なんだか、このごろ、妻とよく音楽を聴きに行く。この2週間ほどを見るだけでも、
7月2日(金)に、ミッシャ・マイスキーとチョン・ミョンフン
7月7日(水)に、昼どきクラシックで横浜室内合奏団
7月11日(日)には、洗足学園の夏の音楽祭
といった具合。自分で言うのも何だけれど、まあ、よく遊んでいるなあ。
それにしても、先日書いたバーンスタインが振ったマーラーの第九シンフォニーに端を発する音楽会行かない症候群はいったい何だったのだろう、などと思ってしまう。
と言いつつ、いささか言い訳めくが、マイスキーとチョンとの演奏会を除けば、ぢつは安いものなのだ。昼時クラシックは、お一人様800円だし、洗足学園の音楽祭は、いわば学園祭みたいなもので、オルガンを中心とするさまざまな組み合わせの音楽、打楽器のアンサンブル、弦楽合奏という3つのコンサートを梯子して、お一人様1000円(その気になれば、3日間+前夜祭の多彩なコンサートを聴き続けることが出来る)。
それでも、それぞれに十分以上に楽しむことが出来た。マイスキーがアンコールで弾いたラフマニノフのボカリースをパイプオルガンとトランペットでまた聴くことが出来たりもして。
演奏会の前後には、それぞれ妻と食事をした。特に、昼どきクラシックの後で行った横浜美術館に入っているビストロのランチは、もう、ビックリするほどのコストパーフォーマンスの高さ。オードブル+メインディッシュ+パン+デザートで、税込み1260円。素敵な音楽と併せて、心の中心からリフレッシュすることが出来た。
そう言えば、この日、ぼくたちは、朝から近くのスポーツクラブに行って、汗を流してから、コンサートに行ったのだった。贅沢と言えば、贅沢な。しかし、安上がりと言えば、安上がりな。
洗足学園の音楽祭に行ったのも、まあ、娘が通っている、ということもあるが、パイプオルガンを弾いた荻野さんの20年以上も前のカトリック藤沢教会時代を知っていて、何だか懐かしい思いがした、ということもあった。
で、想いは20年以上前の、藤沢の音楽状況に引き戻される。
そう言えば、荻野さんは藤沢教会でトランペットの林さんと組んで、コンサートをやったこともあったっけ。今回、荻野さんと一緒にやったトランペットの人は、その林さんのお弟子さんだって、プログラムに書いてあった。
そして、藤沢には、藤沢市民会館というホールがあり、福永陽一郎がいた。
ずっと以前、藤沢市民交響楽団の定期演奏会のプログラムに、雑文を書いたことがある。
若いピアニストがコンチェルトでデビューしたとき。
全部を覚えているわけではないが、その一節はよく覚えている。
「今日、一人の若者がステージに駆け上る」
そのステージは、オイストラッフ、シュワルツコップ、リヒテル、小澤征爾とSFOなどが演奏したステージであり、藤響が毎回定期演奏会を行うステージであり、藤沢市民オペラがその歴史を重ねてきたステージでもあるわけだ。
少なくとも、藤沢市民会館のステージは、ぼくが音楽と関わり合って刻んできた人生の中で、演奏する側としても演奏を聴く側としても、常に音楽生活(ドイツ語にはMusizielenという便利な動詞があるが)の場(まさにTopos)を提供し続けてくれてきた。藤沢市民会館は、生活空間の中で音楽を提供する側とそれを享受する側とを取り持つという日本では希有の出来事だったのだ。
あのNHKホールでのバーンスタイン+イスラエルフィルによるマーラーの第九交響曲の演奏は、そのような生活の場と繋がった音楽とは対極のものではなかったか。
もう一度、昼どきクラシックの話に戻る。
演奏会が終わった後、ホールのチケット売り場には、次回のチケットを購入して帰る人の長い列が出来ていた。その行列自体に、ぼくは、何だかゆったりした昼下がりの時間の流れに身を委ねる心のゆとりのようなものを感じたのだった。
ポストする機会を逸している間に、ぼくと妻はもう一つ、とても素敵な音楽会に行った。
藤沢市民会館で開かれた弥勒忠史さんのカウンターテナーのリサイタル。(7月23日)
弥勒さんは、昨年藤沢市民オペラとして上演された地獄のオルフェで、地獄の番人ハンス・スティックスで、抱腹絶倒の名演を見せてくれて、ぼくも、オケピットの中でシンバルなどを叩きながら楽しませてもらった。
で、次の24日に、藤沢市民会館で、秋にやるマーラーの第二交響曲の練習をしていたら、ひょっこり、弥勒さんが顔を出した。ぼくは、弥勒さんとは、個人的な面識があるわけではないが、何だかちょっとうれしくなったのだった。