Unicodeについて,もしくはUCSについて

Unicodeについて,もしくはUCSについて

《愚者の後知恵》文字コード標準化に係わりを持ち始めたごく初期の論考。まあ、今にして思うと、理解の浅い面や誤解もあるけれど、これもぼくが経てきた道程の一部には違いないので、当時のまま再掲する。
1995年
印刷技術協会における講演

今をときめくJAVAは、文字コードを表現するデータタイプとして,Unicode型をサポートしている.
他にも,マイクロソフトを中心にWindows NTにおいて,Unicodeのコードセットをベースにして,その外字拡張の様式を策定したり,文部省や通産省の外郭団体が,それぞれにUCS準拠のフォントセットを発注したりと,UnicodeとUCSを巡る議論が喧しくなっている.
今,筆者は注意深くUnicodeとUCSとを使い分けたが,この2つの言葉は,往々にして混同して使われ,また,その混同が様々な誤解を招く局面が多々ある.インターネットを中心とする情報の国際化が猛烈な勢いで進行している現在,unicodeとUTCの関わりを考え,世上に流布している誤解の依って来る理由を考えてみることも,あながち無意味ではないと思われる.

まず,違いをはっきりさせておこう.Unicodeとは,Unicde Consortiumという,私企業の連合体が策定した文字コードセット,UCS(Universal Multiple-Octet Coded Character Set)とは,1993年にISO/IEC10646-1として発行され,日本でも1995年に,JIS X 0221として発行されている,公的なコードセット.
この2つは,事実上コードの割り振りとしては全く同一である.誰もが入手できるX0221を繙いていただければ一目瞭然のことだが,そこには,情報処理の世界では伝統的なラテンアルファベットから,ハングル,キリル,その他凡人には読むことも弁別することもままならない世界中の記号=文字が集められている.それが,16ビットのコードと一意的な名前を振られて整然と(?)並んでいる.
少々,細かい議論になるが,UCSは,本来32ビットの空間を想定しており(UCS-4),現在は,利用可能な16ビット×16ビットのコード領域のうち,最初の16ビット分のみを用いたBasic Multilingual Plane(UCS-2,BMP)のみが,規定されている.このBMPが,Unicodeと事実上完全に重なっている,というのが正確な言い方になる.そして,Unicodeの語源となったUnified Coded Character SetとUniversal Multiple-Octet Coded Character Setという言葉が,過不足なくこのコードセットの目的を言い表している.これだけ広範に文字を集めた文字集合を,寡聞にして筆者は承知していない.

しかし,この文字集合は,日本の国内では,あまり評判がよろしくない.Unicodeに対して,反対の意思表明をする人が目に付く,と言った方が適切かもしれない.
曰く,UCSは,所詮Unicode Consortiumが作ったものだから.
曰く,強引にUnifyしたものだから,日本のと簡体字のの区別もできなければ,本来由来の異なる「芸」と「藝」の略字の「芸」が,同一のコードに割り振られたりしている.
曰く,日本の人名や地名を正確に記述することができない.
曰く,2万字あまりの漢字しか表現できない.諸橋大漢和辞典の5万字の文字がなければ,日中の古典の文化を電子の世界で継承することができない.
挙げ句の果ては,結局ISO10646は,Unicodeに乗っ取られたのだ.
これらの,批判は,事柄としては,概ね正しいことを言っているが,筆者は,その背後に,ある種の悪意を感じざるを得ない.すなわち,
公的な規格策定に,私企業の連合体が口出しするのはお門違いではないか
西欧人に,日本の伝統的な漢字文化が分かるわけがない
日本のことは,日本で決めるから,外からは口出ししてほしくない
どうも,悪意が先にあって,そのはけ口として,先の批判が出てきているように思えてしかたがないのだ.

Unicodeそれ自体は,単純な16ビットのキャラクターセットなので,技術的には何ら難しいことはない。しかし,それが誤解に基づく非難も含めて,話題に上るのは,複数の言語を統一的に扱うという,ある種バベルの塔的な試みに踏み込んでいるからであり,そこに,抜き差しがたい文化的な軋轢が内包されているからに,他ならない。さらに,そこに様々なレベルでの政治的な問題が関与してくるので,ことはさらに複雑になる.では,文化的な問題とはどういったところにあるのだろうか.また,政治的な問題とはどういったことなのだろうか.以下,筆者の限られた経験と認識からではあるが,一つの視点からの分析を試みる.いささか乱暴な言い方になるが,UnicodeないしはISO10646を理解するとは,ほとんどそれを取り巻く文化的社会的政治的状況を理解することに他ならない.

遅蒔きながら,ここで筆者の立場を明確にしておきたい.後で詳しく触れるが,筆者は,現在,日本企業としては(外資系企業もしくは多国籍企業の日本法人をのぞく)唯一のUnicode ConsortiumのFull MemberであるJUSTSYSTEM Corp.の代表として,UTC(Unicode Technical Committee)に参加している.また,Unicode Consortium(Unicode Inc.)のBoard of Directorsの一員にも,選任されている.さらに,最近のことではあるが,SC2WG2の下のIRG(Ideographic Rapporter Group)に対応する情報企画調査会のSC2漢字WG小委員会の委員の一員に加えていただいている.
このようなわけで,Unicode Consortiumに関しては,日本では,ある程度その利益を代表する立場にあるし,同時に,出身母体企業である株式会社ジャストシステムの利益を代表する立場にある.
同時に,IRGに関しても,微力ではあるが,裨益する立場にある.
しかしながら,筆者自身としては,日本に限定せず,非英語圏の一般の人々,就中,東アジア漢字文化圏に生活する人々が,コンピューターを用いたり,情報通信を行う際に,不便や不利益を感じないような環境を実現するために少しでも役に立ちたいと考えている.

さて,Unicodeに対する,批判に立ち返ろう.
先に挙げた批判の一つに,ISO10646は,所詮はUnicodeだから,というものがあった.実際,ISO10646として策定されたUCSは,その審議段階では様々な可能性を持っており,一度は,現在と全く異なるアーキテクチャのものとして,国際投票にまで持ち込まれ,そこで否決された経緯があるという.その後,ISOの場とは全く別個に策定が進められていたUnicodeを骨子とする案を採用,様々な審議を経て,国際投票でも採択された.
このことから,上記のような批判が生まれてくるわけだが,ISOの場で終始反対の立場を取っていた日本も,最終的には賛成に転じたと聞いている.さらには,このような批判をする人たちがよく指摘する「Unicode Consortiumの西欧人がよく分かりもしないで作った漢字パートを押しつけられた」という批判は,誤解ないしは悪意の曲解としか思われない.審議の過程で,いわゆる漢字パート(CJK Unified Ideograph)は,中国,日本,韓国,それに台湾から委員が出たCJK-JRG(Joint Research Group)によって,審議されているのだ.異議を唱える対象は,Unicode Consortiumではなく,CJK-JRGのメンバーであるべきであって,漢字を使う人たちの間での意見の違い,主義主張の違いと言うことになる.このレベルの争いや議論は,ISO10646ならずとも,JISの中でも数限りなくあり,ことさらISO10646だけをあげつらうべきものではない.急いで,付け加えておくが,だからといって,筆者は,CJKパートが完璧なものであると主張しているのではない.自国ないしはアジアの中の争いを,西欧との争いに転嫁するという構造を指摘しているにすぎない.日本が国として賛成票を投じたものに対して,反対 の立場を取るものが,賛成の立場を取るものとの議論を飛び越して,Unicode Consortiumを非難するのは,お門違いというものであろう.

人名,地名等の日本独自の文字の問題.
これも,Unicodeに対する非難としてよく耳にする.が,この答えは,簡単で,UCSは,JISをそのまま踏襲したから,JISの問題点も踏襲したのであって,それ以上でもそれ以下でもない.国内規格の不備を棚に上げて,国際規格の不備に転嫁するというのもまた,おかしな話である.

では,現在のUnicodeに問題はないのか,残念ながら先に挙げた非難の概ねは,事柄としては現在のUnicodeの問題点の一部を正確に指摘している.正直なところ,CJKパートのユニファイの方法は,実際面としていくつかの破綻を来しているように,筆者には思われる.
先に挙げた「骨」と「*骨*」の問題は,日本,韓国,台湾の2カ国1地域と,中国との実際に用いられる字形の違いを無視して統一を図っている.また,「芸」という文字は,日本では「藝」の略字として用いられるのが常であるが,中国では本来草むらの意味で用いられる「芸」と同じコードを割り振られている.やっかいなことに,日本では,この意味では,草冠に本字の形を用いた「*芸*」という文字を使っており,これは,JISX2028にもZJISX0212にも含まれていない.
CJK-JRGの立場も,UTCの立場も,「芸」については,UCSが文字の形にのみ注目し,意味には踏み込まないという点では,一貫している.これは,考え方の相違としかいいようがなく,この問題を深追いしていくと,やはり,UCSの全否定に行き着かざるを得ない.一方,筆者には,「骨」に関しては,やはり,破綻がかいま見えるとしか言いようがない.他に微少な相違にも係わらず異なったコードを割り振られている漢字が多くあるのに,「骨」だけがなぜ? というのが,正直な印象である.
いずれにしても,筆者としては,CJKのそれぞれのパートを弁別するための何らかの方策が必要ではないかと考えており,具体的な提案もUTCの場で,準備している段階にある.
漢字の数が足りないということについても,諸橋漢和の例を引くまでもなく,足りない人には足りないだろう,というのが正直なところである.中国や日本の古典文学を専攻している人たちを中心に,原典のデータベースを構築する上での文字の不足を訴える声も小さくはない.しかし,欲を言い出したら切りがない.現在,IRGからWG2に対して,BMPへの約6000字の漢字の追加要求が出されているが,BMPとしては,そろそろ限界に達しているし,他の文字の追加などを考えると,BMP以外への漢字のマッピングも考慮すべき時期に来ていると言えるだろう.漢字に関しては,おそらくは,5万字を登録しようが,8万字を登録しようが,永遠に追加要求が続くのではないかと思われる.
先の,Unicodeに対する非難の一つに,今,答えておくと,「Unicodeは,16ビットしか空間がないから,漢字をすべて登録するのは,不可能である」というのは誤解で,先に指摘したように,UCSの32ビットの空間を用いれば,もちろん可能だし,16ビットに拘泥しているUnicode Consortiumの立場を認めたとしても,現在準備中のUnicode Ver.2では,ある種のエスケープシークエンスにより,UCS-4へのマッピングの方法を準備しているので,十分対応することは,可能なのだ.

さて,ここまでのところで,筆者がよく耳にするUnicdeないしはUCSに対する技術的な側面を持つ非難については,ある程度の答えを提供できたのではないかと思う.いよいよ,文化的,感情的な非難の側面に足を踏み入れなければならない.
正直に告白すると,筆者自身も当初は,冒頭に挙げたような非難を目にしたり耳にしていたために,無批判にその非難と同調していた節がある.ところが,ひょんなことからUnicode Technical Committeeに参加することとなり,それらの非難が非常に狭い視野に立った独善的なものであることに気がつくと同時に,より深く深刻な文化的問題が存在していることに,気づかされる結果となった.
昨秋9月,第7回のUnicode Conferenceが,カリフォルニア州のサンノゼで開催された.事実上,筆者のUnicode Consortiumへのデビューだったのだが,非常に刺激的な会議であった.中でも,コンピュータサイエンスの神話上の神々の一人であり,印刷業界の方々には,TeXの生みの親として知られるドナルド・クヌース教授が,キーノートスピーカーとして講演され,その後のセッションにも一番前の机に陣取って参加され,熱心に質問や意見を述べておられたのが,ある種の感動とともに,大変印象に残っている.
その後,12月のUTC,1月のボードミーティングと参加するうちに,だんだんとメンバーたちの識別もつくようになり,今年4月に香港で行われた第8回のコンファレンスでは,コンファレンスチェアを務めたIBMのLisa Mooreに頼み込まれて,キーノートスピーカーとしての紀田順一郎氏の招待,日本からの公式ツアーの手配など,さまざまな下働きを務めるまでになってしまった.
この過程で持ったメンバーたちの印象は,誠意と熱意と善意を持った,とても良い人たち,ということになる.彼らには,日本のみならず東洋の国々に対する敵意など,微塵も見られない.会議のたびに遠路駆けつける筆者に対して,心からのいたわりと感謝を示してくれる.そして,ことあるごとに,日本人としての,また,漢字文化圏の一員としての意見を聞いてくれる.
しかし.
何かが,決定的に異なっている.その何かは,当初から筆者の印象としてはあったのだが,それが明確に意識できるようになるためには,しばしの時間を要した.
しかし,自らが生まれ育った文化の中で培われた世界観は,一朝一夕にはあらためられないのではないか.それが,筆者が現時点で抱いている彼らUTCのメンバーについての感慨である.
もう少し,具体的な例を挙げよう.現在,UTCの2回に1回は,ISO10646対応の米国の国内委員会であるAccredited Standards Committeeの,X3L2と呼ばれる委員会と合同で開催されている.先にも触れたように,現時点でほぼ定常的にUTCに出席しているアメリカ以外に本拠をおく企業のメンバーは,筆者一人(Dayna Lab.のアメリカでの代理人が出席する場合がある)であり,X3L2のメンバーは事実上すべてUTCのメンバーに含まれており,かつ,議題もほぼ完全に重なるので,彼らにとっては,合同で行った方が,スケジュールの調整や移動時間,費用を考えると,実務上圧倒的に便利なのだ.
それは,分かる.しかし,筆者が参加した最初のUTCがX3L2との合同委員会の最初の試みでもあったのだが,意志決定のための投票が当初,UTCとX3L2との区別なしに行われかけたときには,正直,唖然としてしまった.緊急に発言を求めて,UTCの決議とX3L2の決議を別に行うべきことを指摘した.
驚いたことに,筆者の指摘は,彼らに感謝をもって受け入れられた.以後,合同の会議の際は,議事の進行に伴って行われる決議はUTCの意志決定に限定し,X3L2の決議は,X3L2の議決権を持つ者のみで,事後的にまとめて意志決定の確認を行うという習慣が確立された.
このように,UTCが国際的な組織の形態をとっているとはいっても,実際上は,ほとんど意識されることもなく米国の利害を代表してきたというのが,実状だろう.
先のCJKパートの成り立ちについても,同様の無意識の前提が存在するように思われる.すなわち,UCSないしはUnicodeが対象とする情報分野は従来は英語で記述されるべきもので,それをそれぞれのローカルな言語に置き換える際の利便性のためにUCSないしはUnicodeが存在する,という考えである.英語を中心とするスター型のネットワークがあり,周縁に存在するノード同士は直接結びつけられることなく,いったん英語に置き換えられた上で,相互に結びつく構造を想定していただければ良いだろう.彼らの発想の中に,たとえば,現代の中国語と日本語がネットワークの上で混在するという状況は想定されていないのではないか,そう考えると,CJKをUnifyするという考え方も,納得できるような気がする.(ここの部分は,先に触れた,Unicode批判に対する反論と一見矛盾する.しかし,先の筆者の反論は,状況を追認するだけで積極的な反論を行わなかったCJK-JRGにも責任の一半があり,無意識の先入主のもとでの善意の判断を批判するのは筋違いではないか,という点にある)
このような,筆者の印象に対して,メディア論を専門とする水越伸氏(東京大学社会情報研究所)が,「小林さん,それこそまさにPax Americanaそのものですよ」と,喝破された.以後の議論は,若干うがったものであり,異論もあると思われるが,最後にやや踏み込んだ仮定を展開したい.
クリントン・ゴアの情報スーパーハイウェイ構想に係わるスピーチやレポートを集めたものを読んだことがある.ここで展開されている考えのベースにあるのは,次の世紀にまで続く米国の優位性の確保である.情報スーパーハイウェイは,世界の平和でも後進地域の繁栄でもなく,米国の繁栄を目指していることは,明らかである.それを,非常に楽天的に強調しているところに,クリントン・ゴアの問題があるように思われるのだが,UTCのメンバーたちも,実はほとんど意識することなく,Unicodeの普及を通して,クリントン・ゴアのある種の情報覇権主義に荷担することになるのではないか?
先日の香港での会議の際,打ち合わせの合間を縫って,マカオに足をのばした.イエズス会が1600年代に建てた教会の正面のみが残っており,その近くの高台には,これもイエズス会の砲台があった.思えば,当時,フランシスコ・ザビエルを含め,多くの宣教師が,まさに善意で彼らの神をアジアに伝える努力をし,それが,スペインやポルトガルなどの東洋への侵略に荷担したのだった.
UTCの仲間たちが,かつてのイエズス会士の轍を踏まぬように,及ばずながら意見を表明していくことが,筆者なりの彼らに対する誠意であり,日本語を母語とし,日常的に漢字を用いている筆者の責務ではないかと考えている.

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藤沢市民オペラ《トゥーランドット》

藤沢市民オペラ《トゥーランドット》を見た。11月23日の公演。
ぼくは、1973年の第一回藤沢市民オペラ《フィガロの結婚》から、2003年の《地獄のオルフェ》まで、30年にわたってオケピットに入っていたので、じつのところ、藤沢市民オペラを見たのは初めて。正確にいうと、藤沢市民オペラと銘打った公演には、一部、プロのオーケストラがピットに入ったものもあるので、その一部は、客席から見ている。《夕鶴》《ヘンゼルとグレーテル》《蝶々夫人》など。
客席から藤沢市民オペラを見て、あらためてここで起こっていることはすごいことだ、と思った。客席は本当に満員。すべての人々が、この公演を楽しみにしているのが、ひしひしと伝わってくる。何よりも、拍手が素晴らしい。一幕のリューのアリアでも三幕のカラフのアリアでも、各幕が降りるところでも、本当に絶妙のタイミングで拍手が巻き起こる。一幕と二幕のフォルテッシモの幕切れでは、オーケストラにかぶっている拍手が、三幕のピアニッシモの幕切れでは、一瞬の静寂をおいての割れんばかりの拍手。
合唱やオーケストラの一員として参加している人たちの家族や知人も多いのだろう。ぼくの娘もバトンを引き継いでくれて、合唱の一員として参加していた。かつてのオーケストラのメンバーやダブルキャストのために今日はピットに入っていないメンバーもチケットを購入して客席にいたりする。このような舞台、ピット、客席の一体感が、何とも言えぬintimateな雰囲気を醸し出している。
ああ、これが藤沢市民オペラなのだ。
家族や知人の一体感ならば、アマチュアの発表会でもあり得るだろう。しかし、演奏のレベルとそれを楽しむ聴衆のレベルの高さ。このような場が存在すると言うこと自体が、ほとんど奇跡と言っていい。
福永陽一郎が種を蒔いたこのムーブメントは、畑中良輔さんや若杉弘さんが引き継ぎ、30年の年月を重ねてここまで成熟したのだ。
ここまで書いてきて、自覚したのだけれど。ぼくは、客席にいながら、オケピットに入っていたときとほとんど同じような気持ちでオペラの公演に参加していたのだ。緊張感はずっと少なく、楽しみはずっと多かったけれど、オペラを一緒に作り上げていく、という気持ちでは、何ら変わることはなかった。
そう、この気持ちの一体感が、藤沢市民オペラなのだ。
ブラボー。

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.xxxに対するICANNの対応

久々に、On the Media ネタ。
Dot Triple X
トップレベルでドメインネームのエクステンションを管理しているのは、ご存じICANN(The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)
民間の非営利法人ということになっているが、

ICANN was created by the U.S. Government and despite international representatives on its board, ICANN ultimately still answers to the U.S. Department of Commerce. But the Department has never used that authority until last month. That was when a five-year-old plan to generate a new domain name suddenly ignited new outrage, mostly from the Christian right. The new domain name was to be .XXX, designed specifically for Internet porn. After a deluge of six thousand letters, the Commerce Department stepped in to halt ICANN’s imminent passage of .XXX.

ポルノサイトを.xxxにまとめるのがいいかどうかは、まさに、議論の分かれるところ。だが、ぼくの関心は、以下の点にある。
ICANNが国際的中立を装っていながら、究極的には米国政府の管理下に置かれていること。(正確には、米国商務省)
その、権力介入がキリスト教保守主義陣営の反対を契機としていること。
ぼくは、この10年ほど、Unicodeに関わってきて、ある種のPax Americana症候群をさんざん目の当たりにしてきたのだけれど、インターネットの世界にもPax Americana症候群あり、といったところ。ICANNよ、おまえもか。

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Rioブランドが消える日

初期のシリコンオーディオを引っ張っていたRioのブランドが、市場から消えるという。
う~ん。何だか、感無量だなあ。
ぼくは、割と先物買いなので、PMP300というRioの初号機も購入した。それも、日本では手に入らなくて、友人に頼んで、香港で買ってきてもらった。
ところが、ACアダプターのプラグが、香港仕様のバカでかい三つ叉タイプで、それを日本のソケットに差し込むためのアダプターを探して、秋葉原中を走り回ったりしたものだ。
その後、ぼくは、いったい何台のシリコンオーディオを買っただろう。もう数え切れないほど。
そのうち、iPodが出た。iPod Shuffleも出た。日本の大手家電メーカーも含め、多くのメーカーが、大同小異の機械を出し、今や、老若男女がいたるところでシリコンオーディオで音楽を聴く時代がやってきた。
そうした中で、ウォークマンを世に送り出したソニーは、一時期シリコンオーディオの分野で決定的な遅れを取っていた。まあ、その大きな理由は、ソニーが取ったコンテンツ提供者側に寄った知的財産権保護の施策にあったことも周知の事実だが。
ぼくは、ウォークマンの初代も買ったのだけれど、時代に魁けるヒリヒリするような快感は忘れがたい。その快感の中には、時代に魁けて製品を世に送り出した開発者たちへの仄かな共感も含まれていたはずだ。
いささかのほろ苦さとともに、魁けたちへの惜別の挨拶を送りたい。
ありがとう、Rio。

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Peter Jennings:あるアンカーの死

ABCのカリスマアンカーだったPeter Jenningsが死んだ。8月7日。享年67歳。死因は肺ガン。
例によって、On The Mediaでも、このことを取り上げている。
http://www.onthemedia.org/transcripts/transcripts_081205_jennings.html
大きな流れとしては、偉大なアンカーたちの時代が終焉を迎えつつあり、インターネットを軸とする新しいメディアが台頭してきている、という趣旨になっている。しかし、この番組(Bob garfield)の立場は、心情的には古き良き時代に与している。

In the worst of national moments the anchorman’s authority and celebrity convert to trust, imposing a sense of calm in the midst of chaos. War, terror, assassinations, space catastrophe–that’s when an anchor takes hold, keeping the society moored to the sandy bottom.

上記のフレイズは、旧メディアと新メディアとの相克についての議論で、旧メディアの(いい意味での権威性)について、余すところ無く語っている。そして、最後のマクルーハンを踏まえた一言が、何よりも偉大なアンカーに対する惜別の言葉となっている。

Google News and Wikipedia are all well and good, but the medium is more than the message. It’s the messenger, too.

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NINAGAWA十二夜

七月大歌舞伎、NINAGAWA十二夜を見た。(7月26日、昼の部)
意外なことに、蜷川幸雄が歌舞伎の演出をしたのは初めてとのこと。
ぼくたちのすぐ後ろの席に、翻訳者の小田島雄志先生がいらしていて、ぼくは、学生時代に教室の片隅で謦咳に接したことがあるものの、先生が覚えておられることなどあろうはずもなく、一方的に少し居心地の悪い思いをしたわけだけれど。
劇そのものについては、まあ、素人がどうのこうのと言うこともないと思うが、ぼくには心底から楽しめた。
この貪欲さというか、冒険をおそれない大胆さというか、歌舞伎が過去のものではなく、現代に生きている演劇だということを痛感した。
先日、ベルリンのシュターツオパーで感じたオペラの伝統といったことが、東京の歌舞伎座で、全く同じように息づいていることに、ぼくはちょっと誇らしい思いを抱いたのだった。

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《龍生》という名前:円満字二郎著『人名用漢字の戦後史』を読んで

今春、父が脳溢血で倒れた。曲折はあるが、以後父が意味のある言葉を発することはない。
まあ、齢90も目前なので、生きている間は、出来るだけ時間を共有しようと、しばしば病室に通っている。が、こちらからだけでも話しかけようと思っても、今までの会話の少なさがたたってか、話しかける話題の貧困さに愕然とする。
円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)を読んで、言葉を発しない父にどうしても聞いてみたいことが生じた。他でもない、ぼくに《龍生》という名前を付けた父の思いのことだ。
ぼくもご多分に漏れず、自分の名前には、それなり以上のこだわりを持っている。《龍》が《竜》でも《辰》でもないこと、《生》が《夫》でも《男》でもないこと。《生》については、亡母から聞いたことがある。当初、父は、《龍夫》を考えていたが、姓名判断で画数を変えるように勧められて《龍生》にした云々。
しかし、《龍》の部分について、父にどのような思いがあったか、ぼくは考えたことはなかった。
円満字さんの新著は、新しく生まれた子の名前に用いることが出来る漢字の制度面での変遷を、戦後の政治社会状況、日本の言語施策と重ね合わせて語り、その斬新な視点とていねいな論述には、多くのことを教えられた。
しかし、なによりも、ぼくは、人名漢字としての《龍》の由来の部分を、まるで映画「バックトゥーザフューチャー」を見るように読んだ。
ぼくが生まれたのは、1951年7月14日。7月27日には、父によって出生届けが提出され、受理されている。
しかし、ぼくの名前に含まれる《龍》の字は、1948年1月1日に改正戸籍法が成立してからしばらくの間、新しく生まれた子の名前には使えない状況にあった。すなわち、新戸籍法は、その施行規則で、新しく生まれた子の名前に使える文字を、1945年に制定された当用漢字1850字と変体仮名を除く片仮名、平仮名に制限していたのだった。
さまざまな曲折を経て、この制限が変更されたのは、1951年5月25日。内閣告示・訓令として92字からなる「人名用漢字別表」が交付されたのだ。《龍》は、この92字に含まれていた。
ぼくは、円満字さんの筆によるこの経緯のていねいな記述を「おいおい、ぼくが生まれるまでに、《龍》の字は間に合うのかよ」などと思いながら、わくわく、どきどき、追っていったのだった。「人名用漢字別表」が無事発布されたくだりでは、思わずほっとしたりしてね。
ぼくが生まれたとき、父は35歳11か月。ぼくより2歳年長の姉がいたが、おそらくは待望の男子誕生だったろう。
1949年10月1日に中国の内戦が共産党側の勝利で終結し、1950年6月25日には、朝鮮戦争が勃発している。1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の調印を控えている。
ほんとうの戦後はすぐ目の前にまで来ている。そんな時代だった。
そんな時代に、父は、2か月前に使えるようになったばかりの92字の中から《龍》を選び取って、ぼくの名を付けた。ぼくがもう少し早く生まれていても、「人名用漢字別表」の発布がもう少し遅れていても、今のぼくの名前はない。
ぼくは、《龍生》以外の名前を持つぼくを想像することが出来ない。ぼくは《小林龍生》であり、小林信夫の息子の《小林龍生》は、ぼく以外にはいない。
父も、ある時代の中で、一人の父親として、真剣にぼくの名前を考えてくれたのだ。そして、父は、その名前に唯一無二のぼくの未来を託したに相違ない。
父とコミュニケーションが取れるようになったら、このことを聞いてみよう。でも、たとえ父が再び言葉を発することが無くても、ぼくの父の思いへの確信はゆるがないだろう。
そして。
ぼくは、自分の長男に《巌生》と名を付け、次男には《龍二》と名を付けた。巌生は今年の1月に生まれた彼の長男に《蒼生》と名を付けた。どれにも《人名用漢字》が含まれている。
円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』は、ぼくたちの、ささやかな、しかし、かけがえのない家族の歴史に思いをいたすための、またとないよすがとなったのだった。
円満字さん、ありがとう。

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ベルリンの伝統

いささか旧聞に属するが、この4月、International Unicode Conferenceの機会に、妻と一緒にパリとベルリンを訪れた。ベルリンでは、国立劇場で、「ノルマ」と「ばらの騎士」を、見た。もちろん、「ノルマ」もすばらしかったが、何と言っても「ばらの騎士」には圧倒された。
2004年の秋に同じ劇場で、「椿姫」を見たときにも感じたことだが、決して派手な演出ではない。舞台装置と言い、衣裳と言い、どちらかというと、簡素というか、抽象的というか、それが演出意図と言われれば、そうなのだろうが、結果的には、コストの安い舞台となっていた。
「ノルマ」は、80ユーロ、「ばらの騎士」は、65ユーロだった。日本からインターネットで注文し、チケットは、航空便で自宅に届いていた。安価だと思う。前回、ベルリンを訪れた時も、地元の方が、ベルリンの歌劇場は、ドイツの他の都市に比べて、入場料が非常に安い、ということを言っていた。
ベルリンは、行政の方針として、ある程度制作費を抑えてでも、市民に対して安価にオペラを見る機会を提供しようとしているのだと思う。
しかし、コストを切りつめる、ということが、安っぽさにつながっていないところ、ぼくは、そこに文化の厚みを感じる。
劇場に売っていたプログラム(一つのプロダクションごとに作ると思われる、小さいが立派な装幀の本)によると。
「ばらの騎士」の世界初演は、1911年1月にドレスデンで行われている。
同じ年の11月には、今の国立劇場の前身であるLindenoperで、ベルリン初演が行われている。
現在のプロダクションの初演は、1995年3月。
同じオペラを100年近く上演し続け、現在の演出になってからさえ、10年間も演奏を繰り返している。
指揮者も歌手もオーケストラのメンバーも、おそらくは、客席のドアの開け閉めをしている職員の一人一人に至るまで、このオペラを知悉しているに違いない。オペラの制作に関わった人々のすべてが、自分が何をするべきかを完全に理解して、確実に自分の役割を果たしている。
歌唱が安定しているとか、オーケストラのアンサンブルがいいとか、現象面での個々の批評を越えるところで、高い完成度が実現している。
その上で、何とも言えない柔軟さというか、余裕というか、自由闊達さというか、音楽が生き生きと伝わってくるのだ。ぼくたちは、音楽を堪能した。
ああ、こういうのを伝統と言うのだな、と思った。
突飛な比喩かもしれないが、ベルリンが作り上げてきた音楽の伝統というのは、鍾乳石のようなものなのではないか。一滴一滴の水滴が石灰質を析出し、それが営々として積み重ねられて、強固で美しい鍾乳石を形成していく。一晩一晩の演奏が営々として積み重ねられて、ベルリンの音楽の伝統を形成していく。
もちろん、日本は日本で、能狂言、歌舞伎、落語などの文化の伝統を持っている。ぼくたちも、歌舞伎座に行けば、そのような日本の文化の伝統を身近に感じ取ることが出来る。
では、日本における西欧音楽の伝統とは。
ぼくは、決して悲観的にはなりたくない。しかし、65ユーロで、これほどの完成度を持った「ばらの騎士」を、日常のこととして見ることの出来るベルリンの市民を、ぼくはうらやましく思う。

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コバケンの幻想

随分と長い間ポストしなかったなあ。
理由の一つは、このブログのホストに使っているMovableTypeの脆弱性のために、恐ろしい数のスパムコメントにやられて、ちょっと嫌気がさしたことと、身辺雑事に追われて、外界に対するコミュニケーションパワーが極端に落ちていること。しかし、こんなブログでも見に来てくださる方もいるようだし、久々に気を取り直して。
7月2日(土)、日本フィルハーモニーの横浜定期で、小林研一郎指揮のベルリオーズ『幻想交響曲』を聴いた。名演と言ってもいいだろう。指揮者、オーケストラとも、この曲を自家薬籠中のものとしていて、細部にわたるまで、相互の理解が行き届いている。その上で、炎のコバケンそのものの熱のこもった演奏が繰り広げられた。
しかし、ぼくが、書きたいのは、そのことではなく、いや、演奏のすばらしさに加えて、と言おうか、演奏を聴きながら想起された一連の思い出。
30年ほども前、小林研一郎がハンガリーの指揮者コンクールで劇的な優勝をする前、ぼくは、彼の指揮で幻想のティンパニーを叩いたことがある。
全国大学オーケストラ連名(以下、オケ連)という組織があって、ぼくは、そのころ、事務局長を務めていた。
幻想のティンパニーを叩きたい一心で、仲間と言いつのって、オケ連の特別演奏会をでっち上げ、コバケンに指揮を頼んだのだった。初めは、企画のいい加減さと意図の不純さを察したのか、固辞を決め込んでいたコバケンが、曲目を聞いたとたん君子豹変、「どうしてそれを先に言わないの」の一言で、快諾してくれた。
もう、時効だと思うから告白するけれど、謝礼も払った記憶がない。確か、仲間の一人が父君の酒庫からかすめ取ってきたスコッチウィスキーと売れる保証などない入場券何枚かを手渡しただけだったと思う。
しかし、コバケンは、当時の愛車だったフェアレディーZを自ら繰って、都内大学を転々とする練習に何度も駆けつけ、精力のこもった指揮をしてくれた。
ぼくたちの演奏会の少し前に、京大のオケが幻想を演奏しており、その際、京大オケの冶金学科在籍者が、最後の楽章のための鐘を作った話を聞き及んでいたので、ぼくたちは、はるばる仲間の車で、その京大の鐘を借りに行ったりもした。そのころ京大でコンマスをやっていた神前和正君は、自らもヴァイオリンを抱えて、上京し、演奏に加わってくれた。
本番は、言うに及ばず、コバケンの熱演あって、寄せ集めのオケとしては、上々以上のできだったように記憶している。だけど、なによりも、オケのメンバー集めから、会場の手配、チケットの売りさばきと、何から何までを、自分たちでやったことで、ぼくたちには、強い友情が生まれた。
そんな演奏会だった。まあ、青春の一齣とでも言うのだろうか。
以前書いたことがあるが、ぼくには、10年以上もコンサートに行かなかった時期がある。その反動か、ちかごろは、妻と一緒に、ずいぶんよくコンサートやオペラ、歌舞伎などに行く。
そうした流れの中で、日フィルの横浜定期にも通うようになった。コバケンの幻想は、そんなぼくの近ごろの音楽生活を、直接に30年前と結びつけてくれた。
53歳のぼくは、コバケンの幻想を客席で聴きながら、20代前半に戻って、頭の中でティンパニーを叩いていたのだった。

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ホテルビーナス

米国ベイエリアのホテルで、映画ホテルビーナスを見た。
2月3日(木)の夕方、成田を発って、同じ日のお昼前に、定宿にしているUnion CityのExtended Stay Americaにチェックイン、スーパーに食べ物や飲み物の買い出しに行って、一風呂浴びて一眠りして。
夕方から見始めた。
いい映画だと思う。心を動かされた、と言ってもいい。
この映画を一言で言い切ってしまうと、「死と再生の物語」。近しい人の喪失は、自己の部分的な喪失でもある。喪失した自己が占める割合が大きいか小さいかは、人によってそれぞれ異なるとしても、近しい人を失うことが多かれ少なかれ自己の喪失であることに違いはない。
ホテルビーナスには、そのようにして、自己の一部を失った人たちが集まってくる。
自己のよりどころが時間の流れにあるとすると、ホテルビーナスの時間は、ほとんど止まっている。
その時間が、サイという母親を失い、会話と笑顔を失った子供に、会話と笑顔を取り戻させようとする人々の営為によって、少しずつ流れを取り戻していく。
外国のホテルでの一人きりの時間は、恐ろしいほど緩慢に流れていく。そうした時間の中で見たホテルビーナスは、家族や友人たちとのつながりによって成立している自分を思い起こすなによりの時となった。

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アンサンブル・エスプリ・フランセ

フルート奏者の工藤重典さんが主宰しているアンサンブル・エスプリ・フランセのコンサートを妻と聴いた。
2004年12月14日(火)19:00~、横浜みなとみらいホール 大ホール。
素晴らしくご機嫌なコンサートだった。
コンサート前に、「54スープバー」で、8種類の野菜(+キノコ4種類)スープとチキンの赤ワイン煮込みを半分ずつ。クイーンズスクエアは、大きなツリーが飾られていて、クリスマスムード一杯。
このアンサンブルは、フルート、オーボエ、ファゴット(工藤さん的にはバッソン)、ヴァイオリン、チェンバロという、現代ではほとんど耳にすることのない組み合わせ。でも、18世紀のヨーロッパでは、ごく普通の組み合わせだった由。確かに、古典派の時代に確立した、弦楽四重奏の求心力やピアノ三重奏のダイナミックな構築性とは随分と趣を異にするが、異なる音色の組み合わせと緊張を強いることのない音楽の流れは、まさに“典雅”そのもの。大ホールの一階席だけに客を入れていたけれど、欲を言うともっと小さなホールもしくはサロンみたいなところで聴きたかった。ま、無い物ねだりというか。
選曲も良かった。
前半に、J.C.バッハ、モーツァルトの魔笛のアリアをフルートとオーボエに編曲したものを3つ、そしてヴィヴァルディ。後半は、やはりモーツァルトではじまり、アンドレ・ジョリベのフルート、ファゴット、チェンバロ(原曲はハープ)のためのクリスマス・パストラル、そして、フランセ。
アンコールの、オンブラマイフやシャンソンのメロディーによるメドレーにいたるまで、隅々まで配慮が行き届いた選曲だった。中では、ジョリベの作品が秀逸。
コンサートが終わってクイーンズスクエアに出てきたら、ちょうど、クリスマスツリーが美しいイルミネーションとともに、クリスマスソングのメドレーをやっていた。ひとしきり立ち止まって、帰路へ。
生活空間と自然につながりながら、華やいだハレの気持ちを味わうことのできた、とてもいい時間だった。

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ベルリン、生活の中の音楽

10月の下旬は、標準化の会議(ISO/IEC JTC 1総会)で、ベルリンに行っていた。
ヨーロッパに行くのは年に一度程度で、いつも何だかバタバタしていて、残念ながら今まで音楽会に足を運ぶことはほとんど無かった。唯一の例外は、2001年に妻や娘とパリに行った折りの、教会での弦楽オーケストラのコンサート。
今回は、ベルリンだということもあり、出来れば、オペラの一つも見たいなあ、と思ってはいた。
しかし、ぼくは、一人で音楽会に行くのは、あまり好きではない。前に、バーンスタインとイスラエルフィルのことを書いたことがあると思うが、コンサート前後の食事や休憩の時間を一人で過ごすのは、味気ないものだ。その一人の時間の間に、せっかくの豊かな音楽が、どんどんやせ衰えてしまうような気がする。
今回は違った。頼もしい先達に出会うことが出来た。
戸島友之さん。NTTエレクトロニクスの社長をなさっていて、ISO/IEC JTC 1/SC 23のチェアでもある。ふとした会話から、戸島さんが大のオペラファンで、今回も国立劇場の椿姫を日本から予約しておられたことを知った。
こうなるともうたまらない。インターネット調べまくりで、結局はホテルのコンセルジュに頼んで、チケットを一枚手配してもらった。
ぼくが調べたところでは、ベルリンの国立劇場(staatsoper-berlin)は、日本からもインターネットでチケットの予約が出来る。ぼく自身は、どうもクレジットカード決済のところが不調でうまくいかなかったが、日本代表団の一員としてやはりベルリンにいらしていた方は、日本から予約して魔笛をご覧になったとおっしゃっていた。
ぼくが入手したチケットは、10月28日(木)のもの。一番高い席で63ユーロ。ホテルのコンセルジュに手配を頼んだので、15%の手数料を払った。支払いは、宿泊費などと一緒にチェックアウトの際に。
楽しみにしていた当日。
椿姫は、日常的なレパートリーになっている。詳しいスタッフやキャストは劇場のホームページを参照していただきたい。
古典的な衣装や舞台装置とは無縁な随分と斬新な演出だった。
舞台前面全面を、細かいメッシュの金網が紗幕のように覆っていた。これが日常的なものなのか、この出し物のためだけなのかは分からない。舞台後方のビニールのカーテンを水が伝い落ちており、背後から当てられる光を散乱させて、この紗幕に影を映し出して、なかなか幻想的な雰囲気を醸し出している。
前奏曲の始まりから、真っ白い衣装に光の当たったヴィオレッタが舞台に。
前奏曲の途中から現れる他の人物の衣装は、全員真っ黒。
驚いたことに、このプロダクションでは、前奏曲から三幕までを、休憩なしに一気に演奏した。その間、ヴィオレッタは出ずっぱり。二幕の通常はアルフレードとジョルジョ・ジェルモンだけが舞台で掛け合いをするところも、気を失って倒れている状況ながら、舞台から去ることはない。
この演出で特に興味を引いたのは、ジョルジョとヴィオレッタとの関係。ジョルジョとヴィオレッタとの肉体関係を示唆するような動作が随所に見て取れた。歌詞や音楽とは全く独立に、演出上は、ジョルジョがアルフレードからヴィオレッタを引き離したのは、娘の結婚のためなどではなく、ヴィオレッタへの横恋慕から、といった妄想を抱かせる。
二幕の、ヴィオレッタとアルフレードの二重唱、ヴィオレッタとジョルジョの二重唱が、ともにイスの小道具に使った縦の構成(ヴィオレッタが歌いながらイスの上に立ったりする)が、そっくり重なる。ジョルジョとアルフレードが言い争う場面では、ジョルジョ(あれ、アルフレードだったっけ)が、イスを投げつける場面もある。
ヴィオレッタが高級娼婦であるということを勘案すると、もしかすると横恋慕したのは、ジョルジョではなく、アルフレードだった、などといった連想も膨らむ。
休憩時間には、劇場の地下で、ワインなどの飲み物と軽いオープンサンドなどを飲食することが出来る。老夫婦がいすに座って軽食を取っている姿など、う~ん、うらやましいな。
ぼくは、シャンパンを一杯。
四幕。
開始部分は、音楽のモチーフもそうだけれど、前奏曲のシーンの再現。三幕までが、死の床にあるヴィオレッタの回想だと言うことを強く印象づけている。
ここでも、アルフレードとジョルジョの関係は微妙。ジョルジョが登場してからは、二人はヴィオレッタを挟んで、いわば線対称の横の構図を作っている。
フィナーレ、小間使いのアンニーナも含め、他の出演者はすべて舞台を去り、一人残されたヴィオレッタの絶唱で幕。ウェディングドレスを彷彿させるヴィオレッタの白い衣装だけが舞台に浮かび上がっている。
舞台がはねた後、戸島さんとヴァイセンビールを呑みながら、存分に余韻を味わった。
最後の場面でヴィオレッタが一人残されたのは、三幕までだけではなく、四幕のアルフレードやジョルジョとの再会も、ヴィオレッタが見た夢幻だったのではないか、ヴィオレッタは心底寂しい女だった、と戸島さん。
次の日、11月29日(金)、今度は、ベルリンフィルの本拠地、フィルハーモニーで行われたオペレッタガラを、今度は日本代表団の方々と総計5名で見に行った。
こちらは、随分と気楽な音楽会。小さなオーケストラをバックに、バレーあり、歌有りと盛りだくさん。前半は、こうもりを、後半はジプシー男爵を軸に、カルメンから天国と地獄のカンカン踊りまで出てきて、たっぷり2時間半。最後は、春の声とラデッキーマーチで〆。
お一人様、35ユーロ。
会議が、お昼過ぎに終わっていたこともあって、20:00開演の演奏会の前に、フィルハーモニーの近くにあるソニーセンターで、ヴィーナーシュニッツラーやソーセージをつまみながらワインを一杯。
はねた後は、ホテルのロビーで、ヴァイセンビールで反省会。
東京外大の豊島正之さんが、毎年夫人とウィーンにオペラを見に行くと、おっしゃっていたが、少し彼の気持ちが分かるような気がした。日本の外来オペラって、あまりにも値段が高すぎるし、何よりも、日々の生活とかけ離れすぎている。
もう少し時間に余裕が出来たら、幸子と一緒にヨーロッパ音楽三昧旅行に行きたいなあ。

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