本の解体新書:実践編

さてと。

昨年暮れにわざわざインターネットでオランダのiRex社からiLiadを買ったわけですが、クリスマス直前に届いたのはよかったものの、12月26日にはディスプレー上部に一本の細い線が常駐するようになって。サポートフォーラムで調べてみると、この故障、結構多発しているみたいで。結局、年明け早々に一旦メーカー(サポートセンターはドイツ)に送り返して修理をしてもらうことになりました。

一月足らずで戻ってきたのはちょっとありがたかったわけで、昨今はこのiRiadを常用して読書三昧の生活なわけです。

ここいらで、iLiadを中心としたぼくの読書環境整備状況を報告しておきたく。

iLiadについて簡単に説明しておくと。フィリップスからスピンオフした会社iRex Technologiesが製造販売している。電子書籍リーダー。コアテクノロジーは、元々MITで開発され、現在はeINK社が開発を続けている電子ペーパーの技術。ディスプラーの製造は、日本の凸版印刷が行っている。それに、ワコムのデジタイザー技術が組み込まれている。

基本的なコンセプトは、Sonyが北米で発売しているSony Readerとほぼ同じだが、決定的な差は、そのディスプレーの大きさ。Sony Readerが6インチなのに対して、iLiadは8インチ。この差が、価格差にもぼくの物欲にも大きな影響を持っている。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で, 書架の記憶 | 2件のコメント

由良君美と四方田犬彦

四方田犬彦が新潮2007年3月号に、「先生とわたし」と題する由良君美伝を寄せている。

文芸誌なんて絶えて久しく買ったことはないのに、8日の金曜日にたまたま立ち寄った近所の書店で四方田の名前が目に入り、購った。身辺雑事もあって、一気呵成というわけにはいかなかったが、四百枚を読み終わった。

四方田犬彦が由良君美とのもっとも稔りある時間として描いている1970年代前半の東大駒場における由良ゼミを中心とする時空の片隅に、ぼくも加わっていた。

ぼくは、通常なら理学部か工学部に進むコースを逸脱し、本郷の専門課程に進学することなく、駒場で科学史・科学哲学という、当時としてはまだ勃興期の学問分野を学び始めていた。

そのころの《教養学部》は、ちょっといいところがあって、主専攻(major)の他に副専攻(minor)が選べた。ぼくは、副専攻に芸術を選んだ。

贅沢な教授陣だった。皆川達夫がルネッサンスの音楽を、柴田南雄が一学期をかけてマーラーの全交響曲を、海老沢敏が1778年のモーツァルトの母親とのパリ旅行と母親の客死を、内垣啓一がバイロイトにおけるワーグナーの演出史を、高辻知義がアドルノの音楽社会学序説の講読を、角倉一朗だけは休講ばかりでろくな講義はなし、といった塩梅だった。

その中に、由良君美の芸術理論のゼミもあった。

四方田犬彦が描いている由良ゼミは全学共通一般ゼミナールとかいって、駒場の全教官有志が、通常の一般教養科目の枠を越えて、それぞれの専門とする分野についてつっこんだゼミナールを行う、という試みで、大学紛争後の疲弊した教育環境からの復興を目指す、意欲的な試みだった。学外の講師の招聘も認められていて、ぼくは、この枠を利用して、高校時代同窓だった小倉令子の伝を頼って父君の小倉朗にゼミナール講師の依頼をしたりした。

由良君美が芸術理論と題して行ったゼミナールは、この一般ゼミナールの枠ではなく、専門課程の一こまだった。

それでも、そこには、四方田犬彦がいた。脇明子がいた。青木由紀子がいた。こちらのもう一つの方の由良ゼミも、四方田犬彦が描く風景とほとんど重なり合うものだった。

四方田の記述に少しだけ、ぼくがかかわった風景を付け加えると。

ある夕刻の由良研究室で。いつものように正規のゼミが終わって、酒の入った本番のゼミになって酒が足りなくなった。四方田が買い出し係を買って出た。

しかし、まてどくらせど、四方田は帰ってこない。ずいぶん経ってから、

「守衛にいまごろ何やっているんだ、って誰何されちゃって。はい、由良先生の研究室でシンポジウムをやっています、って答えてすり抜けてきた」

と。才気煥発とはこのようなことを言うのだろう、とぼくは変な感心の仕方をした。

もう一つ。

ぼくは今でも自宅での朝食は濃いミルクティーとトーストなのだけれど。

この紅茶の入れ方は、ずーっと前から、少し暖めたミルクを先にカップに入れ、後からうんと濃く入れた安物のブラックティーを注ぐ、というやり方。

お袋が、当時のロンドンからの帰国子女だった女学校の同級生に教わったやり方だった。

四方田の評伝を読んだ上で思い返すと、ちょっと背筋が寒くなるのだけれど、ぼくは、この方法で紅茶を由良先生とゼミの仲間に献じたことがある。

由良先生と学友たちの評判はすこぶるよかった。

じつは、ぼくは、ロンドンには行ったことがないし、先日香港に立ち寄った際も、ペニンシュラホテルのブレックファストは食べそびれたので、実際にロンドンっ子がどんなミルクティーを飲んでいるのかは詳らかにしない。

ともあれ、そのころの由良先生もロンドン滞在の経験はなく、当然のこととしてイギリス流の濃いミルクティーの存在はつとにご存じだったに違いないが、その実物となると、ぼく同様、経験がなかったのではないかと推測する。

「いいね、これこそ本場のミルクティーだ」

といった意味合いのことをおっしゃたような記憶があるが、由良先生の心の中には、ちょっとアンビバレントなさざ波が立ったのではないか。

こんなエピソードよりも、四方田の評伝を読んで、改めてびっくりしたことが三つ。どれもが内外の著作者にかかわることなのだけれど。

エドワード・サイード。ぼくは、直接的には、サイードのことを教わったのは、水越伸からなのだけれど、四方田は、当時の由良先生から、「見ててごらん。いずれこの人はスゴイことをしでかすよ」という言葉とともに、サイードのごく所期の評論『始まり』を紹介されている。

レイモンド・ウィリアムズ。これも水越伸の流れで。カルチュアル・スタディーズの旗手であるスチュアート・ホールの一派が作ったソニーのウォークマン戦略をケーススタディとしたオープンカレッジの教科書があって、その付録にモーバイル・プライバタイゼーション(動く私的空間)という概念を論じた部分が引用されている。ぼくは、ここ数年、ウォークマン(いまやiPod)だけではなく、交通期間内での携帯電話のメールや携帯ゲーム機の隆盛を考える際、このウィリアムズの概念がとても有効だと思って、折に触れて考えたり紹介したりしてきたのだけれど。

このレイモンド・ウィリアムズも、由良先生はずっと昔に紹介されているという。

江藤淳。

この人は、由良先生は、この人を蛇蝎のごとく嫌っていたという。あれ、逆かなあ、江藤淳が由良先生を嫌っていたのかしら。たぶん、両方。

後年、日本文藝家協会のユニコードバッシングでぼくはかなりつらい思いをするのだけれど、会長としてその先頭に立っていたのが江藤淳だった。ぼくは、紀田順一郎とともに、あたかも敵陣中への落下傘効果よろしく、当時出版されたユニコードバッシング本に江藤淳と名前を並べて小論を書いている。

愕然とする、というか、唖然とするというか、ぼくは、アカデミズムとは縁を切って、編集者として、IT業界の製品企画者、国際標準化専門家としての道を歩んできたわけだけれど、そんなぼくでさえ、由良先生の手のひらから一歩も出ていない、ということ。

ともあれ、四方田犬彦の由良君美評伝は、世代から世代への知のリレーへの覚悟といった意味合いも含めて、ちょっとほろ苦い思い出とともに、ぼくに深い感銘を与えた。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 書架の記憶 | 4件のコメント

中野幹隆時代の終焉(承前)

《mixiに書いた日記の一部。このブログの前のアーティクルで少し触れたハイパーバイブルについて》

1991年10月に発行された『季刊哲学12号』は、《電子聖書:ハイパーバイブル=テクストの新スペキエス》と銘打たれている。

ビル・アトキンソンのハイパーカードがようやく普及の兆しを見せ始め、ハイパーテキストという言葉が一部の尖った連中の間で話題になり始めたころだった。HTMLもモザイクも、まだ、インターネットの海に解き放たれてはいなかった。

ぼくは、マックを持っていなかった(買えなかった)ので、ハイパーテキストによってもたらされる世界は、いくつかの書籍や雑誌の記事などから夢想する以外に方法はなかった。

一方、(一応)カトリックの信仰を持ち、学生時代に新約聖書学の泰斗、荒井献の謦咳に接したこともあるぼくは、特に共観福音書とよばれるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関係に関心があった。

ある時、共同訳(カトリック陣営とプロテスタント陣営が共同で訳した画期的な聖書)を眺めていて、突如思いついた。

「共観福音書はハイパーテキストではないか」

大げさではなく、神の啓示だと思った。

共観福音書には互いに似たような記述が多くある。

それらはつとに知られており、平行する個所を横並びに編集して一覧できるようにする努力は、手書き写本の頃から行われていた。

そして、聖書学研究の多くの部分が、平行個所の引用関係を精緻に分析することにより、三福音書の成立過程を解き明かすことに捧げられてきた。

この成果をそのまま電子化すれば、きれいなハイパーテキストになる。

いくつかの偶然が重なった。

安斎利洋さんとの思い出の共著『ターボグラフィックス』を出版してくれたJICC出版局(今の宝島)の佐藤さんが、当時、たぶん一般に手に入る唯一のMS-DOSのテキストコンソールで動くハイパーテキストツールを提供してくれた。

新共同訳の翻訳チームの一員だった福岡のイエール神父が、いくつかのボランタリーな聖書電子化プロジェクトを糾合して、信頼性の高い電子テキストをまとめていた。

そして、中野さんがいた。

たぶん、ぼくは、熱にうなされていたのだと思う。マンデルネット86の企画を、安斎さんと思いついたときもそうだったけれど、技術的に可能だと分かってしまえば、社会的な障壁などかまっていられなかった。

中野さんは、なんの躊躇もなしに、

「やりましょう」

と言った。

それどころか、このプロジェクトは、単なる福音書のハイパーテキスト化としてだけではなく、解体されるべきテキストとしての聖書(=書物)についての広汎な議論の場へと拡げられた。

皮肉なことに、ぼくが作ったハイパーバイブルは、『季刊哲学』そのものに含まれることはなかった。日本聖書協会が主張する翻訳著作権が障壁になった。

しかし、荒井献の東京大学における最終講義と若桑みどりのシスティナ礼拝堂の壁画をめぐる図像学の論文とを、ハイパーテキストとして解体し、ハイパーリンクによって異なる視点(例えば、フェミニズムの聖書学)から再構築する、といった実験を行うことが出来た。

翻訳掲載されたトマス・アクイナスとボナヴェントゥラのテキストには、『季刊哲学』からは欠落したハイパーバイブルへの外部リンクを埋め込んでおいた。

ぼくは、電子テキストの問題を考えるとき、いつも、この中野さんとの共同作業と、その後も続いた、書物の未来をめぐる議論を思い起こす。今に至るまで、巷間なされる議論で、中野さんとの議論を越えるものに出会えることは、きわめてまれなことだ。残念なことに、中野さんの書物の未来に対する絶望的な予言は、少しずつだけれど確実に現実のものとなっている。

中野幹隆の死とともに、ある時代が終焉を迎えたのだという思いは、日ましに強まっていく。

中野幹隆が生涯をかけて解体を試みた書物=テクストを、どのような形で未来の再生につなげていくか。ぼくたちは、中野さんから重い課題を受け継いでいる。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で | コメントする

時代の終焉:中野幹隆の死

中野幹隆が死んだ。訃報は西田裕一からもたらされた。
中野さんは、ぼくにとって唯一無二の編集者としての師だった。初めてお目にかかったときから、三十年以上ずうっと。
最初にお目にかかったときのことを、鮮明に覚えている。
駒場の大学裏の喫茶店の二階。机の上に、『エピステーメ創刊ゼロ号』。中野さんは、三つ揃いのスーツに、やや派手な臙脂色のネクタイを身につけて現れた。そのときから、ちょっと汗っかきで柄物のハンカチーフで汗を拭き、扇子で顔に風邪を送って。
ぼくは、大学院の入試に落ち、都合二度目の留年をして、学部にとどまっていたけれど、アカデミズムの道を邁進するだけの覚悟はまだ出来ていなかった。それよりも、成定薫さんを筆頭に、まなじりを決して研究に没頭する人たちの姿に気圧されて、少し気持ちがぐらついてもいた。今の妻との結婚を考え始めていて、父から、結婚するなら自分で稼ぐようになってからにしろ、とも言われていた。就職することを考え始めていた。
そんなときに、エピステーメに出会った。指導教官だった伊東俊太郎先生が、執筆されていたこともあって、中野さんへの仲介をお願いした。
おずおずとエピステーメの編集をお手伝いしたい旨を申し出た学生を、中野さんはほとんど何の躊躇もなく受け入れてくださった。
「社長と会ってください。」
お目にかかった出版社の社長さんも、
「大歓迎ですよ。でも、後で後悔されても困るので、一応、大手出版社の入社試験も受けて、落ちてきてください。」
と。
結局、ぼくは、小学館に入社し、学習雑誌の編集部で編集者としての第一歩を踏み出すことになった。入社直後、中野さんが、
「お祝いしましょう」とおっしゃって、神保町のビアホール、ランチョンに誘ってくださった。ぼくは、ランチョンの場所を知らなかった。
「え、ランチョンをご存じないのですか? 編集者としては、モグリですよ。」
ランチョンで、中野さんは、
「木曜日の午後、ランチョンにきたときは、この席は空けておかなければなりません。吉田健一先生が座られますから」
こうして、ぼくは、中野さんから、《神田村》で編集者として暮らす作法を学び始めたのだった。
爾来、勤務先が小学館からジャストシステムに変わってからも、ジャストシステムを退社して、個人会社を足場に活動するようになってからも、中野さんとの交流は続いた。
季刊哲学の一冊を、まるごと聖書の電子化の問題に充てていただいたのは、ぼくにとってかけがえのない勲章となった。
DTPでの本作りをお手伝いしたときの《スコラエキスプレス構想》が、ぼくの個人会社名《スコレックス》の源流となった。
昨年の賀状で、お体の具合がよろしくない、といったことを知り、心の隅に引っかかるものが残った。
昨日、安斎利洋、中村理恵子、歌田昭弘らと仲間内で食事をし、帰路についたところで留守宅からの連絡が入った。思えば、西田裕一を含め、中野さんを媒介として知遇を得たり、中野さんに触発されながら、議論を重ねてきた仲間は、少なくない。
中野幹隆の死とともに、書物の一つの時代が終わった。中野幹隆の時代の終焉に、愛惜の思いを込めて合掌。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で | コメントする

灰谷健次郎のこと

灰谷健次郎とのこと
灰谷健次郎が死んだ。享年72歳。
ずいぶん前に編集者を廃業しているので、今さらといえば今さらだけれど、灰谷さんへのたった一度の執筆依頼の思い出は、編集者としてのぼくにとっては、大きな勲章の一つだとなっている。
もう30年近くも前、ぼくが本当の駆け出しのころ。小学館に入社し、学習雑誌『小学六年生』に配属されて、たぶん2年目かそこらの冬。そのころベストセラーとなっていた「兎の目」を読んで感動したぼくは、3月号の卒業記念企画として、灰谷さんの書き下ろしエッセーを提案し、この企画は、編集会議でめでたく採用された。
ぼくは、灰谷さんに手紙を書き、灰谷さんは、執筆を快諾してくれた。
原稿は、インドだったか沖縄だったかへの旅の途中で書かれ、郵送されてきた。
一読して、ぼくは、仄かな不満を覚えた。原稿は、氏が出会った子供の感動的なエピソードが一つと、それから敷衍したはなむけの言葉とから成っていた。本来の灰谷さんの文章はこんなものではない。相手が小学生でも。灰谷さんの美質は、抽象的な説教や講話ではなく、生の子供たちの出会いであり、ぶつかり合いにあるはずだった。
ぼくは、大学の大先輩でもある編集長に、おずおずと申し出た。
「書き直してもらおうと思うのですが。」
「署名原稿だろ。それに、小学館文学賞を受賞したばかりだぞ。」
「でも、灰谷さんには、ぜったいにもっといい原稿が書けるはずです。」
やりとりしばし。
「そんなに言うのなら、行くだけ行ってこい。」
垂水に住んでいた灰谷さんを訪ねる新幹線の中で、ぼくは、出版されたばかりの「おきなわの子」を読んだ。読みながら、何度か嗚咽が出て止まらなくなった。
初対面の灰谷さんは、若輩者のぼくの話を静かに聞いてくれた。
「一晩ください。書き直しておきます。」
ぼくは、京都に住んでいた友人の家に一晩泊めてもらい、次の日、再び灰谷さんの自宅を訪ねた。原稿は、後半部分がもう一つ別の子供のエピソードに置き換わっており、前よりもずっと生き生きとしたものになっていた。
ぼくが、お礼を述べて辞そうとしたとき、灰谷さんが、ぼそっと言った。
「長いこと原稿を書いて生活してきたけど、書き直しをしたのは今回が初めてですわ。」
ぼくは、一瞬、ギクリとした。
「せやけど、小林さんの言うこと、もっともやからね。」
うれしさがこみ上げてきたのは、駅に向かって歩きながらだった。
ぼくは、《あらがわ》に寄って、一人でステーキを食べて、自分をほめてあげたのだった。
10年あまりの後、ジャストシステムに転じるため、小学館を辞めた折。
ぼくが担当していたある漫画家が言った。
「小林さん、直しの小林、って言われているの知ってました?」
残念ながら、ぼくは、そのあだ名を耳にしたのは、初めてだった。
「でも、小林さんに言われて直すと、確実に良くなるからなあ。」
灰谷さんが駆け出しのぼくにくれた勲章は、編集者としてのぼくのスタイルとして体に染みついていたのだった。
その後の灰谷作品に対して、ぼくは決して熱心な読者であるとは言えなくなっていった。しかし、一度きりの執筆依頼は、今でも鮮烈にぼくの記憶に残っている。
思い出とともに。合掌。

カテゴリー: 書架の記憶 | コメントする

フィガロの結婚:宮本亜門演出(横須賀芸術劇場)

  • タイトル:フィガロの結婚
  • 開始日時:2006-10-15 14:00
  • 終了日時:2006-10-15 18:00
  • 場所:横須賀芸術劇場
  • 指揮:現田茂夫

    演出:宮本亜門

    出演:アルマヴィーヴァ伯爵 黒田博、伯爵夫人 佐々木典子、ケルビーノ 林美智子、フィガロ 山下浩司、スザンナ 薗田真木子 他

    合唱:二期会合唱団

    管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

    装置:ニール・パテル 衣装:前田文子 照明:大島祐夫

モーツァルトイヤーということなのだろう。今年は、さまざまなところでさまざまなモーツァルトの作品が上演された。ぼくたち夫婦も、それなりに恩恵を受けた。どこだったか東欧の歌劇場のドン・ジョヴァンニに始まり、国立劇場の魔笛、横浜オペラ未来プロジェクトのコジ、そして、今回のフィガロ。ドン・ジョヴァンニが一番凹だったかなあ。なんだかうら寂しくてねえ。
おっと、ヨコスカポケットでやった弥勒さん演出のバスティアンとバスティエンヌ、劇場支配人も忘れられない。
で、今回のフィガロなのだけれど、どうも記憶を辿っていっても、今まで実際に見た記憶がない。藤沢市民オペラの第一回上演作品なので、30年以上前からよく知っているつもりでいたのだけれど。ポネル演出、ベーム指揮の名作映画も何度か見た記憶があるし。
いずれにしても、宮本亜門の演出もすごくオーソドックスでシャープだし、舞台の上に額縁を切り、その外側もうまく利用した舞台装置も秀逸。現田さん指揮の神奈フィル、個々のキャスト、どの一つをとっても水準以上の出来で、素直に楽しめた。
なによりも、ぼくは、初めて行ったのだけれど、ホールがとてもいい。大きすぎず、客席の配置が古典的なヨーロッパの歌劇場みたいだし(平戸間+バルコニー式の2階席以上)、『オペラの運命』(岡田暁生著、中公新書)からの孫引きの知識をひけらかして、「フムフム、下々の者は1階席ね。ぼくなんて、3階席の真ん中だもんね」などと、悦に入ったりしてね。
これで、国立劇場のマエストロやかつての日生劇場のアクトレスのようなオペラの上映とリンクした美味しいレストランが併設されていたらもう最高。
拍手のタイミングがやや遅かったのは無い物ねだりなのだろうが、これからいい上演を重ねていって、地元の観客が少しずつでも成熟していくことを祈っている。
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする

いわと寄席:柳亭市馬の日

木曜社の及川さん、ご隠居さんモードの浜地さん、主婦の友の金沢さんというかつての電子書籍トリオのお誘いを受けて。
いわと寄席は、デザイナーの平野甲賀さん夫妻がプロデュースされている寄席。
及川さん、浜地さん、幸子と飯田橋で待ち合わせし、紀の善という甘いもの屋さんで豆寒で小腹を満たしてから出陣。
市馬さんの演目は三軒長屋。ぼくは、こんなに長い落語の独演を聴いたのは初めてだった。素人がご託を並べたって仕方がないので、印象深かったことを一言だけ。
凋落した武士、職人、商人といった江戸時代の階層を象徴する三人の男が登場するわけだけれど、その話っぷりの使い分けが、至極面白かった。後半は、ゲストに三絃の田中ふゆ
ふゆ師匠を迎えての、寄席の歌。及川さんなどは、落語家ごとに異なる出囃子のメドレーにかなり陶酔のご様子。
はねた後、鳥茶屋に飛び込んで、生湯葉とうどんすきで軽く一杯。
なんというか、贅沢な時間だった。以前、同じメンバーで、谷中界隈の下町ツアーに連れて行ってもらったことがあるのだけれど、及川さんと浜地さんの掛け合いを聴いているだけで、すこぶる楽しく勉強になる。というか、ぼくや幸子が、いかに限られた社会空間の中で生きてきたか、ということ。歌舞伎や相撲の話、食べ物屋さんの話も含め、江戸時代から続く庶民の文化が、及川さんや浜地さんの血肉の中にごく自然にとけ込んでいる感じ。世代論だけでは割り切れない、豊かな生活環境にある種の羨望を覚えた。
金沢さんの心配りも含め、このような知己とともに、初秋の一夜を過ごせること自体、すごく幸福で贅沢なことなのだろうな、というのが、余韻を味わいながらの幸子との結論。

  • タイトル:いわと寄席:柳亭市馬の日
  • 開始日時:2006-09-29 19:00
  • 終了日時:2006-09-29 21:00
  • 場所:シアターイワト
  • 前座 市丸

    柳亭市馬「三軒長屋」

    ──仲入り──

    柳亭市馬の好きな寄席の唄

    ゲスト 田中ふゆ


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 落ち穂拾い | コメントする

弥勒忠史演出:劇場支配人

7月16日(日)横須賀芸術劇場。

モーツァルトのアリアや重唱がたった4曲しかない小さな音楽劇。

弥勒さんは、これを、横須賀芸術劇場自主公演のオーディションという設定に置き換えて、みごとに時空の垣根を取り払い、あっという間に観客を巻き込んでしまった。

短い上演時間故に上演機会の少ないこの作品に、古楽器アンサンブルのメンバーのオーディションというおまけを付けることで、顧客満足度も一気にアップ。

とくに、《劇場支配人》の制止を振り切って演奏されたリコーダーによるトルコ行進曲(K.331の最後の楽章)が圧巻だった。もうやりたい放題のパラフレーズ、いつ、元のメロディーが帰ってくるのだろうかとハラハラのしどうし。公演の成功はここで約束されたようなもの。

本番の歌手のオーディションに入っても、二人のソプラノ歌手の声の質の違いや、刀を持ち出しての大立ち回りなど、音楽的にも視覚的にも十分以上に楽しめた。

上演中提供された白ワイン(たぶんドイツの微発泡)も夏らしく爽やかでよかった。

こんな生活していていいのだろうか。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | 1件のコメント

横浜オペラ未来プロジェクト2006 「コジ・ファン・トゥッテ」

セミ・ステージ形式

指揮 村中大祐 / 演出 M.ハンペ

フィオルディリージ 渡海千津子

    ドラベッラ 向野由美子

    デスピーナ 菊地美奈

    フェランド 馬場崇

    グリエルモ 青山貴

ドン・アルフォンソ 清水宏樹

いやあ、楽しめました。なによりも、プロダクション全体が若さに満ちていて溌剌としている。オーケストラやソリストだけでなく、助演者まで含めて、みながすごく楽しそうに積極的に上演に係わっているのがよく分かる。
オーディションを経て選ばれた、将来を嘱望されたすごく優秀な演奏者たちと歌手たちがいて、意欲と使命感に燃えた指揮者と練達の演出家が手をつなぎ、公演をゴールとしながらも、公開練習やアウトリーチを通して、市民へのサービスも考えられていて。
演出がよく考えられていて、簡素な装置を使いながらも、コジの人間関係をすごくわかりやすく舞台上で表現していた。陳腐といえば陳腐なストーリーとモーツァルトの限りなく美しい音楽。男女の感情の音楽によるカタログだな、これは。コジにはまる人が多くいることも納得できる。
オケも歌手もまだまだほとんど真っ白で、マエストロ村中が、どのようにこのアクティヴィティに街の色や匂いをつけていくのか、これからがとっても楽しみ。
見ていた自分までもが若返ったような、ほんとうに爽やかなオペラ公演だった。
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする

モエレ沼公園とイサム・ノグチ

ちょっと旧聞に属するけれど。

6月末に、北海道に行った。主な目的は、イサム・ノグチがグランドデザインを描いたという、札幌のモエレ沼公園。

28日(水)の朝一便(7:50発)で、旭川へ。9:30到着。レンタカーを借りて、美瑛、富良野方面をぶらぶら。緑の絨毯とお花畑を堪能しました。途中、普通の住居の一室でやっているお店で、スコーンとソフトクリームで、お茶。お花畑では、揚げたてのジャガイモコロッケを頬張った(ぢつは、全道中で、このジャガイモに一番感動した)。お昼は、富良野の「魔女のスプーン」というお店で、名物(イカスミチーズ入り)スープカレー。なかなか乙な味でした。

富良野市がやっているワイナリーとチーズ工房を覗いた後、一路十勝川温泉の観月苑へ。

十勝川温泉は、植物性モール温泉という、美人肌にする日本でも珍しいもの。

温泉(特に露天風呂)もよかったし、料理も満喫。

早朝、十勝川河畔を散策。

朝食後は、一路、札幌のモエレ沼公園へ。この公園は、イサム・ノグチが最晩年に計画とデザインに係わり、やっと昨2005年7月にグランドオープンしたもの。今回の北海道旅行の最大の目的。

公園近くで札幌ラーメンを堪能して、公園内へ。

この公園は、もとは市のゴミ廃棄場。1988年に晩年のイサム・ノグチがここを訪れ、グランドデザインを策定した。日本の庭園ともヨーロッパの庭や公園とも異なる。というか、ノグチは洋の東西の庭や公園を研究し尽くした上で、自分自身の庭を描いたのだと思う。

この公園にいるだけで、子宮に包み込まれたような安らぎを感じる。自分がノグチの巨大な彫刻作品の中にいる、という感覚と、(公園内の)二つの山の頂から見た景観の違いの妙は、得難い経験だった。

札幌市のホームページに、イサム・ノグチと公園のデザインに係わった市職員のインタビューが載っている。

http://www.welcome.city.sapporo.jp/moerenuma/im.html

そこに引かれているノグチの言葉。

「自然の中で自然のまねごとをしてもだめですね」

う~ん。すごいこと言うなあ。で、作品を作るキャンバスが、ゴミ捨て場だからね。

うまく言語化できないのだけれど、またも芸術家/創造者が持つ、果てしない可能性を思い知らされたのだった。

レンタカーを駅前で返し、大通公園にあるロイズのお店でチョコレートを買ってお茶。

帰路は、北斗星2号。ブルートレインに乗るのなんて、20数年ぶり(前は、『学習幼稚園』の取材と称して家族で長崎に行った)。食堂車でのフレンチフルコースを楽しみにしていたのだけれど、オードブルのウニとスープ(兼魚料理)のタイがょっと。先にメニューを決め、予算内で食材を調達したのだろう。鮮度がちょっとね。肉料理のソースにしてもデザート(大豆入りのアイスクリームとスープ仕立てのココナッツミルク)にしても、味はきちんとしていたので、何だかもったいない感じがした。ウニとかタイとかに拘らず、予算内で調達できる食材を鉄道内の厨房を考慮した調理方法で出した方が、ずっとよかっ

たのに。

上野までは16時間あまりの旅。このうんざりするような退屈感こそが、贅沢に極みなのだろうな、などと納得。

考えてみるとほぼ48時間の旅の内、半分の時間はレンタカーか汽車で移動していたことになるけれど、なかなか乙な旅ではありました。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 落ち穂拾い | コメントする

日フィル横浜定期:渡邉暁雄を偲んで

  • タイトル:日フィル横浜定期:渡邉暁雄を偲んで
  • 開始日時:2006-06-24 18:00
  • 終了日時:2006-06-24 20:00
  • 場所:横浜みなとみらいホール
  • 指揮:井上道義

    バリトン:大久保光哉

日フィル創立指揮者だった渡邉暁雄にちなんでめずらしいシベリウスの曲が並んだ。メインは最後の交響曲となった第7交響曲。大久保によっていくつかのスェーデン語による歌曲が歌われた。

演奏会中の井上のトークで初めて知ったのだが、シベリウスの母語はフィンランド語ではなくスェーデン語だったとのこと。

過日、フィンランドの首都ヘルシンキを訪れたことがあるけれど、道路標識など、フィンランド語、スェーデン語、英語の三つの言語が併記されていた。話を聞くと、多くの人がこの三つの言語を話すトリリンガルとのことだった。

ロシアとの関係も含め、フィンランドの置かれた悲しく複雑な歴史を踏まえて考えると、シベリウスの音楽の背後にあるヨーロッパ近代の音楽とは隔絶しながらも深い襞を畳み込んだような彼の音楽の背景にある苦渋といったものが少し分かるような気がした。

渡邉暁雄の指揮で、学生時代、ジュネス・ミュジカルというNHKがスポンサーをしていたアマチュア青少年によるオーケストラ活動の一環として、シベリウスの第1交響曲のティンパニーをたたいたことがある。その前の年に、尾高さんの指揮でショスタコービッチの第5交響曲のティンパニーをたたいてやらかした大チョンボの雪辱に、とスケルツォのティンパニーソロを見事に決めたつもりが、放送では「時間の都合」でそのスケルツォ楽章を丸ごとカットされてしまった、というほろ苦くも楽しい思い出がある。あの演奏会後の打ち上げて、アケちゃんがサインしてくれたズボンは、ずいぶん長い間、小澤征爾がサインしてくれたTシャツとともに、ぼくの部屋に飾られていたっけ。

 

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする

昼どきクラシック(工藤重典+グザヴィエ・ドゥ・メストレ)

  • タイトル:昼どきクラシック(工藤重典+グザヴィエ・ドゥ・メストレ)
  • 開始日時:2006-06-21 12:10
  • 終了日時:2006-06-21 13:10
  • 場所:横浜みなとみらいホール

フランスを拠点に世界中で活躍している工藤重典さんのフルートとハープの貴公子(ポスターの謂い)メストレとのデュオ。

12時10分からの回と14時30分からの回を両方聴いた。間に、パンパシフィックホテルの中華レストラン「トゥーランドット」でランチ。なかなか豪華ご機嫌な午後だった。

メストレは、男性ゆえのハープといえども体力勝負みたいな面とものすごい繊細さを併せ持った逸材。工藤さんが気に入るのも分かるような気がする。

秀逸だったのは、2回目でやった八代秋雄編の花嫁人形と浜千鳥、メストレは特に日本の音階や箏曲に対する予備知識を持っているとも思えないのだけれど、天性の鋭い感受性で、日本音階の特長と工藤さんの息の間合いを瞬時に捉えて、単に工藤さんのフルートにぴったり付けるというだけではなく、みずから積極的に働きかけることさえやっていた。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする