門前の老いた子羊

先般、知人から心に刺さるメールをもらい、その返信に、あまり脈絡もなく、漱石の「門」の一部を引用した。

彼は平生自分の分別を便(たより)に生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは、信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立む(たたずむ)べき運命をもって生まれて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の道へ引き返す勇気を有(も)たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

メールにも書いたのだけれど、ぼくは、「門」がこの部分で終わったように記憶していた。最初に読んだのは多分高校生のころで、数年前にも江藤淳の「漱石とその時代」を読み進めながら、漱石の主だった小説は読み直している。何度も読み直しているはずなのに、記憶ではこの部分で終わっている。というか、この部分だけが記憶に残っている、というのが本当のところなのだろう。まあ、歳のせいもあって記憶力の減退はいたしかたないが、この箇所が「門」のいわばキモであることに疑いの余地はない。漱石は、「それから」や「彼岸過ぎまで」のように小説のタイトルにはそれほど拘りを持っていなかったと言われている。しかし、この「門」に関しては、書き始める前の漱石がどこまで具体的なイメージを抱いていたか措くとしても、「門」というタイトルがあった上で、この箇所に向かって書き進められたことに疑いの余地はない。

「門」の文庫本を引っ張り出してきてこの箇所を引用した後、どういうわけか、「三四郎」に頻出するストレイシープという言葉が頭の中でグルグル回って止まらなくなった。言うまでもなく、ルカ福音書の迷える子羊の箇所。

「ルカ:15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

ヘンリ・ナウエンという神父の著作に「放蕩息子の帰郷」(片岡伸光あめんどう、2019)という名著がある。表紙に使われたレンブラントの絵も印象的。ついでなので、放蕩息子の箇所も引用しておこう。

ルカ:15:11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

ナウエンのこの本の最大の魅力は、放蕩息子の兄の立場にも温かな視線を注いでいるところにある。このナウエンの伝で、福音書には書かれていないが、失われた羊の立場で、このたとえ話の場面を見てみたらどうなるだろう、という妄想が膨らんで止まらなくなった。

たとえば、こんな具合。

子羊はなぜいなくなったのだろう。ただ単に迷子になったのだろうか。そうではなく、羊飼いに見守られて仲間もおり、夜には柵の中で狼からも守られた安穏とした生活と一方でのそこはかとない束縛感、そこからの一時の離脱を目指したのではないか。

ルカのたとえ話では、失われた羊は、無事に見つかったけれど、見つからなかったら羊飼いはどうしただろう。子羊はどうやって夜を過ごしただろう。

なによりも、漱石が「三四郎」で描いているストレイシープは、まさに、群れから離れ、羊飼いの庇護からも離脱した状態の子羊そのものではないか。

ぼくには、「門」で描かれた門前の宗助と「三四郎」で語られるストレイシープが何だかつながっているように思えた。そう思うと、妄想はますます拡がっていって。

羊飼いの庇護から離脱した子羊は、あたりに闇が迫ってきて、狼への恐怖と里心から、囲いの柵のトビラの所まで戻ってきた。トビラは、子羊が帰ってきたときのために、少し開けてあった。しかし、子羊は、トビラの内側に入ることがどうしてもできなかった。夜が明け始め辺りが明るくなってくると、子羊はトボトボと森の中に戻っていった。次の晩もその次の晩も、子羊はトビラのそばで夜を明かし、昼間は森の中をさまよい続けた。

年を重ね、子羊はいつのまにか成長した羊となり、そして老いていった。

子羊は、いつまでも柵のそばと森の中を行き来して命を重ねていった。

おしまい。

ぼくは教会の親しいご婦人などに、ちょっと冗談めかして「ぼくは、熱心な信者ですが、敬虔な信者ではありません」などと言う。冗談めかしてはいるが、じつはホンネだったりして。

ブレーズ・パスカルに帰される言葉に「我疑う故に我信ず」という言葉がある。いうまでもなく、ルネ・デカルトの「我思う故に我あり(Cogito, ergo sum)」のもじり。とはいえ、信仰の本質を鋭く突いているとも言えよう。

そんなわけで、カトリックの信仰(ぼくはある意味筋金入りのボーンクリスチャンです)と新約聖書学に係わるとりとめのない話題をこのカテゴリーで。

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ソラトスでガネーシュのカレーを

相鉄いずみ野線の夢が丘駅に新しくできた大規模ショッピングモール、ソラトス。YYYardという店に、能見台の南インドカレーレストラン、ガネーシュの冷凍カレーが置いてある。

ブラーヴォ❗

さらに、ガネーシュの石原マダムが講師となって、オープンキッチンでのクッキングイベントも計画されているらしい。

ブラーヴィッシモ❗❗

先般、能見台のお店にお邪魔したとき、マダムが「もう緑園都市時代よりも能見台に移ってからの方が長くなったんですよ」としみじみ言っていた。緑園都市のお店が開店したときからの熱烈なファンとしても、感無量だった。

ガネーシュのことについては、以前このブログにも書いた。

ある料理人の死

ガネーシュ復活

ソラトスでのイベントがすごく楽しみ。マダムとも再会したいし。

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変かんふうふ

NHKのノーナレで浮川和宣・初子夫妻が取り上げられた(2021年1月15日)。初子専務から放送日の連絡をいただいて、録画した上で見た。
見終わって、何だかそこはかとない物足りなさが残った。
1989年の初夏に、小学館からジャストシステムに移って以来、1998年に退社した後も、ご夫妻自身がジャストシステムを退社して、メタモジ社を創業されるまで、それこそ、ATOK監修委員会の設立から、同じくATOKの方言対応に至るまで、間近でその開発現場に係わってきた。ATOKの開発とそのデジタル通信環境での日本語の使われ方に与えた影響ってこんなもんじゃないよな、という思いが残った。直裁に言えば、ATOKが社会に与えた影響が描き切れていないという思い。
そんな思いを抱きながら、二日ばかり過ごした。夜中に目が醒めて(歳のせいで毎度のことなのだけれど)、歌舞伎の舞台写真家、渡辺文雄さんの言葉が、忽然と思い起こされた。
「紀信は人を撮るけれど、俺は舞台を撮っているんだ」
渡辺さんとは、銀座の男のきもの専門店サムライで知り合った。いわば、着物についてのぼくの師匠みたいな存在。
舞台写真の世界では、吉田千秋のお弟子さんで、木村伊兵衛の流れを汲む正統派中の正統派。
知り合ってまだ間がないころ、十八世の中村勘三郎が世を去ってそれほど経ってはいなかった。家庭画報にその追悼として載った篠山紀信の写真が強く目に焼き付いていて、その思いを渡辺さんに、少し熱くなって語ったことがあった。
渡辺さんは、ちょっと憮然とした感じで、こう言ったのだった。
どちらがいいとか、悪いとかいった話ではない。そもそも、篠山紀信と渡辺さんとでは、ファインダーを通して見ている世界が、全く異なる、ということなのだ。
そのころ、家庭画報の記事だけではなく、テレビ番組なども含め、勘三郎の人となり、歌舞伎にかけてきた思いは、さまざまに語られていた。なによりも、ぼく自身が、勘三郎の大ファンで、彼の舞台を追って、隅田川沿いの平成中村座やら金比羅宮の金村座やらに出向いたりしていた。家庭画報の写真に、ぼくはそのような、ぼく自身の勘三郎に対する思いを重ねて見ていたのだろう。
知遇を得た直後、渡辺さんは、ぼくに一冊の写真集をくださった。「名残りの花」(マガジンハウス刊)。歌舞伎批評の泰斗、渡辺保さんとの共著で、文雄さんが撮った晩年の六世中村歌右衞門の舞台写真に保さんが文章を付けたもの。
この本が、ぼくにとっては、またスゴイ本で、保さんの文章を読みながら、文雄さんの写真を見ていると、実際には生の舞台を見たことのないのに、歌右衞門がどのような思いを舞台での一挙手一投足に込めていたかが、まさに手に取るように見えてくるのだ。歌舞伎とはこのようなものなのだ、と納得されられる。六世中村歌右衞門がいて、渡辺保さんがいて、渡辺文雄さんがいて、初めてぼくの目の前に拓ける世界。
深夜のベッドの中で、ぼくは、二人の写真家の撮った歌舞伎役者の写真のことを思った。
そのとたん、浮川夫妻を撮った番組に対する、そこはかとない物足りなさは、うそのように消し飛んでいた。
なあんだ、NHKの番組制作者たちは、一太郎やATOKの技術やその社会的影響を描きたかったのではなく、パーソナルコンピューターの黎明期から現在に至るまでその第一線で生きてきた一組の夫婦の生き様そのものを描きたかったのだ。それも、「起業家としての」浮川和宣や「技術者としての」浮川初子ではなく、浮川和宣・初子という昭和から平成を経て令和に生きる稀代の生身の夫婦の今を、丸ごと切り取りたかったのだ。
そんなことを考えながら、ぼくは再び眠りに落ちていた。

3年ほど前のこと。初子専務が、ご自分の手で染めて藍染の着物と羽織を作ってくださった。着物の下前には、御母堂の臈纈染による龍の絵が描かれていて、羽裏には、初子専務による流麗な龍の字が描かれているなんとも贅沢なもの。
お二人は、この着物のお披露目のために、歌舞伎座の公演にまで、ぼくたち夫婦を招待してくださった。至福の時だった。
仄聞するところだと、初子専務は、この後、和宣社長のためにも、藍染の着物を作られた由。コロナ騒ぎのせいもあって、ぼくは、まだ和宣社長の着物姿を拝見していない。

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安全と安心

東京卸売り市場が、築地から豊洲に移転する前後に、小池東京都知事が使い始めたのが最初ではなかったか。記憶違いかも知れないし、寡聞にしてぼくが知らなかっただけかも知れない。

コロナウィルスの蔓延で、日本国中が大騒ぎになったころから、小池さんだけではなく、管総理を筆頭に、与野党を越えて、多くの政治家がこの言葉を口にするようになった。曰く、「日本国民の安全安心のために」云々。

ぼくは、この言い方にずっと違和感を覚え続けている。どうして、「安全」と「安心」が、このように一つの言葉として強く結びつくのだろう。

ちょっと思考実験というか「安全」や「安心」を含む短文を考えてみれば、「安全」と「安心」が全く異なる働きを持つ言葉だということは、一目瞭然のことのように思われる。

「安全性は私どもが保証しますので、安心して空の旅をお楽しみください」

「安全」とは、科学や技術の領域に属する言葉で、「安心」とは心の在り方に関する言葉なのは、明白なことだ。

この二つの全く異なる領域で異なる機能を果たしている言葉が一つに結びつくことによって、現今の日本の政治的な発言(ディスクール)は、いとも奇妙な状況に陥っている。

学生時代(従って半世紀以上前)に、武谷光男の「安全性の考え方」(岩波新書、1967)を読んだ。委細は記憶の彼方にあるが、「マスとしての安全性は確率論で論じることが出来るが、当事者にとっては、(安全性の対偶としての)危険性は、100%なのだ」といった主旨の既述が、妙に記憶に残っている。

ぼくには、武谷は、核物理学、素粒子論を知的バックグラウンドとして持つ、社会主義的な科学論、技術論の論者として、見えていた。

いずれにしても、武谷が、「安全性」を科学技術の言葉として論じていたことは疑い得ない。だからこそ、この当事者にとって云々という言葉が、胸に刺さったのだろう。

一方、「安心」は、まさに、心の領域に属する言葉である。カトリックの許しの秘蹟での司祭の常套句「あなたの罪は許された。安心して生きなさい」は、まさに、「安心」の極みだろう。

安全性が科学的に100%保証されても、安心できないという状況もあれば、何ら安全性についての科学的な説明がなくても、不安を覚えない(消極的な安心)という状況もありうる。

〈安心〉という言葉は、容易に〈安心する〉というサ変動詞になりうる。一方、〈安全〉という言葉は、〈安全する〉といった使い方には、大きな違和感がある。

ぼくが、〈安全安心〉という言葉に、そこはかとない違和感を抱く、理由の一つは、ここいらへんにあるようにも思う。

為政者が、「国民(都民)の〈安全安心〉のために」と言うとき、それは何を意味するのだろう。

おそらくは、「国民(都民)に〈安心〉していただくために、〈安全〉性の向上に尽力します」といったことだろうと忖度する。

しかし、ぼくには、ここに、大きな陥穽があるように思えてならないのだ。

〈安全〉という優れて科学や技術に係わる言葉を〈安心〉という、個々人の心の動きに安易に結びつけることにより、〈安全〉という言葉の背後にある、科学的・技術的な議論をあいまいなものにしているのではないか。

この論点では、野党の〈安全〉の根拠があいまいである、という批判は正鵠を射ていよう。言い換えると、〈安心〉という個々人の心の在りよう、情緒と言い換えてもいいだろう、と結びつくことにより〈安全〉という言葉の背後にあるべき科学的・技術的議論の必要性があいまいになり、〈安全〉という言葉そのものが、情緒的な色合いを強く帯びてしまったのではないか。

このことは、しかし、為政者だけの責任に帰されるべきではないだろう。巷間しばしば議論されるように、日本の社会には、100%の安全性を求めるという、いわゆる安全性神話の性向が強くある。おそらくは、このような性向があるゆえにこそ、為政者側の〈安全安心〉という曖昧な言葉を無批判に受け入れてしまうことにつながっているのだろう。

100%の安全性という、いわば、画餅への希求ともいえる情緒的な反応から抜け出し、!00%とは言えないまでも、社会的コストをも考慮した上でのより高い安全性を求める理性的な議論に移行するためにも、ぼくたちは、為政者たちの言葉の用い方に、もう少し敏感になってもいいのではないかしらん。

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神戸老舗洋食屋伊藤グリルへ(2015年6月5日)

※もう5年も前の記事だけれど。写真を加えて、いまさらながら、公開。

神戸に行った。

神戸には、半世紀も前、9歳から16歳の多感な時代を過ごした。

2015年6月5日(金)

長男に車で羽田まで送ってもらい、10 時過ぎには飛行機で神戸空港に降り立った。

旧居留地をぶらついた後、相楽園を訪れた。

13:00

昼食は、元町駅近くの老舗洋食屋伊藤グリル。

何歳のころかは定かではないが、一度だけ母に連れられて行ったことがある。何を食べたかもよく覚えていない。確か、海老のテルミドールのようなものだったようなかすかな記憶がある。2階に上っていく階段とフローリングの床。食後にロングスカートをはいた素敵なお店のマダムが「今日のデザートはカスタード・プディングです。ちょっと鬆(す)が入ってしまったのですが、いかがですか」と言った言葉だけを、妙に鮮明に覚えている。プリンではなくってプディング。家で母が作るプディングにも、しばしば鬆が入った。それでも、市販のプリンの妙につるつるした舌触りとはちょと異なる舌触りが好きだった。マダムの言葉には、そんなホームメードと地続きの細やかさが感じられたのだと思う。そのプディングの味も全く覚えていない。

妻と神戸にも行ってみたいね、と話すようになって、ウェッブを検索していたら、伊藤グリルがまだ健在だということが分かった。それも、神戸を代表する老舗洋食屋として、すこぶる評価が高い。現在のオーナーは4代目とも。

階段を上り、店に入ったとたん、記憶が蘇ってきた。フローリングの床。角地で二面が窓に。角の席に案内してもらった。

待望の伊勢エビの冷製特製マヨネーズソースは、予約がなければ頼めないと言われて、神戸牛の、ステーキ、ビーフシチュー、ビーフカツレツを頼んだ。すべて旨かった。ソースが三種三様で、肉の料理の仕方と見事に合っている。パンも旨い。特に、シチューのソースに浸して喰うと至福。妻は、やはりステーキが肉の味がよく分かって一番美味しかったと言った。

デザートにクレーム・ブリュレ。上にカシスのアイスクリームが載っている。カスタードクリームは、遙か昔のホームメードの味がした。

午後。北野ホテルにチェックインし、風見鶏の館などを見て回った。

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2016年正月の歌舞伎やら落語やら

今年の正月は、いかにも贅沢に過ごした。別に大枚をはたいたわけではないが。

大晦日は、昔からなじみにしている保土ケ谷の木村庵と新しく緑園都市に出来たともしびという蕎麦屋兼居酒屋のそばを一折ずつゆでて、マグロの剥き身を共に喰った後、恒例のジルベスターコンサートをみなとみらいホールで。

元旦は、教会に行った後、巌生と龍二の家族が襲ってきておせちとお雑煮。

2日は、三菱一号館美術館でプラド美術館展。帰りに東京駅のグランフールに新しく入った今半で牛丼を食べようと思っていたけれど、あまりの混雑に断念。大丸で柿安の焼き肉弁当を買って、電車の中で食べた。

3日は、次男の家族と生まれて初めて鶴岡八幡宮に初詣。じゃがバタを初めとする屋台のB級グルメを堪能した。その後、幸子の実家で長男家族と落ち合って、まったり。

9日(土)は、鎌倉芸術館で、志ん輔さん。佐々木政談と火焔太鼓。どちらも好演。

10日(日)に、新橋演舞場で、花形歌舞伎。車引きと弁天小僧、それに、海老蔵が復活させた七つ面。勘三郎、団十郎、三津五郎と、人気も実力も兼ね備えた役者が一度に抜けて、まあ、取り残された大御所たちも大変だとは思うが、何だか歌舞伎座とか、ポッカリ穴が空いた感は否めない。むしろ、海老蔵や猿之助の世代が頑張っているなあ、と。この日は、獅童もよかった。

17日(日)、幸子がスポーツクラブの仲間からもらったチケットのおこぼれで、浅草歌舞伎。橋之助や彌十郎、錦之助らの息子たちが毛抜と川連法眼館を熱演。浅草公民館近くのヨシカミでカツサンドを買って行って、幕間に食べた。ヨシカミは、老舗の洋食屋ということで、観光客に大人気。店で食べようと思うと60分待ち、とのことだったが、持ち帰り用は、丁度出来上がったばかり、ということですぐに購うことが出来た。歌舞伎座でカツサンドを食べようとは思わないが、浅草でそれも若手の熱演、ということで、なかなかいい組合せだったなあ。

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神奈川県立近代美術館(鎌倉館)と天ぷら大石

2016年1月15日(金)

神奈川県立近代美術館鎌倉館が、1月一杯で閉館になり取り壊される。見納めに、混雑を覚悟で行くことにした。

とはいえ、週末を避けて、金曜日の開館と同時に入館。でも、もうチケット売り場に列が出来ていた。

1月2日に次男の家族と一緒に、生まれて初めて鶴岡八幡宮に初詣に行って、ものすごい混雑の中で、じゃがバタなどの屋台飯を堪能したばかりだった。

鎌近が出来たのは、1951年。ぼくたち夫婦が生まれた年でもある。展示されていた収蔵品(ごく一部の代表作)に添えられた解説文の端々から、ぼくたちが生きてきた時代のさまざまな出来事が思い返されて、感無量。建物や設計者の坂倉準三がデザインした家具調度品もまた良かった。耐震対策が出来ないという理由で使われていない新館に入れなかったのがちょっと残念。

少し時間があったので、別館にも足を延ばした。ここで思わぬ拾いもの。

イサム・ノグチと魯山人の交友関係。イサム・ノグチが山口淑子と結婚した当初、鎌倉の魯山人工房に寓居して新婚生活を始めたとのこと。そして、陶芸もやっていたとのこと。

この工芸品を中心とした別館の展示物の中に、パブロ・ピカソが焼いた絵皿が一点あった。どっかで、大量のピカソの絵皿作品を見たっけなあ、と思ったら、昨秋訪れた甲府の山梨県立美術館だった。

http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/specialexhibit_201509.html

響子(娘)のお姑さんと幸子と三人で、勝沼のワイナリー巡りをした際、訪れた。眼目は、ミレーを中心とするバルビゾン派の絵だったのだけれど、企画展でピカソをやっていた。正直なところ、絵画作品はイマイチだったように思われるが、絵皿はよかった。純粋美術作品としての絵画や彫刻と工芸品を敢えて区別して論ずることの愚を、まざまざと思い知らされた。

おっと、鎌近のこと。

長男の巌生がまだベビーカーに乗っているころ、幸子と岳父英次とともに鎌近を訪れたことがある。

岳父は、デッサンのための木炭を焼くことを生業としていたのだが、美大を卒業した画家でもあった。絵が高く売れたという話は聞いたことがなかったが、数年に一度は、銀座の渋谷画廊で個展を開いていた。鎌倉の画家たちとの交流もあったようで、高田博厚の知遇も得ていたらしい。

その岳父が、「高田さんのエッセイによると小町通りに旨い蕎麦屋があるらしい」という。ははん、と思った。一茶庵だ。小林勇の『一本の道』だったか『山中独膳』だったかの跋を高田博厚が書いている。これがすこぶるいい。曰く。「鎌倉の小町通りに新しい蕎麦屋が出来た。ぶらりと入ってみると、若い夫婦がかいがいしく働いている。舌代の文字が又いい。『だれが書いたの』と聞くと『小林勇先生に書いていただきました』との返事。むべなるかな。」この時点で、小林勇と高田博厚には互いに面識がなかった。後に、高田が小林の絵の個展に出向いた際、初対面の開口一番、高田が「あんたの字を鎌倉の一茶庵で見たよ」と言ったら、小林が間髪を入れず「だったら、あんたとおれとは、その時から友だちだ」と答えたという。

岳父は、この跋が後に高田の随筆集に収められたものを読んだようだった。

しかし、小町通りには、件の蕎麦屋が見当たらない。しかたがないので、段葛にあった適当な蕎麦屋に入った。蕎麦はまあまあだったけれど、アルバイト風の女店員が、天ぷらの喰い方を上から目線で指導するものだから、ちょっとムカっと来て「湯桶をくれ」と言ったら、湯桶も知らない。店主と思われる男が、慌てて「そば湯、そば湯」と耳打ちしているので、興が冷めた。

後で知ったが、そのころは、鎌倉の一茶庵は、大鳥居の横に移転していて、観光客相手で大繁盛していたよし。

専修大前にあった一茶庵に行った折に、女将に鎌倉一茶庵のことを聞いたら、「のれん分けです」と、ほとんどそっぽを向いて答えた。けんもほろろとはこのことだ。

そんなわけでもないが、鎌芸ともなんだか随分長い間ご無沙汰してしまった。大鳥居前の一茶庵には、結局一度も入らずじまいだった。鎌倉には知人もいるし、時々は、食事をすることもあるが、大抵は少し駅から離れた谷戸の奥だったりして、歩いて行くにはちょっと不便だし、車で行くとなると駅の周辺は年がら年中混雑している。

帰りに、大鳥居前の食べ物屋で旨そうなところ、と当たりを付けていた大石で天ぷらを喰った。すこぶる旨かった。店は、週日の昼間だというのに結構客が入っている。一人、常連客とおぼしき男性が、天丼を注文した。横目でチラッと見ると、これがまた旨そうだった。コースの方は、それなりの値段がするし、天丼だって安い、というわけではないのだが、ネタもたくさん乗っていてね。電車で鎌倉に行く楽しみが出来た。

でも、次に行く時には、鎌芸はもうない。

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帰燕と日フィル定期

最近、やっぱり物忘れが進んでね。行ったばかりの音楽会のこととか、すぐに忘れてしまう。自分の備忘のために、簡単なメモだけでも残しておこうと思って。

 

2016年1月23日(土)サントリーホールで日フィルの定期演奏会。

小林研一郎の指揮で、リムスキー・コルサコフのシェーラザードとストラヴィンスキーの春の祭典。

特に、春の祭典が、ものすごい力演だった。いつもはシンバルで名演を聞かせてくれる福島さんが、今日は大太鼓で、これがまたすこぶる付きの名演だった。まるで大太鼓協奏曲。この大太鼓が映えることで、ストラヴィンスキーが目指したであろう原初的な生命の躍動としてのリズムがすごく立体的かつ直接的に身体に伝わってくるような感じ。曲が終わって、ファゴットを初めとする管楽器のソリストと共に、銅鑼をたたいた遠藤さん共々、コバケンが立たせて、聴衆の熱烈な拍手を受けたのには、グッときたなあ。

学生時代、大学のオケに入って最初の演奏会が、コバケンの指揮だった。まだ、ハンガリーのコンクールで優勝する前。新入生のぼくの出番は、一曲目のマイスタージンガー序曲の二発しかないシンバルだけだった。演奏会が終わって、舞台の袖に引っ込んだところでコバケンが近づいてきて「シンバルよかったよ」と言った。その一言で、ぼくは音楽の魅力、特に打楽器の魅力に引きずり込まれた。

演奏会の前、帰燕で食事をした。

ぼくたち夫婦は、普段は日フィルの横浜定期に通っているのだけれど、演奏会当日の都合が悪かったり、コバケンや山田和樹さんなどが東京だけで指揮する回などは、チケットを振り替えてサントリーホールに聴きに行く。

その際、食事をどこで食べるかというのが、ぼく的には楽しい悩みなのだけれど。カラヤン広場に面したバッカナールは、本当にパリのカフェみたいで定番。ぼくはいつも、フレンチフライがたっぷり添えられたステーキを頼み、幸子はだいたいサラダ。二人でそれらをシェアする。バッカナールは、紀尾井町のホテルニューオータニにもあって、先日、紀尾井町でバロックオペラを観たときにも行ったし、同系列のラ・クラスというブラッスリーがみなとみらいホールの近くにあって、ここにもよく行く。

で、帰燕は都合二度目。一度目は、初めてだってこともあり、土曜日限定のミニ会席を頼んだ。すこぶる旨くて量的にも充分だったのだけれど、隣のテーブルの客のコースの方が品数も多くって、ちょっとうらやましくなって、今回は会席料理のコースを頼んだ。

12時の開店と同時に入ったのだけれど、次々と予約の客が入ってきて、ほんとうにあっという間に満席(カウンターの二人だけは12時半の予約)。

 

それにしても旨かったなあ。どの皿も奇をてらうところが全くなくって、素直って言うか自然体っていうかスーッと入ってくる感じ。でも、どの素材もすごく吟味されていて盛りつけの隅々にまで神経が行き届いている感じ。カウンターで板長さんが刺身やら八寸やらの盛りつけをするのを見ているだけでも、ワクワクして見飽きない。

最後の方、2時の開演時間が迫ってきて、食事(鯛飯)とデザートがちょっと忙しなくなったのが、ちょっと残念。次回は、前もって、1:45に出られるように、って頼んでおくことにしよう。

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IVSのテスト

IVSの環境もずいぶん整ってきたので。

AJ1-6、MJ、それと、近ごろ文字情報技術促進協議会が公開した暫定私用フォントを用いたテストシートを作ってみた。

 

IVSテストシート(含暫定私用外字)PDF

IVSテストシート(含暫定私用外字)Pages

IVSテストシート(含暫定私用外字)HTML

IVSテストシート(含暫定私用外字)docx

 

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小倉朗交響曲ト調

2013年12月6日(金)日フィル定期。小泉和裕指揮。サントリーホール。

他に、ベートーベンの2番と7番のシンフォニー。

普段行っている日フィル横浜定期を振り替えて、聴きに行った。

この曲は1968年の作曲。ぼくが、小倉朗と親しく交わるようになったのは、大学の2年生(この年、次女の令子さんが1年遅れて同じ大学に入学してきた)の1971年以降なので、ぼくはこの曲を少なくとも生演奏では聴いたことがなかった。その後のヴァイオリンコンチェルトやチェロコンチェルトなどは、ほとんど初演を聴いている。

それにしても。やはり冷静に聴くことは出来なかった。リズム、メロディ、音色のいたるところに、ぼくが接した小倉朗という存在そのものが浮かび上がってくる。特に、藤沢市大庭の旧小倉邸で接したころの小倉朗その人の表情とバスバリトンの声の響き。

「タツオくん、君も、存外ペダンティックだね」という、今に至るまで心の奥にトゲのように突き刺さって抜けない人生の警句。

ぼくが、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタのアナリーゼのまねごとのようなことをしていて、最初の楽章、8分の9拍子のリズムを、どう捉えていいのか分からずに投げかけた質問への答えだった。

この一言は、加藤周一が『羊の歌』の中ですくい上げた

「効果をもとめたってつまらねえ」

というベランメエの一言と相通じるところがあった。

ぼくが、「加藤周一さんが『羊の歌』で小倉さんのことを書いていますよ」と言った。しばらくして、小倉さんは、当時刊行されていた平凡社の加藤周一著作集の月報にこのいきさつを「鷹の目」と題して書いた。さらに、「これを読んだある友人が、『あれは君の喋りよりもっと小倉だ!と、感激していた。』」とも書いてくれた。この《ある友人》は、ぼくのことだ。涙が出てきそうになる。もう、40年以上も前のこと。

この「効果をもとめたってつまらねえ」は、ぼくの今に至るまでの生き方の指針となった。

この文章を採録したくて、ぼくは、小倉さんの最後の著書となる『なぜモーツァルトを書かないか』(小学館創造選書)の企画をまとめ、刊行にまでこぎつけたのだった。

小倉朗没後20年を記念する演奏会で、高橋悠治さんがこの本に収められた「竹」という文章の一部を読んでくださったときにも、ぼくは思わず叫びそうになった。「ぼくが企画編集した本だ」

交響曲ト調を聴きながら、ぼくの胸には、そのような若き日々の思い出が、次から次へと蘇ってきていた。小倉さんの音楽の一つの特徴である日本の民謡をモチーフとした切れ味の鋭いリズム、そして、後期の作品に特有な絵で言えば点描のような淡い音色の移ろいが綯い交ぜになって流れていく。気がつくと、曲は第4楽章のコーダに突入していた。

大きな拍手。誇らしげで満足げな指揮者と楽団員。新曲の初演だったら、指揮者が手を目の上にかざして、客席に作曲者を探し、舞台の上に招き上げるところ。でも、客席には小倉朗はいない。そう、あたりまえだけれど、ベートーベンもいない。

音楽とは、文化とは、そういうものだ。リチャード・ドーキンスがミームという言葉で伝えたかったことは、きっとこういうことなのだろう。ぼくの中で、小倉朗は確実に生き続けている。

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ホテルで朝食プロジェクト(箱根ハイアット編)

11月15日(金)

久々に、ホテルで朝食プロジェクトを敢行。強羅のハイアットホテルへ。半端なくゴージャスなリゾートホテル。メインダイニングで、朝食ブッフェ。卵は、オムレツやスクランブルを料理して、テーブルまで運んでくれる。まあ、値段も3300円と、半端じゃないけれど。

ホテルで朝食プロジェクトの後は、美術館に向かう、というのが、何となく定番になってきていて。この日も、ポーラ美術館へ。箱根のホテルで朝食プロジェクト、ということでは、芦ノ湖畔の景色と散策、という付加価値部分で、プリンスホテルの方が、ちょっと有利かしらね。トリエンナーレも含めて、横浜美術館に行く時の、ホテルニューグランドも、結構いけている。

 

「モネ、風景をみる眼」という企画展。上野の国立西洋美術館との共同企画。一民間美術館が、日本を代表する国立美術館と対等に張り合って共同企画を催すというのも画期的。展示劈頭の二枚のボート遊びの絵だけで圧倒されてしまう。一通り展示を見た後で、前日がモネの誕生日ということで催された、学芸員による麦藁積みについてのガイドツアーに参加。その後、もう一つの企画であるアールヌーボーのガラス工芸品のコレクション。モネの展示にも、ロダンの彫刻などに混じって、さりげなくガラス工芸品の一部が置かれていたり、ガラス工芸品の方には、ゴッホや黒田清隆の絵が飾られていたり、美術品と工芸品との垣根を取り払おうという積極的な気概が感じられて、気持ちいい。

ポーラ美術館は、新しく周辺の遊歩道を整備したのだけれど、生憎の雨模様で、散策は断念。

湯本の方に下って、これまた新しく出来た箱根湯寮という日帰り温泉施設で、一風呂。湯本の駅の裏側の塔之澤温泉。ちょっと坂を上っただけで、森閑とした雰囲気になる。露天風呂からも折り重なる木々の先に箱根の山が遠望できて、なかなか。

最後は、以前から行ってみたかった鯛料理の瓔珞。瓔珞の鯛茶は、以前、横浜そごうの物産展で購入したことがある。食べてみて、じつにおいしかったので、一度は、訪れたいと思っていた。先付け、八寸、鯛のあら煮、卵豆腐の揚げ出し、鯛茶、という流れ。どの一品も、手が込んでいるというわけではないのだけれども、余計な外連がなくて、じつに旨い。特に、鯛のあら煮から卵豆腐の揚げ出しへの流れは、秀逸だった。

胃袋も眼も大満足の小旅行だった。こんな贅沢も悪くはない。

 

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『メディアとしての紙の文化史』

ローター・ミュラー著

三谷武司訳

東洋書林

 

知的興奮に満ちた本。

マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を踏まえながら、はるかに広い視野に立つ。批判的継承という言葉がこれほど適切な例もまれだろう。

全体的な評という点では、巻末の原克氏による解説が間然とするところがない。本書を購わなければ読めない解説ではなく、書評として発表されれば、きっと売り上げ増につながったのに。

ちかごろ仲間内でやっている”Project Beyond G^3″という研究会の内容と、洋の東西を隔てて呼応しているのが、何とも楽しい。

http://www.ebook2forum.com/tag/脱g研究会/

 

ぼくは、2個所ばかりに絞って。

一つ。トランプが印刷機発明以前の紙を用いたメディアとして重要な働きをしていた、という個所(本書では、2-2)。メディアとしてのトランプという視点が、あの楽譜出版で有名なライブツィッヒのブライトコップフの二代目によって書物としてまとめられていた、という。

ぼくは、この個所を読みながら、ビゼーのカルメンを思い起こしていた。例の、第三幕のトランプの三重唱。ここで、カルメンの死の予兆が暗示されるのだけれど、まさに、トランプが冥界と現世を繋ぐメディアとして機能している。

そう言えば、学生時代に、タロットカードについて知りたくて、種村季弘さんの著書などを読みあさっていたこともあったっけ。

となると、日本の花札や貝合わせなどが果たしていたメディアとしての役割なども気になるなあ。

もう一つ。ドン・キホーテの第二部。ドン・キホーテに登場する著者(メタフィクションでのフィクションとしての著者)が、市場でドン・キホーテの冒険の続編に出会うところ。アラビア語の読めない著者に代わって、ノートと古い紙の束を読んでいた男が、突然笑い出す。

「ノートの欄外にある書き込みがひどく面白い」というのだ。曰く「この物語に頻繁に登場するドゥルシネーア・デル・トボーソという女は、豚を塩漬けにすることにかけては、マンチャ地方のいかなる女よりも腕ききだと言われている」といったような。

まあ、ぼくには、この欄外の書き込みがどのように面白いのかは、イマイチよく分からないが。メタフィクションに引き込む装置として手書きノートのそれも欄外を使うなんて、セルバンテスという人はなんとしゃれたことをするのだろう。このエピソード一つで、十分元が取れたような気がした。

 

 

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