湘南フレンチの明日へ

高尾シェフの訃報を聞いた。
聞いたと言っても、最初は間接的で、大島武さん(大島渚監督のご子息)からの情報だった。大島さんとは、育った環境が(ほぼ12年の時間差はあるが)同じだったし、お父上を介して、以前藤沢市長をしておられた葉山俊さんや指揮者の福永陽一郎さんといった共通の知人があったりで、湘南地方の風土や文化の話をいろいろした。
その中に三笠会館鵠沼店の話題も含まれていた。
ぼくたち家族とこのレストランとの関係は、以前にも書いたことがある。
そんな話をしていて、高尾シェフの訃報を聞いた。
ちょっと、しまった、と思った。
話を聞いてみると、随分以前のことで、ぼくは、高尾シェフが亡くなってからも、一度ならず三笠会館鵠沼店に行っていることになる。漠然と、移動されたか引退されたのかなあ、などと思っていたが、敢えて問いただすこともしていなかった。
11月6日(日)、久しぶりに(いつもは6月の妻幸子の誕生日周辺と10月のぼくたちの結婚記念日周辺に行くのだけれど、この春は、家族のスケジュールがうまく合わずに行くことが出来なかった)三笠会館鵠沼店に行った。ローストビーフディナーの案内が送られてきたことも僕たちの背中を押した。
長男巌生の嫁奈保美も含めて6人で、至福の時を過ごした。
その折り、ふと思いついて、以前、ぼくたち夫婦の銀婚式を祝ったときに、備忘のために書いておいた駄文を打ち出して持参し、山岸支配人に手渡した。
山岸支配人も、ぼくたちの銀婚式のことを覚えてくれていた。
「あのときは、大変でしたよ。高尾と二人でメニューの相談をし、3度ぐらい試作してみましたし。まあ、わたしは味見をする係でしたが」
一瞬、食べかけのローストビーフが喉に詰まった。たった一度の、それも、たった6人だけのためのメニューのために、試作を3度も。まあ、元が取れないことは初めっから分かっていた。しかし、湘南フレンチの始祖を標榜する高尾シェフ自らが、それだけの労力と時間をかけて、ぼくたちの銀婚式ディナーに臨んでくださったことは、ぼくたちにとって素晴らしいプレゼントであったとともに、とても誇らしいことに思えた。
いくつかの三笠会館鵠沼店でのローストビーフの思い出が、頭の中を駆けめぐった。
先の文章にも書いたが、30年ほども前、結婚する前の幸子と最初に食べた時のこと。
ぼくたちの無理な注文に応じて、お昼の時間に特別に焼いてくださった時のこと。やや小振りな塊をそれぞれの皿に切り分けてくださった後、端の部分(まあ、パンで言えばミミに当たるところ)を小さな皿に盛ってくださり
「エンドカットと言います。ちょっと塩気がきつくなりますが、これはこれでおいしいものですよ。のこりの部分は、おみやげにお包みしておきますから」
次の朝、トーストに挟んで食べたエンドカットの味は忘れることが出来ない。
そんな話を山岸シェフにしたら、
「ええ、やはり味がきつくなってしまいますから、普段はお客様にはお出し出来ません。後でお包みしておきますよ」「パンに挟むのは、大正解で、パストラミビーフ何かよりずっと美味しいですよね」
そう言えば、前回のローストビーフを切り分けてくださったのは、高尾シェフではなかった。今、思い起こすと、今回紹介していただいた芳川シェフではなかったか。
「今日は、高尾が休みを取っておりまして、代わりのものですが」
きっと、この時すでに高尾シェフは病を得ていたのだ。
芳川新シェフが、傍目に見ていても緊張しておられるのが分かった。(今回は、ずいぶんとシェフ業も板に付いていたけれど)
高尾シェフの思いでも尽きることはない。娘は、
「わたしの結婚式には、絶対に高尾さんの料理。親子が同じシェフの料理で結婚式やるなんて素敵でしょ」
などと言っていたけれど、もうかなうことはない。
小さかった子供たちが、お子さまディナーを早く食べ終えてしまい、退屈してお店の中をうろうろしていたときなど、グリルでお肉や魚介類を焼きながら、にこにことした笑顔で相手をしてくださっていた高尾シェフの姿を見ることも、もうできない。
だけどね、芳川さん。ぼくたちが結婚したとき、高尾さんはシェフではなくて二番だったのだ。
高尾さんがシェフを引き継ぎ、湘南フレンチを作り上げた。ローストビーフの伝統も引き継いだ。
そして、今の鵠沼店のシェフは芳川さんなわけだ。芳川さんには、芳川さんの湘南フレンチがあり、ローストビーフがある。
ぼくたちは、これからも三笠会館鵠沼店に通い続ける。いいお店の伝統とはそういうものであり、ぼくたちは、このようなレストランとともに家族の歴史を刻み続けてこれたことを、心から誇りに思っている。
改めて、高尾シェフに感謝
合掌

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