《龍生》という名前:円満字二郎著『人名用漢字の戦後史』を読んで

今春、父が脳溢血で倒れた。曲折はあるが、以後父が意味のある言葉を発することはない。
まあ、齢90も目前なので、生きている間は、出来るだけ時間を共有しようと、しばしば病室に通っている。が、こちらからだけでも話しかけようと思っても、今までの会話の少なさがたたってか、話しかける話題の貧困さに愕然とする。
円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)を読んで、言葉を発しない父にどうしても聞いてみたいことが生じた。他でもない、ぼくに《龍生》という名前を付けた父の思いのことだ。
ぼくもご多分に漏れず、自分の名前には、それなり以上のこだわりを持っている。《龍》が《竜》でも《辰》でもないこと、《生》が《夫》でも《男》でもないこと。《生》については、亡母から聞いたことがある。当初、父は、《龍夫》を考えていたが、姓名判断で画数を変えるように勧められて《龍生》にした云々。
しかし、《龍》の部分について、父にどのような思いがあったか、ぼくは考えたことはなかった。
円満字さんの新著は、新しく生まれた子の名前に用いることが出来る漢字の制度面での変遷を、戦後の政治社会状況、日本の言語施策と重ね合わせて語り、その斬新な視点とていねいな論述には、多くのことを教えられた。
しかし、なによりも、ぼくは、人名漢字としての《龍》の由来の部分を、まるで映画「バックトゥーザフューチャー」を見るように読んだ。
ぼくが生まれたのは、1951年7月14日。7月27日には、父によって出生届けが提出され、受理されている。
しかし、ぼくの名前に含まれる《龍》の字は、1948年1月1日に改正戸籍法が成立してからしばらくの間、新しく生まれた子の名前には使えない状況にあった。すなわち、新戸籍法は、その施行規則で、新しく生まれた子の名前に使える文字を、1945年に制定された当用漢字1850字と変体仮名を除く片仮名、平仮名に制限していたのだった。
さまざまな曲折を経て、この制限が変更されたのは、1951年5月25日。内閣告示・訓令として92字からなる「人名用漢字別表」が交付されたのだ。《龍》は、この92字に含まれていた。
ぼくは、円満字さんの筆によるこの経緯のていねいな記述を「おいおい、ぼくが生まれるまでに、《龍》の字は間に合うのかよ」などと思いながら、わくわく、どきどき、追っていったのだった。「人名用漢字別表」が無事発布されたくだりでは、思わずほっとしたりしてね。
ぼくが生まれたとき、父は35歳11か月。ぼくより2歳年長の姉がいたが、おそらくは待望の男子誕生だったろう。
1949年10月1日に中国の内戦が共産党側の勝利で終結し、1950年6月25日には、朝鮮戦争が勃発している。1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の調印を控えている。
ほんとうの戦後はすぐ目の前にまで来ている。そんな時代だった。
そんな時代に、父は、2か月前に使えるようになったばかりの92字の中から《龍》を選び取って、ぼくの名を付けた。ぼくがもう少し早く生まれていても、「人名用漢字別表」の発布がもう少し遅れていても、今のぼくの名前はない。
ぼくは、《龍生》以外の名前を持つぼくを想像することが出来ない。ぼくは《小林龍生》であり、小林信夫の息子の《小林龍生》は、ぼく以外にはいない。
父も、ある時代の中で、一人の父親として、真剣にぼくの名前を考えてくれたのだ。そして、父は、その名前に唯一無二のぼくの未来を託したに相違ない。
父とコミュニケーションが取れるようになったら、このことを聞いてみよう。でも、たとえ父が再び言葉を発することが無くても、ぼくの父の思いへの確信はゆるがないだろう。
そして。
ぼくは、自分の長男に《巌生》と名を付け、次男には《龍二》と名を付けた。巌生は今年の1月に生まれた彼の長男に《蒼生》と名を付けた。どれにも《人名用漢字》が含まれている。
円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』は、ぼくたちの、ささやかな、しかし、かけがえのない家族の歴史に思いをいたすための、またとないよすがとなったのだった。
円満字さん、ありがとう。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で パーマリンク