来事と、日常生活の流れとの乖離が、もはや耐えられないものに思われた。それ以来、15年ほどもの間、ぼくは一切コンサートを聴きに出向くことはなかった。
いそいで付け加えておくが、けっして、ぼくの生活から音楽が消え去ったわけではなかった。アマチュアのオーケストラでの演奏も続けていたし、下手なピアノを爪弾くこともしていた。CDやテレビなどでも音楽は聴いていた。ぼくが拒絶したのは、商行為としての音楽興業だけだった。
グールドについての番組を聴きながら、ぼくは、上記の二つのことを思い起こした。ぼくの小さな体験の意味を、グールドは、夙に意識して、自らの生き方として選び取っていたのだ。
そして。
おそらくは、グールドが演奏音楽のこととして捉えた問題は、じつのところ、西欧近代市民社会と国民国家の問題と、そして、ぼくたちが今直面しているメディア技術の問題とを、先駆的かつ先鋭的に抉り出していたのだと、思うのだ。
マクルーハンとグールドが生きて活動したトロントという町の雰囲気に触れられたことを、ぼくはしみじみうれしく思った。

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カナダとアメリカ(ナイアガラで考える)

カナダのトロントに来ている。もう、7泊している。
Unicode Technical CommitteeとISO/IEC JTC1/SC2/WG2、SC2総会が続けてあって、今回は、ちょっと長めの出張。
しかし、何と言っても、トロントには、カトリック戸塚教会で10年以上も親しく司牧を受けたカーテン神父がいる。だから、トロントで会議があると分かって、妻の幸子も同道して、カーテン神父と会うことをとても楽しみにしていたのだった。
週末、カーテン神父の案内で、ナイアガラの滝に行った。ぼくは、地理的理解力が決定的に欠如していて(要は天性の方向音痴)、ナイアガラの滝がどこにあるかもおぼつかなかったのだけれど、実際、目前に滝を見て、川の向こう側がアメリカだと聞かされると、妙な納得感があった。
「ああ、国境なのだ」
トロントには、アメリカのシカゴ経由で入った。シカゴでは、一旦アメリカへの入国手続きをし、荷物の入念な検査を受けた。9.11以来、空港での安全検査は異様に厳しいものがあるが、その厳しさが、隣国カナダとの間にさえ及んでいることは、いささか驚きでもあった。
カーテン神父の話によると、アメリカ市民のパスポートを持っていても、特にアラブ系の人たちは、不当に厳しい検査にさらされている、という。
トロントで特に目に付いたのは、centreというスペリング。イギリス式。しかし、全般的に発音は、イギリス風というよりも、むしろ、アメリカ風に近いように思えた。
ああ、ここはアメリカではなくてカナダなのだ。この微妙な違いが、カナダの立ち位置を象徴しているように思えた。
トロントは、公園の中に町がある、といった風情で、なにしろ、緑と湖に囲まれた町なのだが、広大な国土の中に日本の四分の一ほどの人口しか住まず、GNPも5分の一ほどなのに、何かアメリカとは全く違った豊かさを感じさせる。
う~ん、カーテン神父の母国カナダについては、いろいろ考えることがありそうだなあ。
フランス語圏の問題もあるし、多民族、多言語の問題もあるし。

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対立時代の言語、政治、文化

npr(National Public Radio)の番組On the Mediaから。
言語学者 Geoffrey Nunberg の新著
Going Nucular: Language, Politics and Culture in Confrontational Times
を巡って。

この本は、同じ週のTalk of the Nationでも取り上げられていたので、きっとずいぶん話題になっているのだと思う。
タイトルになっている”Nucular”という言葉について簡単にまとめておくと。現在のブッシュ大統領は、核のことを”Nucular”と発音する。ところが、父親のブッシュは、”Nuclear”と正しく発音する。ブッシュジュニアは、幼少のころから、この正しい発音を聞いて育ったに違いない。しかし、どこかの時点で、ブッシュジュニアは明確な意識を持って、発音を変えたのではないか、と著者は考える。そして、著者は、ブッシュジュニアがこの発音を選び取ったことに、現在の、強いアメリカ、世界の警察、悪の枢軸、といった言葉と通底する意図を読み取る。(最後の部分は、少しぼくの思いこみが入っている)
で、ちょっと思い当たることがあって。別に個々人が云々ということではないのだけれど。
経済産業省の役人が「なんちゅーか、本中華」というCMでよく耳にする、「チューカ」という言い方を多用することに、あるとき気がついた。もちろん、全員ということではないのだが、霞ヶ関の経済産業省の省舎の中では、けっこう耳につく。
この言葉は、方言研究者に聞けば、即座にどこそこの方言ですよ、という答えが返ってくると思うのだけれど、何か、この言い回しの中に、集団のアイデンティティというかそれとは裏腹の関係にある自分たちを差別化する意識というか、そういったものがあるのではないか。
だれか、「日本の官僚機構とチューカの関係」みたいな本を書いてくれないかなあ。

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ゴリラに癒される(アスペルガー症候群)

先週のLiving on Earth(National Public Radioの一番組)から。
アスペルガー症候群というのは、以前は自閉症とされていた一群の症状で、知的レベルが正常に近い(もしくは、より優れている)人たちで、「高機能自閉症」の仲間、とのこと。
詳しくは、アスペルガーの館を参照のこと。
一人のアスペルガー症候群の女性が、今では、大学で人類学の助教授になっていて、夫も子供もいて、自分の経験を本にまとめた。その女性へのインタビュー。
彼女は子供の時から、自分と他人との境目を一般の人と同じように認識することが出来なかったようで、人との音声言語によるコミュニケーションが極度に困難だった。一方、読み書き能力は非常に優れており、9歳でD.H.ロレンスを読んだり、7学年でカントを読んだり、といった塩梅。
16歳のころ、学校生活を続けることが出来なくなり、中退。ホームレスとしてさまざまな町をさまよう。薬物やアルコールに頼り、自分自身としていられるのは、ダンスホールで踊っているときだけ。
そんな彼女が、ある時、意を決して入場券を購入して、動物園に行く。そこでの動物や植物に触れることにより、彼女は初めて、自分と外の世界との境目をごく自然なものとして認識する。
やがて彼女は、動物園を職場とするようになる。なかでも、コンゴと呼ばれるゴリラとの心の交流は、ちょっとほろりとくる。彼女は、コンゴにえさのイチゴをやる立場にあったのだが、アスペルガー症候群のせいで、イチゴを几帳面に並べなければ気が済まない。ところが、コンゴは、彼女の並べ方など気にせず、どんどん食べていく。彼女が並べたイチゴが足りなくなり、彼女がイチゴを並べようとする手と、コンゴがそのイチゴを取ろうとする手が、重なりあう。
それまで、彼女は、他の生き物が自分の体に直接触れる感覚に極度に苦痛を感じていたのが、コンゴの手の感触をごく自然に受け入れることが出来る。彼女とコンゴは長い間アイコンタクトを続ける。この瞬間、彼女は、コンゴによって生涯経験したことのない癒しを得る。
とまあ、このような話。
多分、彼女がアスペルガー症候群でなければ、コンゴとのこのような感動的な心の交流は得られなかったのだろうな。彼女の話を聞いていると、例えば「対人関係に障害がある」といった言い方は適切ではなく、「自分の外側との接し方がユニークだ」といった印象を持つ。何というか、話しぶりも含めて、とても魅力的な女性に思えてくる。
ちょっと心が癒されて、得をした気分になれた番組だった。

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要求する側の責任ということについて

要求する側の責任ということについて

《愚者の後知恵》巷間有名な「と」本。編集者が紀田順一郎さんも書いてくれる、というので引き受けたら、紀田さんは、小林さんも書くっていうから引き受けたとのこと。それはそれとして、後になって(2004年6月)読み返してみたら、なかなか正論を書いている。今、このような主張が出来るかというと、ちょっと疑問。問題は、社会的、政治的な側面も含め、このころ考えていたよりも、ずっと複雑で根が深いようだ。
1996年1月
電脳文化と漢字のゆくえ(平凡社刊)

厳密な翻刻の必要性とは
古典の翻刻もしくは校訂をめぐる和洋の二つの話題から始めよう。
久しく行方の知れなかった、奥の細道の芭蕉自筆本が最近発見され、時を経ずして写真版による複製も出版された(『芭蕉自筆本 奥の細道』上野洋三・櫻井武次郎編、岩波書店、一九九七年)。この複製本には、編者の一人である上野洋三氏による、「芭蕉の書き癖」という一文が添えられている。氏によると、自筆本の真贋を見分ける際に、原著者の文字の書き癖、中でも著者特有のいわば誤字が、大きな決め手になるとの由。専門家にとっては当たり前のことなのだろうが、芭蕉が「生涯」の「涯」の字を曖昧に記憶してしまい、その過ちを忠実に書き写した曾良本に、自身でわざわざ正しい字形で訂正を入れている例など、非常に興味深く読んだ。
また、「章」の字の書き癖に触れた個所て、「これも芭蕉白身が、この字形を正しいと信じているのてはなく、書き癖でそう書いているばかりであるから、わざわざ怪奇な誤字を作字して活字に翻刻する必要は全くない。」(二一六ページ)という記述に触れ、我が意を得たりの思いを強くした。この自筆の写真製版による複製には、すく下に読者の便を図るため、まさに活字による翻刻か添えられている。実のところ、門外漢の筆者など、この翻刻を頼りにしなければ、芭蕉の達筆を読み下すことは、不可能に近い。
しかし、この翻刻を頼りに原文を眺めていて、おもしろいことに気がついた。芭僅か書いた文字と翻刻に用いられた文字の字形が、必ずしも一致しているわけではない。例えば、冒頭の「海浜にさすらえて」という個所。この「浜」の文字を芭蕉は「濱」に近い字形で(毛筆とこの書籍で用いられる明朝体の字形の相通はあろうが)書いており、翻刻は「浜」の字を用いている。思い立って、手元にあった角川書店版の松尾芭蕉全集(昭和三七年初版、筆者の手元にあるのは、昭和四三年の再版)を播いてみると、案の定「濱」の文字が用いられている。一方、国の字は、芭焦の目撃は「国」、角川本は「國」、自筆本の翻刻は「国」 の字を用いている。
奥の細道一つの例を一般化することは危険ではあるが、こうしてみると、自筆原稿に用いられた字形か、必ずしも翻刻に正確に反映している必要はなさそうである。実際、日本語学、言語学の気鋭の研究者であり、JISの漢字コード策定にも係わっておられる、東京外国語大学の豊島正之氏も、下記のような言及をされている。

過去の文献の学問的に厳密な翻刻では、原本の字体の微細な差を表現する為に、多くの字体区分が必要だという主張かある。 しかし、少なくとも日本語の分野て、厳密を以て鳴る高度に学問的な翻刻である「校本万葉集」、「大慈恩寺三蔵法師伝」(築島裕〕、「室町時代物語集」(横山重)、等、廣・広、爲・為、辭・辞、從・従等をいずれも包摂し、Ⅹ 0208:1997の包摂規準より遥かに大胆な包摂を行っているのは明らかで、勿論、草冠の三画・四画、しんにょうの一点・二点、高・*高*、吉・吉を区別する等は、絶えて無い。これらは包摂する事こそが伝統的なのであり、見掛けの差をそのまま引き写すのを「厳密な翻刻」と呼ぶ習慣はない“(一九九七年五月十六日、印刷技術協会でのセミナー用レジュメより)

目を西欧に転じても、似たような例を田川建三氏の近著『書物としての新約聖書』(勁草書房、一九九七年)で知った。以下、同書よりの要約。

 

現在、新約聖書に係わるすべての研究者は、Nestleと呼ばれる校訂本を用いる。このNestleは、他のギリシャ語の聖書のテクストと同様、いわゆる小文字を用いて組まれている、しかし、Nestleが校訂に用いている初期の写本の大部分は、いわゆる大文字で書かれている。いわゆる小文字が成立したのは、八世紀末から九世紀初頭にかけてのことである。小文字の方か、読みやすいのて、急速に普及したと言われている。 少なくとも、一般の新約学者か日常研究に用いたり、熱心な信徒が信仰の対象として用いるのは、小文字で翻刻された新約聖書てあり、大文字での翻刻は用いない。当然、研究の対象としては、大文字写本は重要だが、この場合は、写真製版による複製もしくは、僥倖に恵まれれば、オリジナルを用いることになる。

 

保存することの目的と要素の明確化こそ
さて、筆者に求められたテーマは、漢字をコンピューターで扱う際の、コンピューターのシステム設計や規格策定を行う側からの解説ということになろう。
結論から先取りすると、現在の技術では、こと漢字の表現に限れは、コストと時間を無視すれは、ほとんどあらゆる要求に応えることができる。しかも、その要求の実現方法は、一般的には複数あり、また、複数の要求の間に論理的な矛盾がある場合、その矛盾の解決は、最終的には要求を出した側に委ねられる。
では、要求、もしくは、要求と表裏の関係にある現状の不満とは、いったい那辺にあるだろう。非常に一般化して述べると、必要な漢字がコンピューターで扱えない、もっと多くの漢字をコンピューターで扱えるようにして欲しい、という一言につきるのではないか。
しかし、それを少しく丁寧に見ていくと、要求は大きく三つの分野に分けることかてきる。
一つ。自らの名前や先祖から受け継いだ土地の名前などを表現する漢字がない。
一つ。過去の文化遺産を電子的に翻刻する際に必要な漢字がない。
一つ。自らの現在の営為としての表現行為に必要な漢字がない。
この三つの要求は、当事者にとっては、それぞれに切実な要求であろう。システムの設計は、一般にユーザーの存在と要求を前提として行われる。われわれ、システムを提供する側には、ユーザーの要求に応える義務かある。しかしまた、潜在的なものも含めて、あらゆるニーズを満たすシステムも、これまた、一般的には存在しない。
漢字コードに関しても、この三つの要求を、ほぼ完全に満足させるものは、あり得たとしても、さまざまなコスト面で無理が生じるのではないかと思われる。そして、要求を実現するためのコストは、直接的であれ間接的であれ、結局はユーザー(もしくは利用機会を与えられない非ユーザーも含めて)に、転嫁されることになる。
最初の、人名、地名に関しては、本稿ではこれをひとまず措くこととする。この問題は感情的な思い入れが非常に大きく、理屈では割り切れない要素が多い。この間題を避けて通るわけにはいかないが、この議論は、本書が想定すると思われる文学作品における漢字使用の議論とは、別個に論じることとしたい。
現在のJIS X O208:1997および、その延長として策定作業が進行している、いわゆる第三水準、第四水準は、おそらくは、「現代日本で、実際に使っている文字を、全て収録する」という方針を踏襲するものと考えられる。これに対応する要求、前記三番目の、「現在の営為としての表現行為」に必要な文字は、ここに全て含有されていることが期待できるし、もし、素案の段階で遺漏があれば、追加修正を要求することは、規格の利用者全てにとって、正当な権利と考えるべきだろう。
この場合、そこで出される個々人の要求が正当なものかとうか、というのが、採否の唯一の論拠となる。この折り、一般的な頻度の議論は、問題にそぐわない。むしろ、その字形に個別のコードを割り当てることに、どのような意味があるか、という点に議論は集約されるであろう。このように集約されたとき、問題は、過去の文化遺産の電子化の議論とも重なることとなる。すでに読者諸氏は、筆者の目論見にお気づきのことと思うが、過去の文化遺産を電子化して保存継承する場合も、冒頭に挙げた写真製版による複製と活字による翻刻との意味合いの相連に類似した問題が存在している。
すなわち、過去の文献を電子的に複製する際、何のためにどのような要素を保存するのか、という問題意識を明確にした上で、システムに対する要求を出していただかなければ、システムの設計、構築のやりようがない、ということなのだ。

文字種の増加によって失われるメリット
ここで冒頭の奥の細道の例を、電子的な問題に置き換えて、具体的に問題を検討していきたい。いわば、電子版の『芭蕉自筆奥の細道』を作成しようというわけだ。
当然、カラーによる原本の可能な限り精密な複写が必要であろう。これは、通常フルカラーのビットマップデータという言い方をするが、基本的には、写真のデジタルデータ版と考えていただければ良い。いま流行の、デジカメのデータと同じようなものである。これにより、芭蕉が後で紙を貼り重ねた個所や、文字を書き加えた個所などを、調べることが可能となる。当然、先に挙げたような芭蕉の書き癖なども確認できる。
場合によっては、赤外線やⅩ線などによる調査の画像を添付することもおもしろいかもしれない。現在の科学技術は、貼り込みの下に隠された文字を浮き立たせることなども、可能になっている。電子的な複写技術は、従来の銀鉛写真に相当するまで解像度を上げるとデータ量が膨大になるという経済的な問題があるとはいえ、印刷による複製に匹敵する精度で、かつ、紙では不可能であったさまざまな表現の可能性も持っている。
一方、電子的な翻刻の場合は、どうであろうか。詳細に検討したわけではないが、岩波版の翻刻は、現在のJIS X O208:1997の範囲で十分可能だと思われる。むし ろ、電子的な翻刻の効用は、一般的な内容の再現に留まらないところにあるだろう。非常に乱暴な言い方だが、岩波書店版の書籍を電子化する場合、翻刻の部分も含めて、画像データとして電子化することも可能である。その場合、単にある単独の書物を読む、という点から見れば、それがコード化されたものであると画像データであるとの質的な相違は存在しない、と断言してもよかろう。
時に巷間耳にする「作家は著者校正などを通して、活字に組まれた形を著者の最終的な自己表現と考えるから、その最終的な活字の形を再現されないと、自己表現としては完結しない」という議論がある。これについても、もし、そのような再現性が必要なのであれば、画像データとして保存再現すれば良い。電子時代になる前も、グーテンベルクの四十二行聖書に始まり、書籍の精緻な写真製版による複製の例は、枚挙に暇がない。では、翻刻をコードとして行うことのメリットは、那辺にあるのであろうか。
これは、検索の利便性が圧倒的に高まる、という一事に尽きる。他に、縦組みや横組みの遠い、文字の大きさの変化、書体の変化、引用などが自由に効率的に行えるというメリットもあるが、検索の利便性に比べられるものではなかろう。
この検索の可能性と、漢字の種類の多様性が、実は、相反する要求になる。漢字の種類の増加は、必然的に、検索の利便性を低める方向に働く。
具体的な例で述べよう。先ほどの奥の細道の例で、電子的に翻刻された状態では、角川版の芭焦全集と、岩波版の自筆本との間では、本来ほとんど同じであるはずの芭焦の本文が、濱と浜、國と国などの個所で異なってしまう。翻刻が統一された原則で適切になされていれば、従来の全集本と自筆本による翻刻との本文の相違を電子的に検索することなど、即座に (おそらくは、非常に一般的なパソコンでも、数秒で)可能なことてある。また、浜と濱の混在は、「松尾芭蕉と石川啄木における浜のイメージの相違」といった課題か設定されたとしたら、濱を用いた電子テキストの検索を不可能にしてしまう。
急いで付け加えるが、このような問題には、一応のシステム的な解決策が用意されている。いわゆる異体字関係にある國と国、濱と浜などの対応関係を前もって登録しておき、「浜」の検索要求が来た際に、「濱」も同時に検索するようにすればよい。適切な要求か明示的に示されれば、その解決策を提示することは、多くの場合不可能ではない。
このようなわけで、検索の利便性を維持しながら、漢字の字種の増加を図るのであれば、異体字関係の把握と、それを表現するための電子的なメカニズムは必須のこととなる。このような視点を持たない、微細な字形の相違にのみ拘泥した文字種の増加は、混乱とともに電子化のメリットの多くの部分を失わせることにもなる。

規格の存在意義を失わせないために
実は、検索の問題の背後には、情報の交換という、より本質的な問題が存在する。すなわち、「ある符号によって表される文字が、情報を送る側と受け取る側で同じである」という了解ないしは保証が必要である、とでも言えようか。
この情報交換の問題は、広く言語一般にも成立する。いくら自分がある表現にある意味を込めたつもりでも、それが受け取る側に伝わらなければ、コニュニケーションは成立しない。この送り手と受け手の意味の共有を支えるのは、ある言語を共有する社会全体の無形の合意である。文字や言葉に関わる規格とは、このような社会的な合意を、健全な蓋然性を伴うような形で、明文化したものと言えよう。そこにコンピューターや通信という媒介物が伴うことにより、適用範囲の限定や、ある種の妥協が不可避とはなるが、約束事を明確にすることにより、限定された範囲では、確実にコミュニケーションが保証されることとなる。
では、この限定された範囲を逸脱したものはどうなるのか。思えば、洋の東西、古今の別を越えて、創造的な行為とは、常に保証された情報伝達=コミュニケーションを逸脱することによって、生まれてきたのではなかったか。言語は、時代や地域によって、常に変化していくものである。そして、文芸作品を初めとする創造的な営為こそが、そのような変化を切り拓いてきたのではなかったか。一方、規格と呼ばれるものは、総体としては、この変化に対して、抑制の方向に働く。しかし、規格が、社会の変化とは無関係に硬直化してしまったのでは、規格自体が社会的な存在意義を失うこととなる。規格が社会的な機能を全うするためには、変化を変化として認めたうえで、規格に対する要求を明確な社会的合意として形成していくための、積極的で建設的な議論が、なによりも大切なことなのだ。

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成都で米国産牛肉を食す

国際文字コード標準化の会議で、中国四川省の省都成都に来ている。四川料理の辛さは聞きしにまさるものがあり、日本からの同行者一同、二日目の昼食の火鍋と夕食の小皿料理までで完全にギブアップ。
3日目の夕食は、軟弱者と思いながらも、ホテルのコンセルジュ推薦の西洋料理の店に出向いた。
メニューに英語の記載があるだけで、なんともほっとした気分になる。中で目を引いたのが、米国産の牛肉。いまや、BSEのせいで、日本では食すことが出来ないので、話の種にと思って、注文した。ごく普通の米国牛のステーキだった。
それにしても、今回の日本での米国産牛肉騒ぎは、いったい何なのだろう。
とても単純な疑問なのだが。
ある日、米国でBSEに感染した牛が発見された。
日本は、ほぼ即座に、輸入禁止の措置を執った。
しかし、すでに輸入されていた在庫については、何の措置も執らなかった。
結果的に、吉野家などの牛丼店は一時的なブームに沸き、在庫の払底と共に、他のメニューへの転換を迫られた。
ぼくが不思議に思うのは、日本の行政は、どうして、米国産肉の輸入禁止措置を執ったのに、すでに輸入された流通在庫には、何の措置も執らなかったか、ということだ。
だって、BSE汚染の潜在的な可能性は、すでに輸入された肉も、これから輸入される肉も同じではないのか。これから輸入される肉が危険ならば、すでに輸入された肉も危険なはず。それなのに、日本の行政は、国内の流通在庫には一切手を付けることをせず、消費者に至っては、潜在的にBSEの危険性をはらむと思われる牛肉に蝟集して消費に励んだ、というわけだ。
挙げ句の果てに、日本政府が米国政府に繰り返している主張は、「全頭検査の問題は、科学的な問題ではなく、日本の消費者の心情的な問題だ」云々。
一方で、BSEが心配だから全頭検査をしろ、と言い、一方で、牛丼店に蝟集する日本の消費者、っていったい何なのだろう。また、そのような矛盾した行動を取る消費者の動向に唯々諾々と従う(ように振る舞う)日本の行政って、いったい何なんだろう。
不思議だなあ。
そのうち、米国産牛肉を使った牛丼を中国で食べるツアー、とかが企画されたりして。

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成都で(言葉と国境)

国際符号化文字集合(UCS)の漢字部分の標準化作業を担当するIRG(Ideographic Rapporteur Group)の会議で、中国は四川省の省都、成都に来ている。
泊まっているのがチベットホテルという名前なのだが、この成都は、麻婆豆腐発祥の地というばかりではなく、チベット自治区の入り口にも位置しているそうで、空港にはトレッキング姿の日本人ツアー客の姿も散見される。
それにしても、中国は聞きしにまさる多言語国家で、よく耳にする北京語、福建語、南京語など、中国各地の方言だけではなく、チベット、モンゴル、タイ、朝鮮半島などと接する地域の少数民族の言葉も含めると、インドもびっくり、というほどの言語と文字がある。
文字コードの標準化、という局面でも、中国は少数民族文化保護政策との関連で、さまざまな、提案をしてくる。イ文字(Yi Script)というのはすでにUCSに入っているし、Dai Script(タイ文字の類縁)やチベット文字の新提案、IPA(国際音声学会)記号への追加など、積極的な動きをしている。
まあ、そうした中には、昔台湾にやってきたキリスト教の宣教師が、ビンナン語に二つある”O”の音を書き分けるために使ったという、右上に付ける点(COMBINING RIGHT DOT ABOVE)を巡る、台湾との小競り合い、といったものも含まれてはいるが。
で、今日、ぼくが考えたいのは、そのような文字コードの些末な議論ではなく、もっと根源的な、言葉と文化の問題なのだ。といっても、田中克彦御大や、三元社から刊行されている『ことばと社会』の向こうを張ろうといった大それたものではない。
最近AFN(American Foces Network、以前はFENと呼ばれていた米軍放送)やインターネットサイトでよく聞いているNPR(National Public Radio:http://www.npr.org)で耳にしたあるコメンタリーのことだ。
幸い、このコメンタリーも、同サイトにアーカイブされているので、実際の音声を聞くことが出来る。
http://www.npr.org/rundowns/rundown.php?prgId=2&prgDate=17-Feb-2004
のページにある、下記のストリーミング。
Commentary: The Gift of Silence in Asian Conflict
Even though both of her parents come from India — and speak multiple languages of the region — commentator Angeli Primlani was raised speaking only English. While she initially felt disconnected from her heritage, Primlani has come to believe her parents gave her and her siblings a gift by allowing them to form their own culture.
このセクション全体のスクリプトも有料ではあるがダウンロードすることができる。
本当は、全文を試訳してみたのだが、NPRは著作権を主張しているので、このアップロードは控えることにする。その代わりに、簡単に要約すると。
コメンテーターの女性は、インド=パキスタン国境付近のシンディ(言語名にも使われている)と呼ばれる一族の難民二世でシカゴ在住。姉妹が一人いる。
彼女たちが幼いころ、両親は、両親の母語であるシンディを教えてはくれなかった。彼女たちはもっぱら英語で育てられた。
ある時彼女は両親にその理由を尋ねる。
父親の返事は、しごく曖昧なものだった。
「シンディは滅びるに任せるしかないかなあ」
So, I asked, why didn’t they teach us their language, Sindhi. `India has too many languages,’ my father said. `Let’s let this one die.’
実のところ、両親の思いは、娘たちに自分の世代の母語を伝えないことによって、何代にもわたって続いてきた民族紛争(≒言葉と宗教の違いに起因する争い)の連鎖を断ち切ろう、とするところにあった。
う~ん。究極の選択だなあ。自分たちの母語や文化を守るために、命を賭して戦う人たちがいる。ある国家がその版図を拡げる手段として植民地の人たちに母語とは異なる言語の使用を強要してきた歴史がある。今も、言葉と宗教の違いによる争いは絶えることがない。
このコメンテーターの両親は、自らの母語=文化を捨てることによって、平和を選び取ろうとしたのだ。ぼくは、この判断の可否を論ずることは出来ない。ただ、この両親の限りない哀しみと娘たちへの愛情を思うばかりである。
翻って。
昨今、幼児期から自分の子供に英語を学ばせる親が増えているという。インドや中国などでも、類似の状況はあるようだ。
この親たちは、上記のシンディ親子について、どう思うだろう。
ちなみに、このコメンテーターの英語の発音は、非常に明晰で知的である(とぼくには聞こえる)。

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