成都で(言葉と国境)

国際符号化文字集合(UCS)の漢字部分の標準化作業を担当するIRG(Ideographic Rapporteur Group)の会議で、中国は四川省の省都、成都に来ている。
泊まっているのがチベットホテルという名前なのだが、この成都は、麻婆豆腐発祥の地というばかりではなく、チベット自治区の入り口にも位置しているそうで、空港にはトレッキング姿の日本人ツアー客の姿も散見される。
それにしても、中国は聞きしにまさる多言語国家で、よく耳にする北京語、福建語、南京語など、中国各地の方言だけではなく、チベット、モンゴル、タイ、朝鮮半島などと接する地域の少数民族の言葉も含めると、インドもびっくり、というほどの言語と文字がある。
文字コードの標準化、という局面でも、中国は少数民族文化保護政策との関連で、さまざまな、提案をしてくる。イ文字(Yi Script)というのはすでにUCSに入っているし、Dai Script(タイ文字の類縁)やチベット文字の新提案、IPA(国際音声学会)記号への追加など、積極的な動きをしている。
まあ、そうした中には、昔台湾にやってきたキリスト教の宣教師が、ビンナン語に二つある”O”の音を書き分けるために使ったという、右上に付ける点(COMBINING RIGHT DOT ABOVE)を巡る、台湾との小競り合い、といったものも含まれてはいるが。
で、今日、ぼくが考えたいのは、そのような文字コードの些末な議論ではなく、もっと根源的な、言葉と文化の問題なのだ。といっても、田中克彦御大や、三元社から刊行されている『ことばと社会』の向こうを張ろうといった大それたものではない。
最近AFN(American Foces Network、以前はFENと呼ばれていた米軍放送)やインターネットサイトでよく聞いているNPR(National Public Radio:http://www.npr.org)で耳にしたあるコメンタリーのことだ。
幸い、このコメンタリーも、同サイトにアーカイブされているので、実際の音声を聞くことが出来る。
http://www.npr.org/rundowns/rundown.php?prgId=2&prgDate=17-Feb-2004
のページにある、下記のストリーミング。
Commentary: The Gift of Silence in Asian Conflict
Even though both of her parents come from India — and speak multiple languages of the region — commentator Angeli Primlani was raised speaking only English. While she initially felt disconnected from her heritage, Primlani has come to believe her parents gave her and her siblings a gift by allowing them to form their own culture.
このセクション全体のスクリプトも有料ではあるがダウンロードすることができる。
本当は、全文を試訳してみたのだが、NPRは著作権を主張しているので、このアップロードは控えることにする。その代わりに、簡単に要約すると。
コメンテーターの女性は、インド=パキスタン国境付近のシンディ(言語名にも使われている)と呼ばれる一族の難民二世でシカゴ在住。姉妹が一人いる。
彼女たちが幼いころ、両親は、両親の母語であるシンディを教えてはくれなかった。彼女たちはもっぱら英語で育てられた。
ある時彼女は両親にその理由を尋ねる。
父親の返事は、しごく曖昧なものだった。
「シンディは滅びるに任せるしかないかなあ」
So, I asked, why didn’t they teach us their language, Sindhi. `India has too many languages,’ my father said. `Let’s let this one die.’
実のところ、両親の思いは、娘たちに自分の世代の母語を伝えないことによって、何代にもわたって続いてきた民族紛争(≒言葉と宗教の違いに起因する争い)の連鎖を断ち切ろう、とするところにあった。
う~ん。究極の選択だなあ。自分たちの母語や文化を守るために、命を賭して戦う人たちがいる。ある国家がその版図を拡げる手段として植民地の人たちに母語とは異なる言語の使用を強要してきた歴史がある。今も、言葉と宗教の違いによる争いは絶えることがない。
このコメンテーターの両親は、自らの母語=文化を捨てることによって、平和を選び取ろうとしたのだ。ぼくは、この判断の可否を論ずることは出来ない。ただ、この両親の限りない哀しみと娘たちへの愛情を思うばかりである。
翻って。
昨今、幼児期から自分の子供に英語を学ばせる親が増えているという。インドや中国などでも、類似の状況はあるようだ。
この親たちは、上記のシンディ親子について、どう思うだろう。
ちなみに、このコメンテーターの英語の発音は、非常に明晰で知的である(とぼくには聞こえる)。

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