要求する側の責任ということについて

要求する側の責任ということについて

《愚者の後知恵》巷間有名な「と」本。編集者が紀田順一郎さんも書いてくれる、というので引き受けたら、紀田さんは、小林さんも書くっていうから引き受けたとのこと。それはそれとして、後になって(2004年6月)読み返してみたら、なかなか正論を書いている。今、このような主張が出来るかというと、ちょっと疑問。問題は、社会的、政治的な側面も含め、このころ考えていたよりも、ずっと複雑で根が深いようだ。
1996年1月
電脳文化と漢字のゆくえ(平凡社刊)

厳密な翻刻の必要性とは
古典の翻刻もしくは校訂をめぐる和洋の二つの話題から始めよう。
久しく行方の知れなかった、奥の細道の芭蕉自筆本が最近発見され、時を経ずして写真版による複製も出版された(『芭蕉自筆本 奥の細道』上野洋三・櫻井武次郎編、岩波書店、一九九七年)。この複製本には、編者の一人である上野洋三氏による、「芭蕉の書き癖」という一文が添えられている。氏によると、自筆本の真贋を見分ける際に、原著者の文字の書き癖、中でも著者特有のいわば誤字が、大きな決め手になるとの由。専門家にとっては当たり前のことなのだろうが、芭蕉が「生涯」の「涯」の字を曖昧に記憶してしまい、その過ちを忠実に書き写した曾良本に、自身でわざわざ正しい字形で訂正を入れている例など、非常に興味深く読んだ。
また、「章」の字の書き癖に触れた個所て、「これも芭蕉白身が、この字形を正しいと信じているのてはなく、書き癖でそう書いているばかりであるから、わざわざ怪奇な誤字を作字して活字に翻刻する必要は全くない。」(二一六ページ)という記述に触れ、我が意を得たりの思いを強くした。この自筆の写真製版による複製には、すく下に読者の便を図るため、まさに活字による翻刻か添えられている。実のところ、門外漢の筆者など、この翻刻を頼りにしなければ、芭蕉の達筆を読み下すことは、不可能に近い。
しかし、この翻刻を頼りに原文を眺めていて、おもしろいことに気がついた。芭僅か書いた文字と翻刻に用いられた文字の字形が、必ずしも一致しているわけではない。例えば、冒頭の「海浜にさすらえて」という個所。この「浜」の文字を芭蕉は「濱」に近い字形で(毛筆とこの書籍で用いられる明朝体の字形の相通はあろうが)書いており、翻刻は「浜」の字を用いている。思い立って、手元にあった角川書店版の松尾芭蕉全集(昭和三七年初版、筆者の手元にあるのは、昭和四三年の再版)を播いてみると、案の定「濱」の文字が用いられている。一方、国の字は、芭焦の目撃は「国」、角川本は「國」、自筆本の翻刻は「国」 の字を用いている。
奥の細道一つの例を一般化することは危険ではあるが、こうしてみると、自筆原稿に用いられた字形か、必ずしも翻刻に正確に反映している必要はなさそうである。実際、日本語学、言語学の気鋭の研究者であり、JISの漢字コード策定にも係わっておられる、東京外国語大学の豊島正之氏も、下記のような言及をされている。

過去の文献の学問的に厳密な翻刻では、原本の字体の微細な差を表現する為に、多くの字体区分が必要だという主張かある。 しかし、少なくとも日本語の分野て、厳密を以て鳴る高度に学問的な翻刻である「校本万葉集」、「大慈恩寺三蔵法師伝」(築島裕〕、「室町時代物語集」(横山重)、等、廣・広、爲・為、辭・辞、從・従等をいずれも包摂し、Ⅹ 0208:1997の包摂規準より遥かに大胆な包摂を行っているのは明らかで、勿論、草冠の三画・四画、しんにょうの一点・二点、高・*高*、吉・吉を区別する等は、絶えて無い。これらは包摂する事こそが伝統的なのであり、見掛けの差をそのまま引き写すのを「厳密な翻刻」と呼ぶ習慣はない“(一九九七年五月十六日、印刷技術協会でのセミナー用レジュメより)

目を西欧に転じても、似たような例を田川建三氏の近著『書物としての新約聖書』(勁草書房、一九九七年)で知った。以下、同書よりの要約。

 

現在、新約聖書に係わるすべての研究者は、Nestleと呼ばれる校訂本を用いる。このNestleは、他のギリシャ語の聖書のテクストと同様、いわゆる小文字を用いて組まれている、しかし、Nestleが校訂に用いている初期の写本の大部分は、いわゆる大文字で書かれている。いわゆる小文字が成立したのは、八世紀末から九世紀初頭にかけてのことである。小文字の方か、読みやすいのて、急速に普及したと言われている。 少なくとも、一般の新約学者か日常研究に用いたり、熱心な信徒が信仰の対象として用いるのは、小文字で翻刻された新約聖書てあり、大文字での翻刻は用いない。当然、研究の対象としては、大文字写本は重要だが、この場合は、写真製版による複製もしくは、僥倖に恵まれれば、オリジナルを用いることになる。

 

保存することの目的と要素の明確化こそ
さて、筆者に求められたテーマは、漢字をコンピューターで扱う際の、コンピューターのシステム設計や規格策定を行う側からの解説ということになろう。
結論から先取りすると、現在の技術では、こと漢字の表現に限れは、コストと時間を無視すれは、ほとんどあらゆる要求に応えることができる。しかも、その要求の実現方法は、一般的には複数あり、また、複数の要求の間に論理的な矛盾がある場合、その矛盾の解決は、最終的には要求を出した側に委ねられる。
では、要求、もしくは、要求と表裏の関係にある現状の不満とは、いったい那辺にあるだろう。非常に一般化して述べると、必要な漢字がコンピューターで扱えない、もっと多くの漢字をコンピューターで扱えるようにして欲しい、という一言につきるのではないか。
しかし、それを少しく丁寧に見ていくと、要求は大きく三つの分野に分けることかてきる。
一つ。自らの名前や先祖から受け継いだ土地の名前などを表現する漢字がない。
一つ。過去の文化遺産を電子的に翻刻する際に必要な漢字がない。
一つ。自らの現在の営為としての表現行為に必要な漢字がない。
この三つの要求は、当事者にとっては、それぞれに切実な要求であろう。システムの設計は、一般にユーザーの存在と要求を前提として行われる。われわれ、システムを提供する側には、ユーザーの要求に応える義務かある。しかしまた、潜在的なものも含めて、あらゆるニーズを満たすシステムも、これまた、一般的には存在しない。
漢字コードに関しても、この三つの要求を、ほぼ完全に満足させるものは、あり得たとしても、さまざまなコスト面で無理が生じるのではないかと思われる。そして、要求を実現するためのコストは、直接的であれ間接的であれ、結局はユーザー(もしくは利用機会を与えられない非ユーザーも含めて)に、転嫁されることになる。
最初の、人名、地名に関しては、本稿ではこれをひとまず措くこととする。この問題は感情的な思い入れが非常に大きく、理屈では割り切れない要素が多い。この間題を避けて通るわけにはいかないが、この議論は、本書が想定すると思われる文学作品における漢字使用の議論とは、別個に論じることとしたい。
現在のJIS X O208:1997および、その延長として策定作業が進行している、いわゆる第三水準、第四水準は、おそらくは、「現代日本で、実際に使っている文字を、全て収録する」という方針を踏襲するものと考えられる。これに対応する要求、前記三番目の、「現在の営為としての表現行為」に必要な文字は、ここに全て含有されていることが期待できるし、もし、素案の段階で遺漏があれば、追加修正を要求することは、規格の利用者全てにとって、正当な権利と考えるべきだろう。
この場合、そこで出される個々人の要求が正当なものかとうか、というのが、採否の唯一の論拠となる。この折り、一般的な頻度の議論は、問題にそぐわない。むしろ、その字形に個別のコードを割り当てることに、どのような意味があるか、という点に議論は集約されるであろう。このように集約されたとき、問題は、過去の文化遺産の電子化の議論とも重なることとなる。すでに読者諸氏は、筆者の目論見にお気づきのことと思うが、過去の文化遺産を電子化して保存継承する場合も、冒頭に挙げた写真製版による複製と活字による翻刻との意味合いの相連に類似した問題が存在している。
すなわち、過去の文献を電子的に複製する際、何のためにどのような要素を保存するのか、という問題意識を明確にした上で、システムに対する要求を出していただかなければ、システムの設計、構築のやりようがない、ということなのだ。

文字種の増加によって失われるメリット
ここで冒頭の奥の細道の例を、電子的な問題に置き換えて、具体的に問題を検討していきたい。いわば、電子版の『芭蕉自筆奥の細道』を作成しようというわけだ。
当然、カラーによる原本の可能な限り精密な複写が必要であろう。これは、通常フルカラーのビットマップデータという言い方をするが、基本的には、写真のデジタルデータ版と考えていただければ良い。いま流行の、デジカメのデータと同じようなものである。これにより、芭蕉が後で紙を貼り重ねた個所や、文字を書き加えた個所などを、調べることが可能となる。当然、先に挙げたような芭蕉の書き癖なども確認できる。
場合によっては、赤外線やⅩ線などによる調査の画像を添付することもおもしろいかもしれない。現在の科学技術は、貼り込みの下に隠された文字を浮き立たせることなども、可能になっている。電子的な複写技術は、従来の銀鉛写真に相当するまで解像度を上げるとデータ量が膨大になるという経済的な問題があるとはいえ、印刷による複製に匹敵する精度で、かつ、紙では不可能であったさまざまな表現の可能性も持っている。
一方、電子的な翻刻の場合は、どうであろうか。詳細に検討したわけではないが、岩波版の翻刻は、現在のJIS X O208:1997の範囲で十分可能だと思われる。むし ろ、電子的な翻刻の効用は、一般的な内容の再現に留まらないところにあるだろう。非常に乱暴な言い方だが、岩波書店版の書籍を電子化する場合、翻刻の部分も含めて、画像データとして電子化することも可能である。その場合、単にある単独の書物を読む、という点から見れば、それがコード化されたものであると画像データであるとの質的な相違は存在しない、と断言してもよかろう。
時に巷間耳にする「作家は著者校正などを通して、活字に組まれた形を著者の最終的な自己表現と考えるから、その最終的な活字の形を再現されないと、自己表現としては完結しない」という議論がある。これについても、もし、そのような再現性が必要なのであれば、画像データとして保存再現すれば良い。電子時代になる前も、グーテンベルクの四十二行聖書に始まり、書籍の精緻な写真製版による複製の例は、枚挙に暇がない。では、翻刻をコードとして行うことのメリットは、那辺にあるのであろうか。
これは、検索の利便性が圧倒的に高まる、という一事に尽きる。他に、縦組みや横組みの遠い、文字の大きさの変化、書体の変化、引用などが自由に効率的に行えるというメリットもあるが、検索の利便性に比べられるものではなかろう。
この検索の可能性と、漢字の種類の多様性が、実は、相反する要求になる。漢字の種類の増加は、必然的に、検索の利便性を低める方向に働く。
具体的な例で述べよう。先ほどの奥の細道の例で、電子的に翻刻された状態では、角川版の芭焦全集と、岩波版の自筆本との間では、本来ほとんど同じであるはずの芭焦の本文が、濱と浜、國と国などの個所で異なってしまう。翻刻が統一された原則で適切になされていれば、従来の全集本と自筆本による翻刻との本文の相違を電子的に検索することなど、即座に (おそらくは、非常に一般的なパソコンでも、数秒で)可能なことてある。また、浜と濱の混在は、「松尾芭蕉と石川啄木における浜のイメージの相違」といった課題か設定されたとしたら、濱を用いた電子テキストの検索を不可能にしてしまう。
急いで付け加えるが、このような問題には、一応のシステム的な解決策が用意されている。いわゆる異体字関係にある國と国、濱と浜などの対応関係を前もって登録しておき、「浜」の検索要求が来た際に、「濱」も同時に検索するようにすればよい。適切な要求か明示的に示されれば、その解決策を提示することは、多くの場合不可能ではない。
このようなわけで、検索の利便性を維持しながら、漢字の字種の増加を図るのであれば、異体字関係の把握と、それを表現するための電子的なメカニズムは必須のこととなる。このような視点を持たない、微細な字形の相違にのみ拘泥した文字種の増加は、混乱とともに電子化のメリットの多くの部分を失わせることにもなる。

規格の存在意義を失わせないために
実は、検索の問題の背後には、情報の交換という、より本質的な問題が存在する。すなわち、「ある符号によって表される文字が、情報を送る側と受け取る側で同じである」という了解ないしは保証が必要である、とでも言えようか。
この情報交換の問題は、広く言語一般にも成立する。いくら自分がある表現にある意味を込めたつもりでも、それが受け取る側に伝わらなければ、コニュニケーションは成立しない。この送り手と受け手の意味の共有を支えるのは、ある言語を共有する社会全体の無形の合意である。文字や言葉に関わる規格とは、このような社会的な合意を、健全な蓋然性を伴うような形で、明文化したものと言えよう。そこにコンピューターや通信という媒介物が伴うことにより、適用範囲の限定や、ある種の妥協が不可避とはなるが、約束事を明確にすることにより、限定された範囲では、確実にコミュニケーションが保証されることとなる。
では、この限定された範囲を逸脱したものはどうなるのか。思えば、洋の東西、古今の別を越えて、創造的な行為とは、常に保証された情報伝達=コミュニケーションを逸脱することによって、生まれてきたのではなかったか。言語は、時代や地域によって、常に変化していくものである。そして、文芸作品を初めとする創造的な営為こそが、そのような変化を切り拓いてきたのではなかったか。一方、規格と呼ばれるものは、総体としては、この変化に対して、抑制の方向に働く。しかし、規格が、社会の変化とは無関係に硬直化してしまったのでは、規格自体が社会的な存在意義を失うこととなる。規格が社会的な機能を全うするためには、変化を変化として認めたうえで、規格に対する要求を明確な社会的合意として形成していくための、積極的で建設的な議論が、なによりも大切なことなのだ。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で, 旧稿再掲 パーマリンク

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