灰谷健次郎のこと

灰谷健次郎とのこと
灰谷健次郎が死んだ。享年72歳。
ずいぶん前に編集者を廃業しているので、今さらといえば今さらだけれど、灰谷さんへのたった一度の執筆依頼の思い出は、編集者としてのぼくにとっては、大きな勲章の一つだとなっている。
もう30年近くも前、ぼくが本当の駆け出しのころ。小学館に入社し、学習雑誌『小学六年生』に配属されて、たぶん2年目かそこらの冬。そのころベストセラーとなっていた「兎の目」を読んで感動したぼくは、3月号の卒業記念企画として、灰谷さんの書き下ろしエッセーを提案し、この企画は、編集会議でめでたく採用された。
ぼくは、灰谷さんに手紙を書き、灰谷さんは、執筆を快諾してくれた。
原稿は、インドだったか沖縄だったかへの旅の途中で書かれ、郵送されてきた。
一読して、ぼくは、仄かな不満を覚えた。原稿は、氏が出会った子供の感動的なエピソードが一つと、それから敷衍したはなむけの言葉とから成っていた。本来の灰谷さんの文章はこんなものではない。相手が小学生でも。灰谷さんの美質は、抽象的な説教や講話ではなく、生の子供たちの出会いであり、ぶつかり合いにあるはずだった。
ぼくは、大学の大先輩でもある編集長に、おずおずと申し出た。
「書き直してもらおうと思うのですが。」
「署名原稿だろ。それに、小学館文学賞を受賞したばかりだぞ。」
「でも、灰谷さんには、ぜったいにもっといい原稿が書けるはずです。」
やりとりしばし。
「そんなに言うのなら、行くだけ行ってこい。」
垂水に住んでいた灰谷さんを訪ねる新幹線の中で、ぼくは、出版されたばかりの「おきなわの子」を読んだ。読みながら、何度か嗚咽が出て止まらなくなった。
初対面の灰谷さんは、若輩者のぼくの話を静かに聞いてくれた。
「一晩ください。書き直しておきます。」
ぼくは、京都に住んでいた友人の家に一晩泊めてもらい、次の日、再び灰谷さんの自宅を訪ねた。原稿は、後半部分がもう一つ別の子供のエピソードに置き換わっており、前よりもずっと生き生きとしたものになっていた。
ぼくが、お礼を述べて辞そうとしたとき、灰谷さんが、ぼそっと言った。
「長いこと原稿を書いて生活してきたけど、書き直しをしたのは今回が初めてですわ。」
ぼくは、一瞬、ギクリとした。
「せやけど、小林さんの言うこと、もっともやからね。」
うれしさがこみ上げてきたのは、駅に向かって歩きながらだった。
ぼくは、《あらがわ》に寄って、一人でステーキを食べて、自分をほめてあげたのだった。
10年あまりの後、ジャストシステムに転じるため、小学館を辞めた折。
ぼくが担当していたある漫画家が言った。
「小林さん、直しの小林、って言われているの知ってました?」
残念ながら、ぼくは、そのあだ名を耳にしたのは、初めてだった。
「でも、小林さんに言われて直すと、確実に良くなるからなあ。」
灰谷さんが駆け出しのぼくにくれた勲章は、編集者としてのぼくのスタイルとして体に染みついていたのだった。
その後の灰谷作品に対して、ぼくは決して熱心な読者であるとは言えなくなっていった。しかし、一度きりの執筆依頼は、今でも鮮烈にぼくの記憶に残っている。
思い出とともに。合掌。

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