稲垣良典の「神とは何か」

先般、稲垣良典の「神とは何か」を読んだ。読み終わってから、稲垣氏の死を知った。もう2年以上前(2022年〈令和4年〉1月15日)に亡くなっていた。氏の畢生の大事業だったアキンのトマス「神学大全」の全訳には、手も足も出なかったが、氏のいくつかの著作には目を通していた。敬虔なカトリック信者でもあった碩学の著作には、学生時代以来の行きがかり上(ぼくは荒井献の本当に不肖の弟子だった)プロテスタント系の聖書学者による書物を読むことが多かったなかで、ある種の救いというかより所というか、カトリックの聖職者ではないカトリックの信仰を持った研究者による信頼できる書物、みたいな感じで、畏敬の念と一方的な親近感を持って接してきた。

ちかごろ、ミサのおりに唱えられるニケアコンスタンチノープル信条(ローマ教会の洗礼信条だったいわゆる使徒信条でもいいのだが、なぜか近ごろはニケアコンスタンチノープル信条が唱えられることが多い)の文言が気になってしかたがない。まあ、5世紀ごろ成立したといわれ、この信条の成立を契機に、正統と異端との境界が明確になったともいわれているわけで、カトリック教会正統の拠り所になっていることも理解できる。しかし、みなさん、この信条を字義通り信じているのかしら、みたいな疑問も持ってしまう。

そもそも、

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、見えるもの、見えないもの、
すべてのものの造り主を。

という劈頭の宣言からして、よくわからない。5世紀の信徒が信じると宣言し、そして、現代の信徒がその言葉を復唱することによって宣言する信仰の対象である《神》ってそもそもどのような存在なのだろう。対象がはっきりしなければ、信じるも信じないもないだろうに。

といったようなわけで、またも、老いた子羊の彷徨が始まる。

そんな折、たまたま稲垣氏の「神とは何か」が目に留まり、表題と著者にひかれて、アマゾンでプチった。

読み始めたが、正直なところ半ば過ぎまではどうもスッキリしない。「知識」と「知恵」の違いとか言われてもねえ、みたいな。

ところが、半ばを過ぎたあたりから、俄然、腑に落ちるようになってきた。多分、最初にフムフムきたのは、Kindleで76%あたりのところ。イギリス人の枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの『承認の文法(An Essay in Aid of A grammar of Assent)』への言及のあたり。

「卓越した思想家・神学者であったニューマンはこの著作の中で、学識ある聖書中心主義者の多くに見られる「観念的承認」( notional assent)と、素朴無学ながら信心深い信徒(もちろん、卓越した学識と豊かな聖性を備えた人物を除外するのではなく)の信仰を支えている「現実的承認」( real assent)との差異を鮮やかに示している。私はニューマンが、ロック、ヒューム、ミルなどの経験主義的哲学者が輩出した英国の思想家らしく、つねに経験的事実に基づきつつ、具体的に論を進めていることにとくに感銘を覚えたのを記憶している。「信じる」という選択的な行為を呼び起こし、直接に支える知的な働きが「承認」( assent)であるが、ニューマンの言う「観念的承認」と「現実的承認」はほぼ次のように理解できると思う。キリスト信者の間で「信仰」と呼ばれているものには二つの種類があって、一つは教養や学識のある人が聖書を熱心に学んで、自らがそれに基づいて生きるべき自覚的信念として形成した信仰、もう一つは何らかの仕方で伝えられた神の言葉が、聴く者においていわば「受肉」して──というのは、その人が自然・素朴に信じている「神」が、その自然な素朴さはそのままに、超自然的な神の認識へ向けて完成されて──神は現実に実在する神として受け取られるようになる、という仕方で生まれる信仰である。前者が「観念的」(思考や認識の領域に属するという意味であり、空虚というニュアンスはない)承認に基づく信仰であり、後者が「現実的」(「ここで・今」経験される現実よりも、より現実的な実在)承認に基づく信仰である。」

漱石が「門」で描いていた

彼は平生自分の分別を便(たより)に生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは、信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。

のところ。宗助が観念的承認の人(承認するか否かは措くとして)だとすると、漱石が触れている「始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図」「信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進」はまさに、現実的承認そのものではないか。

もう一個所、というか、稲垣氏が書きたかったのは、ここだったのだ、と思えるところ。Kindle版で77%のところ。「3.キリストの「神秘」を開く鍵が『イエスの秘密』」の節。

「書き込み」とは福音書の中で繰り返し語られる「イエスは《山に》ひき籠り、夜を徹して祈り、父とともに《ひとりで》いた」という言葉である。実際、四つの福音書すべてに「イエスは祈るために山にお登りになった。夕方になってもただひとりそこにおられた」「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」「イエスはひとりでまた山に退かれた」などの言葉が繰り返されている。

稲垣良典. 神とは何か 哲学としてのキリスト教 (講談社現代新書) . 講談社. Kindle 版.

確かに、福音書にはしばしばイエスが一人引きこもって祈る場面が描かれている。しかし、当たり前といえば当たり前の話だが、そのイエスの祈りの内容についての記述はない。弟子たちは、あるいは遠く離れており、あるいは、眠りこけていたのだから、イエスの祈りの内容について知るよしもない。しかし、稲垣氏を触発した教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーは、言う。

イエスを理解するには、 イエスが「山に」引きこもり、夜を徹して祈り、父とともに 「ひとりで 」 い た と い う 、 繰 り 返 し繰 り 返 し語 ら れ る 書 き 込 み が 重 要 で す 。 こ の 短 い 書 き 込 み は イ エ ス の 神秘のヴェールを少 しばかり開いてくれ、イエスの子と しての実存、彼の行動と教えと苦しみの源泉
に私たちを導いてくれます。イエスのこの 「祈り」は子の父との語らいです。イエスの人間 としての 意 識 と 意 志 、 人間 と して の イ エ ス の 魂 は こ の 祈 り に 吸 い 込 ま れ て ゆ き 、 人間 と して の 「祈 り 」 は 、子と しての父との交わりへの参入となることが許されるのです。
イエスの福音は父からの福音であり、福音の中に子は含まれない。 したがってイエスの福音には キリスト論は属していないという、アドルフ・フォン・ハルナックの有名なテーゼは、この視点から、自ず と訂正されることとなりま しょう。イエスは彼自身、子であり、子と しての父との交わりの中にいるからこそ、彼は父について彼が語 ったように語ることができたのです。キ リスト論的な考 え 方 、 す な わ ち 、 父 を 示 し現 す 者 と して の 子 の 神 秘 、 一 言 で い え ば 「キ リ ス ト 論 」 と い う こ と で すが、それはイエスの言葉と行いすべての中に現存するのです。
ここには更に重要なことが見えてきます。人間と してのイエスの魂は祈りの行為において子とし ての父との交わりの中に引き込まれてゆくと私は申 しま した。イエスを見る者は父を見る(ヨハ14 ・9)のです。イエスとともに歩む弟子は彼とともに神との交わりに引き込まれてゆきます。まさ に こ れ が 本 来 の 救 い 、 人 間 と して の 制 約 の 超 克 な の で す 。 こ の 制 約 の 超 克 は 、 神 の 創 造 の 行 為 に おける神の似姿性によって、期待として、可能性と して、すでに人間のうちに置かれていたのです。
『ナザレのイエス』(春秋社、2006年、p.27)

足下を掬われたというか。この指摘は、もしかしたら、ものすごいことを言っているのかもしれない。イエスがアッバ(おとうちゃん、といった語感なのかしらね)と呼びかけた《神》に何をどのように祈ったのか、稲垣氏の言葉を借りると《イエスの秘密》を追い求めていくこと(記録が残されていないのだから解明することは出来ない、しかし、そのことについて想像すること、深く考えることは出来る)によって、その後の、弟子たちの信仰、そして、キリスト教のいわゆる信仰の遺産の内実が見えてくるのではないか。
弟子たちは、イエスの後ろ姿を通して、《神》を見た。イエスの言葉と行いに、イエスが対峙した《アッバ、神》を見たのではないか。それも、イエスが磔刑に処せられて命を落とした後になって。

(ここからもうすこし考える)キリスト教、特にカトリックは、神と対峙したイエスをまさに神の子(エンマニュエル)として神と重ね、その後ろ姿を追い求め続けたものではなかったか。


マタイ:14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


マルコ:06:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


ルカ:06:12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。


ルカ:09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

マタイ:06:05「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。06だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。07また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。08彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。09だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

10御国が来ますように。

御心が行われますように、

天におけるように地の上にも。

11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12わたしたちの負い目を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

赦しましたように。

13わたしたちを誘惑に遭わせず、

悪い者から救ってください。』

14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」


マタイ:14:13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


マタイ:26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


マルコ:01:35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。36シモンとその仲間はイエスの後を追い、37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


マルコ:06:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


マルコ:14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


ルカ:05:12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。


ルカ:06:12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。


ルカ:09:18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」


ルカ:09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ルカ:11:01イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。02そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

03わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

04わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

05また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。06旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』07すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』08しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。09そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

ルカ:21:34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。38民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。


ルカ:22:39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

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門前の老いた子羊

先般、知人から心に刺さるメールをもらい、その返信に、あまり脈絡もなく、漱石の「門」の一部を引用した。

彼は平生自分の分別を便(たより)に生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは、信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立む(たたずむ)べき運命をもって生まれて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の道へ引き返す勇気を有(も)たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

メールにも書いたのだけれど、ぼくは、「門」がこの部分で終わったように記憶していた。最初に読んだのは多分高校生のころで、数年前にも江藤淳の「漱石とその時代」を読み進めながら、漱石の主だった小説は読み直している。何度も読み直しているはずなのに、記憶ではこの部分で終わっている。というか、この部分だけが記憶に残っている、というのが本当のところなのだろう。まあ、歳のせいもあって記憶力の減退はいたしかたないが、この箇所が「門」のいわばキモであることに疑いの余地はない。漱石は、「それから」や「彼岸過ぎまで」のように小説のタイトルにはそれほど拘りを持っていなかったと言われている。しかし、この「門」に関しては、書き始める前の漱石がどこまで具体的なイメージを抱いていたか措くとしても、「門」というタイトルがあった上で、この箇所に向かって書き進められたことに疑いの余地はない。

「門」の文庫本を引っ張り出してきてこの箇所を引用した後、どういうわけか、「三四郎」に頻出するストレイシープという言葉が頭の中でグルグル回って止まらなくなった。言うまでもなく、ルカ福音書の迷える子羊の箇所。

「ルカ:15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

ヘンリ・ナウエンという神父の著作に「放蕩息子の帰郷」(片岡伸光あめんどう、2019)という名著がある。表紙に使われたレンブラントの絵も印象的。ついでなので、放蕩息子の箇所も引用しておこう。

ルカ:15:11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

ナウエンのこの本の最大の魅力は、放蕩息子の兄の立場にも温かな視線を注いでいるところにある。このナウエンの伝で、福音書には書かれていないが、失われた羊の立場で、このたとえ話の場面を見てみたらどうなるだろう、という妄想が膨らんで止まらなくなった。

たとえば、こんな具合。

子羊はなぜいなくなったのだろう。ただ単に迷子になったのだろうか。そうではなく、羊飼いに見守られて仲間もおり、夜には柵の中で狼からも守られた安穏とした生活と一方でのそこはかとない束縛感、そこからの一時の離脱を目指したのではないか。

ルカのたとえ話では、失われた羊は、無事に見つかったけれど、見つからなかったら羊飼いはどうしただろう。子羊はどうやって夜を過ごしただろう。

なによりも、漱石が「三四郎」で描いているストレイシープは、まさに、群れから離れ、羊飼いの庇護からも離脱した状態の子羊そのものではないか。

ぼくには、「門」で描かれた門前の宗助と「三四郎」で語られるストレイシープが何だかつながっているように思えた。そう思うと、妄想はますます拡がっていって。

羊飼いの庇護から離脱した子羊は、あたりに闇が迫ってきて、狼への恐怖と里心から、囲いの柵のトビラの所まで戻ってきた。トビラは、子羊が帰ってきたときのために、少し開けてあった。しかし、子羊は、トビラの内側に入ることがどうしてもできなかった。夜が明け始め辺りが明るくなってくると、子羊はトボトボと森の中に戻っていった。次の晩もその次の晩も、子羊はトビラのそばで夜を明かし、昼間は森の中をさまよい続けた。

年を重ね、子羊はいつのまにか成長した羊となり、そして老いていった。

子羊は、いつまでも柵のそばと森の中を行き来して命を重ねていった。

おしまい。

ぼくは教会の親しいご婦人などに、ちょっと冗談めかして「ぼくは、熱心な信者ですが、敬虔な信者ではありません」などと言う。冗談めかしてはいるが、じつはホンネだったりして。

ブレーズ・パスカルに帰される言葉に「我疑う故に我信ず」という言葉がある。いうまでもなく、ルネ・デカルトの「我思う故に我あり(Cogito, ergo sum)」のもじり。とはいえ、信仰の本質を鋭く突いているとも言えよう。

そんなわけで、カトリックの信仰(ぼくはある意味筋金入りのボーンクリスチャンです)と新約聖書学に係わるとりとめのない話題をこのカテゴリーで。

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ソラトスでガネーシュのカレーを

相鉄いずみ野線の夢が丘駅に新しくできた大規模ショッピングモール、ソラトス。YYYardという店に、能見台の南インドカレーレストラン、ガネーシュの冷凍カレーが置いてある。

ブラーヴォ❗

さらに、ガネーシュの石原マダムが講師となって、オープンキッチンでのクッキングイベントも計画されているらしい。

ブラーヴィッシモ❗❗

先般、能見台のお店にお邪魔したとき、マダムが「もう緑園都市時代よりも能見台に移ってからの方が長くなったんですよ」としみじみ言っていた。緑園都市のお店が開店したときからの熱烈なファンとしても、感無量だった。

ガネーシュのことについては、以前このブログにも書いた。

ある料理人の死

ガネーシュ復活

ソラトスでのイベントがすごく楽しみ。マダムとも再会したいし。

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変かんふうふ

NHKのノーナレで浮川和宣・初子夫妻が取り上げられた(2021年1月15日)。初子専務から放送日の連絡をいただいて、録画した上で見た。
見終わって、何だかそこはかとない物足りなさが残った。
1989年の初夏に、小学館からジャストシステムに移って以来、1998年に退社した後も、ご夫妻自身がジャストシステムを退社して、メタモジ社を創業されるまで、それこそ、ATOK監修委員会の設立から、同じくATOKの方言対応に至るまで、間近でその開発現場に係わってきた。ATOKの開発とそのデジタル通信環境での日本語の使われ方に与えた影響ってこんなもんじゃないよな、という思いが残った。直裁に言えば、ATOKが社会に与えた影響が描き切れていないという思い。
そんな思いを抱きながら、二日ばかり過ごした。夜中に目が醒めて(歳のせいで毎度のことなのだけれど)、歌舞伎の舞台写真家、渡辺文雄さんの言葉が、忽然と思い起こされた。
「紀信は人を撮るけれど、俺は舞台を撮っているんだ」
渡辺さんとは、銀座の男のきもの専門店サムライで知り合った。いわば、着物についてのぼくの師匠みたいな存在。
舞台写真の世界では、吉田千秋のお弟子さんで、木村伊兵衛の流れを汲む正統派中の正統派。
知り合ってまだ間がないころ、十八世の中村勘三郎が世を去ってそれほど経ってはいなかった。家庭画報にその追悼として載った篠山紀信の写真が強く目に焼き付いていて、その思いを渡辺さんに、少し熱くなって語ったことがあった。
渡辺さんは、ちょっと憮然とした感じで、こう言ったのだった。
どちらがいいとか、悪いとかいった話ではない。そもそも、篠山紀信と渡辺さんとでは、ファインダーを通して見ている世界が、全く異なる、ということなのだ。
そのころ、家庭画報の記事だけではなく、テレビ番組なども含め、勘三郎の人となり、歌舞伎にかけてきた思いは、さまざまに語られていた。なによりも、ぼく自身が、勘三郎の大ファンで、彼の舞台を追って、隅田川沿いの平成中村座やら金比羅宮の金村座やらに出向いたりしていた。家庭画報の写真に、ぼくはそのような、ぼく自身の勘三郎に対する思いを重ねて見ていたのだろう。
知遇を得た直後、渡辺さんは、ぼくに一冊の写真集をくださった。「名残りの花」(マガジンハウス刊)。歌舞伎批評の泰斗、渡辺保さんとの共著で、文雄さんが撮った晩年の六世中村歌右衞門の舞台写真に保さんが文章を付けたもの。
この本が、ぼくにとっては、またスゴイ本で、保さんの文章を読みながら、文雄さんの写真を見ていると、実際には生の舞台を見たことのないのに、歌右衞門がどのような思いを舞台での一挙手一投足に込めていたかが、まさに手に取るように見えてくるのだ。歌舞伎とはこのようなものなのだ、と納得されられる。六世中村歌右衞門がいて、渡辺保さんがいて、渡辺文雄さんがいて、初めてぼくの目の前に拓ける世界。
深夜のベッドの中で、ぼくは、二人の写真家の撮った歌舞伎役者の写真のことを思った。
そのとたん、浮川夫妻を撮った番組に対する、そこはかとない物足りなさは、うそのように消し飛んでいた。
なあんだ、NHKの番組制作者たちは、一太郎やATOKの技術やその社会的影響を描きたかったのではなく、パーソナルコンピューターの黎明期から現在に至るまでその第一線で生きてきた一組の夫婦の生き様そのものを描きたかったのだ。それも、「起業家としての」浮川和宣や「技術者としての」浮川初子ではなく、浮川和宣・初子という昭和から平成を経て令和に生きる稀代の生身の夫婦の今を、丸ごと切り取りたかったのだ。
そんなことを考えながら、ぼくは再び眠りに落ちていた。

3年ほど前のこと。初子専務が、ご自分の手で染めて藍染の着物と羽織を作ってくださった。着物の下前には、御母堂の臈纈染による龍の絵が描かれていて、羽裏には、初子専務による流麗な龍の字が描かれているなんとも贅沢なもの。
お二人は、この着物のお披露目のために、歌舞伎座の公演にまで、ぼくたち夫婦を招待してくださった。至福の時だった。
仄聞するところだと、初子専務は、この後、和宣社長のためにも、藍染の着物を作られた由。コロナ騒ぎのせいもあって、ぼくは、まだ和宣社長の着物姿を拝見していない。

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安全と安心

東京卸売り市場が、築地から豊洲に移転する前後に、小池東京都知事が使い始めたのが最初ではなかったか。記憶違いかも知れないし、寡聞にしてぼくが知らなかっただけかも知れない。

コロナウィルスの蔓延で、日本国中が大騒ぎになったころから、小池さんだけではなく、管総理を筆頭に、与野党を越えて、多くの政治家がこの言葉を口にするようになった。曰く、「日本国民の安全安心のために」云々。

ぼくは、この言い方にずっと違和感を覚え続けている。どうして、「安全」と「安心」が、このように一つの言葉として強く結びつくのだろう。

ちょっと思考実験というか「安全」や「安心」を含む短文を考えてみれば、「安全」と「安心」が全く異なる働きを持つ言葉だということは、一目瞭然のことのように思われる。

「安全性は私どもが保証しますので、安心して空の旅をお楽しみください」

「安全」とは、科学や技術の領域に属する言葉で、「安心」とは心の在り方に関する言葉なのは、明白なことだ。

この二つの全く異なる領域で異なる機能を果たしている言葉が一つに結びつくことによって、現今の日本の政治的な発言(ディスクール)は、いとも奇妙な状況に陥っている。

学生時代(従って半世紀以上前)に、武谷光男の「安全性の考え方」(岩波新書、1967)を読んだ。委細は記憶の彼方にあるが、「マスとしての安全性は確率論で論じることが出来るが、当事者にとっては、(安全性の対偶としての)危険性は、100%なのだ」といった主旨の既述が、妙に記憶に残っている。

ぼくには、武谷は、核物理学、素粒子論を知的バックグラウンドとして持つ、社会主義的な科学論、技術論の論者として、見えていた。

いずれにしても、武谷が、「安全性」を科学技術の言葉として論じていたことは疑い得ない。だからこそ、この当事者にとって云々という言葉が、胸に刺さったのだろう。

一方、「安心」は、まさに、心の領域に属する言葉である。カトリックの許しの秘蹟での司祭の常套句「あなたの罪は許された。安心して生きなさい」は、まさに、「安心」の極みだろう。

安全性が科学的に100%保証されても、安心できないという状況もあれば、何ら安全性についての科学的な説明がなくても、不安を覚えない(消極的な安心)という状況もありうる。

〈安心〉という言葉は、容易に〈安心する〉というサ変動詞になりうる。一方、〈安全〉という言葉は、〈安全する〉といった使い方には、大きな違和感がある。

ぼくが、〈安全安心〉という言葉に、そこはかとない違和感を抱く、理由の一つは、ここいらへんにあるようにも思う。

為政者が、「国民(都民)の〈安全安心〉のために」と言うとき、それは何を意味するのだろう。

おそらくは、「国民(都民)に〈安心〉していただくために、〈安全〉性の向上に尽力します」といったことだろうと忖度する。

しかし、ぼくには、ここに、大きな陥穽があるように思えてならないのだ。

〈安全〉という優れて科学や技術に係わる言葉を〈安心〉という、個々人の心の動きに安易に結びつけることにより、〈安全〉という言葉の背後にある、科学的・技術的な議論をあいまいなものにしているのではないか。

この論点では、野党の〈安全〉の根拠があいまいである、という批判は正鵠を射ていよう。言い換えると、〈安心〉という個々人の心の在りよう、情緒と言い換えてもいいだろう、と結びつくことにより〈安全〉という言葉の背後にあるべき科学的・技術的議論の必要性があいまいになり、〈安全〉という言葉そのものが、情緒的な色合いを強く帯びてしまったのではないか。

このことは、しかし、為政者だけの責任に帰されるべきではないだろう。巷間しばしば議論されるように、日本の社会には、100%の安全性を求めるという、いわゆる安全性神話の性向が強くある。おそらくは、このような性向があるゆえにこそ、為政者側の〈安全安心〉という曖昧な言葉を無批判に受け入れてしまうことにつながっているのだろう。

100%の安全性という、いわば、画餅への希求ともいえる情緒的な反応から抜け出し、!00%とは言えないまでも、社会的コストをも考慮した上でのより高い安全性を求める理性的な議論に移行するためにも、ぼくたちは、為政者たちの言葉の用い方に、もう少し敏感になってもいいのではないかしらん。

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神戸老舗洋食屋伊藤グリルへ(2015年6月5日)

※もう5年も前の記事だけれど。写真を加えて、いまさらながら、公開。

神戸に行った。

神戸には、半世紀も前、9歳から16歳の多感な時代を過ごした。

2015年6月5日(金)

長男に車で羽田まで送ってもらい、10 時過ぎには飛行機で神戸空港に降り立った。

旧居留地をぶらついた後、相楽園を訪れた。

13:00

昼食は、元町駅近くの老舗洋食屋伊藤グリル。

何歳のころかは定かではないが、一度だけ母に連れられて行ったことがある。何を食べたかもよく覚えていない。確か、海老のテルミドールのようなものだったようなかすかな記憶がある。2階に上っていく階段とフローリングの床。食後にロングスカートをはいた素敵なお店のマダムが「今日のデザートはカスタード・プディングです。ちょっと鬆(す)が入ってしまったのですが、いかがですか」と言った言葉だけを、妙に鮮明に覚えている。プリンではなくってプディング。家で母が作るプディングにも、しばしば鬆が入った。それでも、市販のプリンの妙につるつるした舌触りとはちょと異なる舌触りが好きだった。マダムの言葉には、そんなホームメードと地続きの細やかさが感じられたのだと思う。そのプディングの味も全く覚えていない。

妻と神戸にも行ってみたいね、と話すようになって、ウェッブを検索していたら、伊藤グリルがまだ健在だということが分かった。それも、神戸を代表する老舗洋食屋として、すこぶる評価が高い。現在のオーナーは4代目とも。

階段を上り、店に入ったとたん、記憶が蘇ってきた。フローリングの床。角地で二面が窓に。角の席に案内してもらった。

待望の伊勢エビの冷製特製マヨネーズソースは、予約がなければ頼めないと言われて、神戸牛の、ステーキ、ビーフシチュー、ビーフカツレツを頼んだ。すべて旨かった。ソースが三種三様で、肉の料理の仕方と見事に合っている。パンも旨い。特に、シチューのソースに浸して喰うと至福。妻は、やはりステーキが肉の味がよく分かって一番美味しかったと言った。

デザートにクレーム・ブリュレ。上にカシスのアイスクリームが載っている。カスタードクリームは、遙か昔のホームメードの味がした。

午後。北野ホテルにチェックインし、風見鶏の館などを見て回った。

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2016年正月の歌舞伎やら落語やら

今年の正月は、いかにも贅沢に過ごした。別に大枚をはたいたわけではないが。

大晦日は、昔からなじみにしている保土ケ谷の木村庵と新しく緑園都市に出来たともしびという蕎麦屋兼居酒屋のそばを一折ずつゆでて、マグロの剥き身を共に喰った後、恒例のジルベスターコンサートをみなとみらいホールで。

元旦は、教会に行った後、巌生と龍二の家族が襲ってきておせちとお雑煮。

2日は、三菱一号館美術館でプラド美術館展。帰りに東京駅のグランフールに新しく入った今半で牛丼を食べようと思っていたけれど、あまりの混雑に断念。大丸で柿安の焼き肉弁当を買って、電車の中で食べた。

3日は、次男の家族と生まれて初めて鶴岡八幡宮に初詣。じゃがバタを初めとする屋台のB級グルメを堪能した。その後、幸子の実家で長男家族と落ち合って、まったり。

9日(土)は、鎌倉芸術館で、志ん輔さん。佐々木政談と火焔太鼓。どちらも好演。

10日(日)に、新橋演舞場で、花形歌舞伎。車引きと弁天小僧、それに、海老蔵が復活させた七つ面。勘三郎、団十郎、三津五郎と、人気も実力も兼ね備えた役者が一度に抜けて、まあ、取り残された大御所たちも大変だとは思うが、何だか歌舞伎座とか、ポッカリ穴が空いた感は否めない。むしろ、海老蔵や猿之助の世代が頑張っているなあ、と。この日は、獅童もよかった。

17日(日)、幸子がスポーツクラブの仲間からもらったチケットのおこぼれで、浅草歌舞伎。橋之助や彌十郎、錦之助らの息子たちが毛抜と川連法眼館を熱演。浅草公民館近くのヨシカミでカツサンドを買って行って、幕間に食べた。ヨシカミは、老舗の洋食屋ということで、観光客に大人気。店で食べようと思うと60分待ち、とのことだったが、持ち帰り用は、丁度出来上がったばかり、ということですぐに購うことが出来た。歌舞伎座でカツサンドを食べようとは思わないが、浅草でそれも若手の熱演、ということで、なかなかいい組合せだったなあ。

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神奈川県立近代美術館(鎌倉館)と天ぷら大石

2016年1月15日(金)

神奈川県立近代美術館鎌倉館が、1月一杯で閉館になり取り壊される。見納めに、混雑を覚悟で行くことにした。

とはいえ、週末を避けて、金曜日の開館と同時に入館。でも、もうチケット売り場に列が出来ていた。

1月2日に次男の家族と一緒に、生まれて初めて鶴岡八幡宮に初詣に行って、ものすごい混雑の中で、じゃがバタなどの屋台飯を堪能したばかりだった。

鎌近が出来たのは、1951年。ぼくたち夫婦が生まれた年でもある。展示されていた収蔵品(ごく一部の代表作)に添えられた解説文の端々から、ぼくたちが生きてきた時代のさまざまな出来事が思い返されて、感無量。建物や設計者の坂倉準三がデザインした家具調度品もまた良かった。耐震対策が出来ないという理由で使われていない新館に入れなかったのがちょっと残念。

少し時間があったので、別館にも足を延ばした。ここで思わぬ拾いもの。

イサム・ノグチと魯山人の交友関係。イサム・ノグチが山口淑子と結婚した当初、鎌倉の魯山人工房に寓居して新婚生活を始めたとのこと。そして、陶芸もやっていたとのこと。

この工芸品を中心とした別館の展示物の中に、パブロ・ピカソが焼いた絵皿が一点あった。どっかで、大量のピカソの絵皿作品を見たっけなあ、と思ったら、昨秋訪れた甲府の山梨県立美術館だった。

http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/specialexhibit_201509.html

響子(娘)のお姑さんと幸子と三人で、勝沼のワイナリー巡りをした際、訪れた。眼目は、ミレーを中心とするバルビゾン派の絵だったのだけれど、企画展でピカソをやっていた。正直なところ、絵画作品はイマイチだったように思われるが、絵皿はよかった。純粋美術作品としての絵画や彫刻と工芸品を敢えて区別して論ずることの愚を、まざまざと思い知らされた。

おっと、鎌近のこと。

長男の巌生がまだベビーカーに乗っているころ、幸子と岳父英次とともに鎌近を訪れたことがある。

岳父は、デッサンのための木炭を焼くことを生業としていたのだが、美大を卒業した画家でもあった。絵が高く売れたという話は聞いたことがなかったが、数年に一度は、銀座の渋谷画廊で個展を開いていた。鎌倉の画家たちとの交流もあったようで、高田博厚の知遇も得ていたらしい。

その岳父が、「高田さんのエッセイによると小町通りに旨い蕎麦屋があるらしい」という。ははん、と思った。一茶庵だ。小林勇の『一本の道』だったか『山中独膳』だったかの跋を高田博厚が書いている。これがすこぶるいい。曰く。「鎌倉の小町通りに新しい蕎麦屋が出来た。ぶらりと入ってみると、若い夫婦がかいがいしく働いている。舌代の文字が又いい。『だれが書いたの』と聞くと『小林勇先生に書いていただきました』との返事。むべなるかな。」この時点で、小林勇と高田博厚には互いに面識がなかった。後に、高田が小林の絵の個展に出向いた際、初対面の開口一番、高田が「あんたの字を鎌倉の一茶庵で見たよ」と言ったら、小林が間髪を入れず「だったら、あんたとおれとは、その時から友だちだ」と答えたという。

岳父は、この跋が後に高田の随筆集に収められたものを読んだようだった。

しかし、小町通りには、件の蕎麦屋が見当たらない。しかたがないので、段葛にあった適当な蕎麦屋に入った。蕎麦はまあまあだったけれど、アルバイト風の女店員が、天ぷらの喰い方を上から目線で指導するものだから、ちょっとムカっと来て「湯桶をくれ」と言ったら、湯桶も知らない。店主と思われる男が、慌てて「そば湯、そば湯」と耳打ちしているので、興が冷めた。

後で知ったが、そのころは、鎌倉の一茶庵は、大鳥居の横に移転していて、観光客相手で大繁盛していたよし。

専修大前にあった一茶庵に行った折に、女将に鎌倉一茶庵のことを聞いたら、「のれん分けです」と、ほとんどそっぽを向いて答えた。けんもほろろとはこのことだ。

そんなわけでもないが、鎌芸ともなんだか随分長い間ご無沙汰してしまった。大鳥居前の一茶庵には、結局一度も入らずじまいだった。鎌倉には知人もいるし、時々は、食事をすることもあるが、大抵は少し駅から離れた谷戸の奥だったりして、歩いて行くにはちょっと不便だし、車で行くとなると駅の周辺は年がら年中混雑している。

帰りに、大鳥居前の食べ物屋で旨そうなところ、と当たりを付けていた大石で天ぷらを喰った。すこぶる旨かった。店は、週日の昼間だというのに結構客が入っている。一人、常連客とおぼしき男性が、天丼を注文した。横目でチラッと見ると、これがまた旨そうだった。コースの方は、それなりの値段がするし、天丼だって安い、というわけではないのだが、ネタもたくさん乗っていてね。電車で鎌倉に行く楽しみが出来た。

でも、次に行く時には、鎌芸はもうない。

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帰燕と日フィル定期

最近、やっぱり物忘れが進んでね。行ったばかりの音楽会のこととか、すぐに忘れてしまう。自分の備忘のために、簡単なメモだけでも残しておこうと思って。

 

2016年1月23日(土)サントリーホールで日フィルの定期演奏会。

小林研一郎の指揮で、リムスキー・コルサコフのシェーラザードとストラヴィンスキーの春の祭典。

特に、春の祭典が、ものすごい力演だった。いつもはシンバルで名演を聞かせてくれる福島さんが、今日は大太鼓で、これがまたすこぶる付きの名演だった。まるで大太鼓協奏曲。この大太鼓が映えることで、ストラヴィンスキーが目指したであろう原初的な生命の躍動としてのリズムがすごく立体的かつ直接的に身体に伝わってくるような感じ。曲が終わって、ファゴットを初めとする管楽器のソリストと共に、銅鑼をたたいた遠藤さん共々、コバケンが立たせて、聴衆の熱烈な拍手を受けたのには、グッときたなあ。

学生時代、大学のオケに入って最初の演奏会が、コバケンの指揮だった。まだ、ハンガリーのコンクールで優勝する前。新入生のぼくの出番は、一曲目のマイスタージンガー序曲の二発しかないシンバルだけだった。演奏会が終わって、舞台の袖に引っ込んだところでコバケンが近づいてきて「シンバルよかったよ」と言った。その一言で、ぼくは音楽の魅力、特に打楽器の魅力に引きずり込まれた。

演奏会の前、帰燕で食事をした。

ぼくたち夫婦は、普段は日フィルの横浜定期に通っているのだけれど、演奏会当日の都合が悪かったり、コバケンや山田和樹さんなどが東京だけで指揮する回などは、チケットを振り替えてサントリーホールに聴きに行く。

その際、食事をどこで食べるかというのが、ぼく的には楽しい悩みなのだけれど。カラヤン広場に面したバッカナールは、本当にパリのカフェみたいで定番。ぼくはいつも、フレンチフライがたっぷり添えられたステーキを頼み、幸子はだいたいサラダ。二人でそれらをシェアする。バッカナールは、紀尾井町のホテルニューオータニにもあって、先日、紀尾井町でバロックオペラを観たときにも行ったし、同系列のラ・クラスというブラッスリーがみなとみらいホールの近くにあって、ここにもよく行く。

で、帰燕は都合二度目。一度目は、初めてだってこともあり、土曜日限定のミニ会席を頼んだ。すこぶる旨くて量的にも充分だったのだけれど、隣のテーブルの客のコースの方が品数も多くって、ちょっとうらやましくなって、今回は会席料理のコースを頼んだ。

12時の開店と同時に入ったのだけれど、次々と予約の客が入ってきて、ほんとうにあっという間に満席(カウンターの二人だけは12時半の予約)。

 

それにしても旨かったなあ。どの皿も奇をてらうところが全くなくって、素直って言うか自然体っていうかスーッと入ってくる感じ。でも、どの素材もすごく吟味されていて盛りつけの隅々にまで神経が行き届いている感じ。カウンターで板長さんが刺身やら八寸やらの盛りつけをするのを見ているだけでも、ワクワクして見飽きない。

最後の方、2時の開演時間が迫ってきて、食事(鯛飯)とデザートがちょっと忙しなくなったのが、ちょっと残念。次回は、前もって、1:45に出られるように、って頼んでおくことにしよう。

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IVSのテスト

IVSの環境もずいぶん整ってきたので。

AJ1-6、MJ、それと、近ごろ文字情報技術促進協議会が公開した暫定私用フォントを用いたテストシートを作ってみた。

 

IVSテストシート(含暫定私用外字)PDF

IVSテストシート(含暫定私用外字)Pages

IVSテストシート(含暫定私用外字)HTML

IVSテストシート(含暫定私用外字)docx

 

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小倉朗交響曲ト調

2013年12月6日(金)日フィル定期。小泉和裕指揮。サントリーホール。

他に、ベートーベンの2番と7番のシンフォニー。

普段行っている日フィル横浜定期を振り替えて、聴きに行った。

この曲は1968年の作曲。ぼくが、小倉朗と親しく交わるようになったのは、大学の2年生(この年、次女の令子さんが1年遅れて同じ大学に入学してきた)の1971年以降なので、ぼくはこの曲を少なくとも生演奏では聴いたことがなかった。その後のヴァイオリンコンチェルトやチェロコンチェルトなどは、ほとんど初演を聴いている。

それにしても。やはり冷静に聴くことは出来なかった。リズム、メロディ、音色のいたるところに、ぼくが接した小倉朗という存在そのものが浮かび上がってくる。特に、藤沢市大庭の旧小倉邸で接したころの小倉朗その人の表情とバスバリトンの声の響き。

「タツオくん、君も、存外ペダンティックだね」という、今に至るまで心の奥にトゲのように突き刺さって抜けない人生の警句。

ぼくが、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタのアナリーゼのまねごとのようなことをしていて、最初の楽章、8分の9拍子のリズムを、どう捉えていいのか分からずに投げかけた質問への答えだった。

この一言は、加藤周一が『羊の歌』の中ですくい上げた

「効果をもとめたってつまらねえ」

というベランメエの一言と相通じるところがあった。

ぼくが、「加藤周一さんが『羊の歌』で小倉さんのことを書いていますよ」と言った。しばらくして、小倉さんは、当時刊行されていた平凡社の加藤周一著作集の月報にこのいきさつを「鷹の目」と題して書いた。さらに、「これを読んだある友人が、『あれは君の喋りよりもっと小倉だ!と、感激していた。』」とも書いてくれた。この《ある友人》は、ぼくのことだ。涙が出てきそうになる。もう、40年以上も前のこと。

この「効果をもとめたってつまらねえ」は、ぼくの今に至るまでの生き方の指針となった。

この文章を採録したくて、ぼくは、小倉さんの最後の著書となる『なぜモーツァルトを書かないか』(小学館創造選書)の企画をまとめ、刊行にまでこぎつけたのだった。

小倉朗没後20年を記念する演奏会で、高橋悠治さんがこの本に収められた「竹」という文章の一部を読んでくださったときにも、ぼくは思わず叫びそうになった。「ぼくが企画編集した本だ」

交響曲ト調を聴きながら、ぼくの胸には、そのような若き日々の思い出が、次から次へと蘇ってきていた。小倉さんの音楽の一つの特徴である日本の民謡をモチーフとした切れ味の鋭いリズム、そして、後期の作品に特有な絵で言えば点描のような淡い音色の移ろいが綯い交ぜになって流れていく。気がつくと、曲は第4楽章のコーダに突入していた。

大きな拍手。誇らしげで満足げな指揮者と楽団員。新曲の初演だったら、指揮者が手を目の上にかざして、客席に作曲者を探し、舞台の上に招き上げるところ。でも、客席には小倉朗はいない。そう、あたりまえだけれど、ベートーベンもいない。

音楽とは、文化とは、そういうものだ。リチャード・ドーキンスがミームという言葉で伝えたかったことは、きっとこういうことなのだろう。ぼくの中で、小倉朗は確実に生き続けている。

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ホテルで朝食プロジェクト(箱根ハイアット編)

11月15日(金)

久々に、ホテルで朝食プロジェクトを敢行。強羅のハイアットホテルへ。半端なくゴージャスなリゾートホテル。メインダイニングで、朝食ブッフェ。卵は、オムレツやスクランブルを料理して、テーブルまで運んでくれる。まあ、値段も3300円と、半端じゃないけれど。

ホテルで朝食プロジェクトの後は、美術館に向かう、というのが、何となく定番になってきていて。この日も、ポーラ美術館へ。箱根のホテルで朝食プロジェクト、ということでは、芦ノ湖畔の景色と散策、という付加価値部分で、プリンスホテルの方が、ちょっと有利かしらね。トリエンナーレも含めて、横浜美術館に行く時の、ホテルニューグランドも、結構いけている。

 

「モネ、風景をみる眼」という企画展。上野の国立西洋美術館との共同企画。一民間美術館が、日本を代表する国立美術館と対等に張り合って共同企画を催すというのも画期的。展示劈頭の二枚のボート遊びの絵だけで圧倒されてしまう。一通り展示を見た後で、前日がモネの誕生日ということで催された、学芸員による麦藁積みについてのガイドツアーに参加。その後、もう一つの企画であるアールヌーボーのガラス工芸品のコレクション。モネの展示にも、ロダンの彫刻などに混じって、さりげなくガラス工芸品の一部が置かれていたり、ガラス工芸品の方には、ゴッホや黒田清隆の絵が飾られていたり、美術品と工芸品との垣根を取り払おうという積極的な気概が感じられて、気持ちいい。

ポーラ美術館は、新しく周辺の遊歩道を整備したのだけれど、生憎の雨模様で、散策は断念。

湯本の方に下って、これまた新しく出来た箱根湯寮という日帰り温泉施設で、一風呂。湯本の駅の裏側の塔之澤温泉。ちょっと坂を上っただけで、森閑とした雰囲気になる。露天風呂からも折り重なる木々の先に箱根の山が遠望できて、なかなか。

最後は、以前から行ってみたかった鯛料理の瓔珞。瓔珞の鯛茶は、以前、横浜そごうの物産展で購入したことがある。食べてみて、じつにおいしかったので、一度は、訪れたいと思っていた。先付け、八寸、鯛のあら煮、卵豆腐の揚げ出し、鯛茶、という流れ。どの一品も、手が込んでいるというわけではないのだけれども、余計な外連がなくて、じつに旨い。特に、鯛のあら煮から卵豆腐の揚げ出しへの流れは、秀逸だった。

胃袋も眼も大満足の小旅行だった。こんな贅沢も悪くはない。

 

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