心機一転—-古希を迎えて

ぼくがこの世に生を受けたのは、1951年7月。今月、すなわち、2021年7月で、満70歳、古希ということになる。
時々、書こう、と思うことはあったが、日々の雑事に追われて、ついおっくうになって、随分長い間ほっぱらかしになっていた。
まあ、一つ言い訳をすると、会長を引き受けている一般社団法人文字情報技術促進協議会にもブログを持っていて、事務局長の田丸健三郎さんに強要されて、文字情報技術関係のネタは、そっちの方に書いてきた。

小林会長ブログ

このブログのタイトルを変えた。
Carpe Diem
ご高承の方も多いと思うが、ローマ時代の詩人、ホラティウスの詩から。
今、ググってみたら、山下太郎さんという方が、原文と丁寧な語釈、和訳を掲げてくれている。

Carpe diem. 「カルペ・ディエム」:ホラーティウス

ぼくが、この言葉に行き当たったのは、そう、コロナのせい。
コロナウィルスが猖獗を極めて、ぼくも、いわばコロナ蟄居を余儀なくされた。歳も歳だしね。
それでも、以前から、出不精だったこともあり、存外、それほど気詰まりということもなかった。

数年前から近所のフェリス女学院大学の子供のための音楽教室成人向けに通って、ピアノのレッスンを受けている。
コロナで、このレッスンがしばらく休止を余儀なくされた。
レッスンを受けることの大きなメリットの一つは、日々の練習にメリハリがつくことにある。達成できるかどうかはさておき、エチュードや取り組んでいる曲を、レッスンまでになんとか形にしようと努力する。その努力の積み重ねで、この歳になっても、少しずつ腕が上がっていく。それが、また、励みとなる。
ところが、コロナでレッスンが休止になってしまうと、日々の練習の目標というか、動機付けが霧散してしまう。それでも、習慣というか惰性というか、ピアノは毎日弾いていた。
そのうち、たまに、何だかうまく弾けたなあ、と思う瞬間に気付くようになった。うまくは弾けなくても、ピアノを弾いているその時間が、なんとも言えなく愛おしく感じることも起こるようになってきた。

ピアノだけではない。コロナ蟄居をきっかけに、以前から読みたいと思っていたマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を筑摩文庫版の古書で購入し、全巻一気に自炊して読み始めた。夜中に目が醒めた折にすこしずつ。
運動不足解消のために、毎朝、小一時間散歩するようにもなった。

べつに、コロナウィルスで明日をも知れる命、みたいな悲壮感があるわけではないが、先が見えない感は、ぼくにもあった。そんな中での、ピアノ練習や読書、散歩などのおりに感じる何と形容しがたい幸福感、じつにささやかな幸福感。まことにささやかな幸福感なのだけれど、今ぼくは自分の時間を確かに生きているのだ、という手応えのようなものを自覚するようになった。以前、何かの機会に耳にした「今を生きる」という言葉が浮かんできた。ググってみて逢着したのが、Carpe Diemという言葉だった。

カトリックの典礼聖歌「ごらんよ空の鳥」は、マタイ福音書の第6章、有名な山上の垂訓が元となっているが、どこかしら、ホラティウスのCarpe Diemと相通じるところがある。

ごらんよ、そらの鳥
野のしらゆりを
まきもせずつむぎもせずに
やすらかに生きる

どちらも、明日の命は知れないので、思い煩うことなく、今このときを生きよ、と言っている。しかし、それは、ケセラセラ、なるようになるさ、というちょっと投げやりな刹那主義とは、全く異なるものだろう。
多分、Carpe Diemの要諦は、明日は花が摘めなくなるのではなく、明日も花は摘めるだろう、であればこそ、昨日も今日も、そして、明日も、その日の花を誠実に摘み続けるという、日常の小さな幸せの連鎖にあるのだろう。

古希を迎えた今、まあ、明日死ぬことはなかろうが、人生の終盤にさしかかっていることは疑い得ない。日常の中で幸せを感じた小さなことどもを書き綴っていきたい。

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