ある料理人の死

ガネーシュのオーナーシェフ、石原さんが亡くなった。

お店で最後に会ったとき、異様にやせていたので、気になっていた。

先日、お店に行ったら、姿が見えず、娘の幼なじみでお店でずっとアルバイトをしているトモちゃんが、糖尿病で検査入院している、と教えてくれた。お店もしばらく休むことになりそうだ、ということだったので、一度、お見舞いの花を持って食事に行こう、と家族で話していた矢先に、訃報が届いた。

やりきれない。

今、ホームページでチェックしたら、1992年の開店。

開店直後に一度ランチを食べに行った。味にちょっと安定感がない、という印象を受けた。

しばらくして、また、行った。すごく旨いと思った。そして、病みつきになった。

何度か通ううち、顔を覚えてくれたのだろう、石原さんが、「裏メニューもありますよ」といって、メニューにない料理を出してくれた。

「もう一つ、裏技があってね。マトンビリヤーニに野菜カレーとライタ(ヨーグルトと刻み野菜のサラダ)を混ぜて食べるとサイコーですよ」

サイコーだった。1+1+1が3ではなく、時に、4にも5にもなることを身をもって知った。

それ以来、ガネーシュはぼくたち家族にとって、かけがえのない店になった。

家族中で世話になっていたカーテン神父がカナダに帰るとき、毎年ホームパーティを開いている親しい3家族で集って送別会を開いたのもガネーシュだった。

東京外国語大学アジアアフリカ文化研究所のインド語の専門家である町田和彦教授や畏友樋浦秀樹さんを招いて食事をしたのも楽しい思い出だ。町田さんが、研究所に帰って「いやあ、横浜に旨いインド料理の店があってね」と自慢したら、知らなかったのご本人だけで、他の方々は先刻ご承知だった、と後から聞いた。ガネーシュの名前は、インド料理好きの間では、全国に知れ渡っていた。

懇意にしていた徳島の天ぷら屋の主人が送ってくれた鳴門の鯛を持ち込んだら、「鳴門の鯛なんて買おうったって手に入りませんよ」と満面の笑みを浮かべて、片身をビリヤーニに、のこりの片身を絶妙にスパイシーなグリルにしてくれた。

札幌の二条市場で買ってきたタラバガニとホタテ貝。タラバガニはやはりビリヤーニとグリルに。カニ味噌を入れたカレーソースにディップして食べた脚の旨かったこと。ホタテ貝は手持ちのエビを加えて、バターマサラソースで料理してくれた。

デザートも上手かった。娘は、ガネーシュで食べたデザートを全部覚えていて、時々、石原さんにリバイバルのリクエストなどをしていた。クルフィー(インド式のアイスクリーム)、マンゴーケーキ、黒砂糖のアイスクリーム。ぼくは、黒砂糖のアイスクリームが好きだった。コーヒーやチャイに添えられた黒砂糖からして、もう、味が違うのだ。素材を求める情熱も並のものではなかった。

シラスの季節になると、喜々として小坪に買い出しに行っていた。「釜揚げしらすを少し天日で干してもらうんですよ。そうすると、ビリヤーニにしたとき、コメと上手くなじむんですよ」

石原さんは、冗談半分に「いやあ、私は天才ですから」と言っていた。冗談ではなく、そう思う。ぼくはインド料理に格別詳しいわけではないけれど、石原さんの料理は、どこかの地方のインド料理というよりも、石原さんの料理、といった印象を受ける。フレンチの基礎とインディアンの経験が相俟って、どんな食材に向き合っても、彼独自のすばらしい料理に展開する実力を持っていた。

ワインへの入れ込み方も並ではなかった。特に、白ワインにはこだわりがあって、料理と合う絶妙のワインを選んでくれた。

ぼくが、カリフォルニアや勝沼で買い込んできたワインを持って行くと、「うちにワインを持ち込むのは小林さんぐらいですよ」などと言いながら、いやな顔一つせず、自分でもちゃっかりグラスを持ってきて、テイスティングしていた。

夜少し遅くなって、客が僕たちだけになると、何やかやとわがままを聞いてくれた。一方、忙しい週末などは、ぼくたちへのサービスは後回し。常連客と新しい客との距離感が抜群だった。親しさが決して馴れに流されなかった。そんな態度が、また、新たな常連客を増やしていったのだろう。

そんな石原さんが亡くなった。

やりきれない。もう、ガネーシュの料理は食べられなくなる。それは、単に料理が食べられなくなる、というだけのことではなく、料理を通して、石原さんという人格と接することができなくなる、ということ。

閉店までに、どうしてももう一度、お店に行かなければ。そして、お弟子さんたちが作る石原さんの味をしっかり舌に覚え込ませておかなければ。

生前の石原さんは、お弟子さんの養成に力を入れていた。石原さんの味は、きっとそのお弟子さんたちに受け継がれて行くに違いない。そして、お弟子さんたちは、石原さんの味の上に、それぞれの個性を盛り込んで行くに違いない。それが、後に続く人たちの責務だろう。ガネーシュが閉店しても、そのような形で石原さんの味が生き続けることを、ぼくは切に願う。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 食べ物と飲み物と | コメントする

イタリア宿酔

6月17日から24日まで、全くプライベートに妻とイタリアに行った。ローマ、ボローニャ、フィレンツェ。その後遺症からまだ復帰できない。かつてスタンダールはフィレンツェの華麗さに圧倒されて、酔ったような状態になったというが、それもあながち誇張ではない、と思わされた。

ヴァチカンの世俗的な富と美、あらゆる街角にあるあまたの教会、コロッセオの古代から現代までがまさに積み重なって共存しているローマ。中世の大学都市を今に残すボローニャ。そして、ルネッサンスの精華、フィレンツェ。

少しずつ吐き出していかないと、頭の中が、イタリアに押しつぶされた状態のまま、永遠に先に進めないかもしれない。

渦巻く頭の中から、少しずつ形が見えてきたものも、少しはある。

ウフィッツィ美術館の《春》と《ヴィーナス誕生》。(ボッティチェッリ自身の作品も含めて、それ以前の絵画、それ以後の絵画とは、全く隔絶された二つの作品。ああ、ボッティチェッリのこの二つの作品は、ルネッサンスという歴史的な現象をそのまま形にしたものに違いないのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・アンジェリコ、そしてボッティチェッリを含む数多の《受胎告知》、ルカによる福音書が、マリアの心の変化の過程を描いたものだと思い知らされる、それぞれのマリアの姿の違い。

フラ・アンジェリコの《ノリ・メ・タンゲレ》。かつて、森有正が言及していた、イエスの足の向き。

ボローニャで見た《ファルスタッフ》とローマで見た《マノン・レスコー》。ヴェルディの最晩年の作品と、円熟に向かおうとするプッチーニの作品は、ともに、1893年に初演されたのだった。すでにして独自の音色を得ていながら、ベルカントオペラの域から抜けきれないプッチーニと、言葉、劇の進行、音楽が一体となった軽妙達意のヴェルディ。それらを日常のこととして楽しむ聴衆。

ローマで食べた客に挑むような洗練のモダンイタリアンとボローニャ《パパレ》の親しみのこもった料理。

さあて、どこから吐き出していこうか。
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 落ち穂拾い | コメントする

セビリアの理髪師(横浜オペラ未来プロジェクト)

去年のコジがとてもよかったので、今年も。

このプロジェクトの良さを一言で表すと、さわやかさ、といったことになるかしら。

若い指揮者(大家に成り下がっていないという意味で)が、とびきり優秀な歌手とオーケストラメンバーを集めて、(いい意味で本物の)世界的大演出家の助力を得て、世界に発信できるプロダクションを作り出そうとする心意気、志が、素直に舞台と音楽全体に横溢している。見ていて、聴いていて、気持ちがいいのが。素直に楽しみ、素直に応援したいと思えてくる。

歌手のレベルがそろっている。オーディションで選ばれたソリストたちは、それぞれの声の質にぴったりと合う役柄を与えられて、無理がない。

オーケストラは、質がそろっていてテクニックもすこぶる優れている。その個々人の技量が指揮者のコントロール下で調和を乱すことなく引き出されている。

演出は練達そのもの。オペラハウスではなくコンサートホールでの上演だというハンディキャップを正面から受け止めた上で、様式感と新鮮さとを両立させた見事な舞台を作っている。一幕で、アルマビーバ伯爵から書状を見せられて、兵士の指揮官初め全員が驚きのあまり、体の動きが止まってしまうところなど、歌舞伎を彷彿とさせるストップモーションなど圧巻。

無い物ねだりをすると、それは観客の側にある。

残念ながら、やや空席が目立った。こんなにすばらしく志の高い上演がどうして満席にならないのだろう。価格だって、外来の引っ越し公演とは比べものにならないほどの低価格。そして、この真剣さ。

拍手のタイミングが少しずつ遅い。お行儀がよすぎるというか、おっかなびっくりというか。

でも、このプロジェクトを企画した人たちの志は、まさに、この部分にあるのだろう。

いつの日か、満席の客席から、絶妙のタイミングで拍手とブラボーが飛ぶ日が来る。それが文化が街に根付く、ということなのだ。

ぼくも、その日を思い描いて、このプロジェクトの応援を続けよう。一市民として。

ブラービ、横浜オペラ未来プロジェクト!
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする

中野幹隆の死:その後

哲学書房社主の中野さんのことをmixiに書いたら、メンタルスタッフさん、安斎利洋さんから、下記のようなありがたいコメントをもらった。

>こんな小林さんの話が、Mixiの中に埋もれてアクセスできなくなってしまうのも惜しいですよね。

>こういう時間をこえたテキストが、mixiといういわば共時的な場に刻まれるということが、まさに書物の終焉の景色なんでしょう。

このコメントを契機に、おなじアーティクルをこのブログにもアップしておいた。

そうしたら、『新潮』の編集長がコメントをくださって、同誌に中野さんの追悼文を書かないか、とのお誘い。

中野さんの生前の恩義にささやかながら報いたい、という思いもあって、喜んでお引き受けした。掲載号が今日(2007年4月7日)店頭に並ぶ。

題して、

中野幹隆の死

---またはグーテンベルク銀河系の黄昏---

このような形で、新しいメディアから従前のメディアへの細い糸を一本かけることができて、ちょっと感傷的になっている。生前の中野さんは、文芸誌もずいぶん丁寧に目を通しておられたし。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で | コメントする

小澤征爾のタンホイザー

  • タイトル:ワーグナー:歌劇「タンホイザー」
  • 開始日時:2007-03-24 15:00
  • 終了日時:2007-03-28 20:00
  • 場所:横須賀芸術劇場
  • 音楽監督/指 揮  小澤征爾

    演 出  ロバート・カーセン

    出 演  タンホイザー ステファン・グールド

    エリーザベト ムラーダ・フドレイ

    ヴェーヌス ミシェル・デ・ヤング

    ヴェルフラム ルーカス・ミーチェム

    領主ヘルマン アンドレア・シルベストレッリ

    ヴァルター ジェイ・ハンター・モリス

    ビーテロルフ マーク・シュネイブル

    ハインリッヒ 平尾憲嗣

    ラインマール 山下浩司

    ほか

    管弦楽  東京のオペラの森管弦楽団

    合 唱  東京のオペラの森合唱団

    装 置  ポール・スタインバーグ

    衣 装  コンスタンス・ホフマン

    照 明  ロバート・カーセン/ペーター・ヴァン・プラット

    振 付  フィリップ・ジュラウドゥ

さてと。小澤征爾の指揮を生で聴いたのはいったい何年ぶりだろう。そして、オペラは?

もう四半世紀ほども前に、ヴォツェックを聴いたのを覚えている。演奏会形式+アルファのやり方。ステージにオーケストラが乗っており、その上に足場を組んだりして、歌手はある程度の移動と演技を行う形式。たしか、あのときも暗譜だった。今回も。

演出は、第一幕こそ、ヴェーヌスがヌードで登場したと思ったら、バッカナールでは多くの男性がこれまたセミヌードで登場して、ボディーペインティングもどきをやらかしたりして、ぎょっとさせられたものの、第二幕以降はオーソドックスな現代風演出(語義矛盾だねえ)で安心。大団円など、いささか拍子抜けするような浄化場面で、演出のロバート・カーセンが世界的に人気を博するのも納得。

歌手も粒がそろっていて破綻がなかった。ヴェーヌス役のミシェル・デ・ヤングが第一幕で足を怪我し、第三幕では代役が演技を、本人が袖で歌唱を、といったアクシデントがあったが、それもご愛敬というか、事故があってのオペラの楽しみみたいなもので、本人にはかわいそうだったが、舞台と客席の間を埋めるポジティヴな働きをしていた。(客席の一部を利用した演出も好感が持てた)

しかし、何と言っても、このオペラはオザワのオペラなのだ。パリ版を用いて、序奏から延々と続くバッカナールに入って、まずはたっぷりオーケストラを楽しんだところで、やっと歌が聴けるというところもそうだし、第二幕の有名な歌手たちの入場場面もそうだし、なにしろ、オーケストラがめっぽううまい。4階席の一番前で聴いたこともあって、オーケストラの音の分解能がとっても高くって、個々のメンバーの名人芸がよく聞こえるの。オザワがオケ鳴らしのとびきりの名手だということも、あらためて思い知らされた。でも、これってオペラなのだろうか? いや、そんな疑問を持ってもいけないのだろう。オザワが完全に掌握したオーケストラと歌手陣と合唱が、一丸となって押し出す音の洪水に、抵抗することなく身を委ねて包み込まれる。そんな楽しみ方をすればいいのだ。

この劇場は、音響もいいし、ヨーロッパの歌劇場のように二階席以上がバルコニー作りになっていることも好感が持てる。しかし、ロビーのトイレと喫茶コーナーの動線の悪さや駐車場に降りるエレベーターが一基しかないことなど、客席の扉の外の作りは、いささか興を削がれる。音楽を聴くというのは、前後の食事やホールに向かう道すがらの会話なども含めた時間の流れがあってのことだと思うのだけれど。

そういえば、歌舞伎座だって、舞台がはねた後の余韻が、地下鉄に降りる階段のところで、ブッチリと断ち切られてしまうのは、もうすこし、何とかならないかなあ。暖かくて時間に余裕があれば、新橋までぶらぶら歩いて帰る、っていう手もあるけれどね。

小澤征爾は、夏にカルメンも振る。琵琶湖ホールに出向いて、オーベルジュに泊まって、なんてことも考えていたけれど、同じ日に弥勒忠史さんプロデュースのオペラ宅配便があるので、今年はパスに決定。神奈川県民ホールで聴こうかどうか迷い中。
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする

小倉朗とバルトーク

  • タイトル:第639回定期演奏会 Bシリーズ
  • 開始日時:2007-02-24 19:00
  • 終了日時:2007-02-24 21:00
  • 場所:サントリーホール
  •  指揮:高関健

    ピアノ:田部京子

    ピアノ:小川典子

    打楽器:安藤芳広

    打楽器:小林巨明

    児童合唱:TOKYO FM少年合唱団/世田谷ジュニア合唱団

    《別宮貞雄プロデュース 日本管弦楽の名曲とその源流4》

        * 間宮芳生:合唱のためのコンポジションNo.4 「子供の領分」

        * 小倉朗:管弦楽のための舞踊組曲

        * バルトーク:2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲

        * バルトーク:舞踊組曲

小倉朗は、ぼくにとってとても大切な人だ。学生時代に知遇を得、亡くなるまでのほぼ20年、音楽のみならず全人格的な生きざまの師として接した。彼の最後の著書『なぜモーツァルトを書かないか』を企画編集する機会にも恵まれた。その彼の曲が演奏されると苑子夫人からうかがって出かけた。

演奏全般について正直に告白すると、ああ、小倉朗も古典となったのだ、という感慨。決して悪い演奏ではない。いや、破綻もなくうまい演奏といっていいのだろう。しかし、その破綻のなさ、見通しの良さが、どこか素直な感動に入っていけない欲求不満を残す。今から振り返ってみると、バルトークも小倉朗も前世紀の作曲家で、それぞれの曲は同じ時期に書かれたと言ってもいいほど、時間が経っているのだ。過去の偉大な作曲家の作品に連なる古典曲として冷静緻密に演奏されるのが当たり前と言えば当たり前なのか。

中では、バルトークの2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲が、高い緊張感と密度を保持し続けていて、非常によかった。まあ、この曲の原曲は、打楽器奏者にとっては室内楽の古典中の古典ということになるのだが、協奏曲版はめったに演奏されることがないのではないだろうか。ぼくも、バルトーク自身が夫人とともに演奏したライブのレコードをずうっと以前に聞いた記憶があるだけ。ソナタ版に比しても、他のバルトークの協奏曲に比しても、うまいオーケストレーションとは言い難い。しかし、当夜の演奏は、そのことが逆に幸いして、ソリストたちの主体的な会話を指揮者とオーケストラがそっと支えるといった塩梅になっていた。

この曲を聴きながら、ぼくは、ずうっと以前に交わした小倉朗との短い会話を反芻していた。

学生時代、まだ小倉さんが藤沢市の大庭に住んでいたころ。大学の小倉ゼミ(ぼくが企画して、大学の正規の全学一般ゼミナールとして認められていた)の仲間が集まってホームパーティのようなことをやっていた。ぼくは、バルトークの2台ピアノと打楽器のソナタのミニチュアスコアを持っていって、ある個所のリズム構成について質問しようとした。

小倉さんは一言

「きみもペダンチックだねえ」

とだけ答えた。

この答えが、ぼくにはとてつもなく応えた。そして、人生の指針となった。

音楽にたどり着く道はアナリーゼだけではない。もっと大切なものが他にある。頭の中で音符を切り刻む前にもっとやるべきこと考えることがある。ことは音楽だけではない。書物にしても事象にしても、自分を埒外において批判的に見るのではなく、全人格をもって立ち向かえ。

四半世紀経って、ぼく自身の言葉で小倉朗の言葉を敷衍すると、おおむね上記のようなことになる。小倉朗は、ぼくの質問から、そのころの青臭いぼくの性向を見透かし、たった一言で生き方全体に対して大きな方向付けをしてくれたのだった。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | 2件のコメント

本の解体新書:実践編

さてと。

昨年暮れにわざわざインターネットでオランダのiRex社からiLiadを買ったわけですが、クリスマス直前に届いたのはよかったものの、12月26日にはディスプレー上部に一本の細い線が常駐するようになって。サポートフォーラムで調べてみると、この故障、結構多発しているみたいで。結局、年明け早々に一旦メーカー(サポートセンターはドイツ)に送り返して修理をしてもらうことになりました。

一月足らずで戻ってきたのはちょっとありがたかったわけで、昨今はこのiRiadを常用して読書三昧の生活なわけです。

ここいらで、iLiadを中心としたぼくの読書環境整備状況を報告しておきたく。

iLiadについて簡単に説明しておくと。フィリップスからスピンオフした会社iRex Technologiesが製造販売している。電子書籍リーダー。コアテクノロジーは、元々MITで開発され、現在はeINK社が開発を続けている電子ペーパーの技術。ディスプラーの製造は、日本の凸版印刷が行っている。それに、ワコムのデジタイザー技術が組み込まれている。

基本的なコンセプトは、Sonyが北米で発売しているSony Readerとほぼ同じだが、決定的な差は、そのディスプレーの大きさ。Sony Readerが6インチなのに対して、iLiadは8インチ。この差が、価格差にもぼくの物欲にも大きな影響を持っている。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で, 書架の記憶 | 2件のコメント

由良君美と四方田犬彦

四方田犬彦が新潮2007年3月号に、「先生とわたし」と題する由良君美伝を寄せている。

文芸誌なんて絶えて久しく買ったことはないのに、8日の金曜日にたまたま立ち寄った近所の書店で四方田の名前が目に入り、購った。身辺雑事もあって、一気呵成というわけにはいかなかったが、四百枚を読み終わった。

四方田犬彦が由良君美とのもっとも稔りある時間として描いている1970年代前半の東大駒場における由良ゼミを中心とする時空の片隅に、ぼくも加わっていた。

ぼくは、通常なら理学部か工学部に進むコースを逸脱し、本郷の専門課程に進学することなく、駒場で科学史・科学哲学という、当時としてはまだ勃興期の学問分野を学び始めていた。

そのころの《教養学部》は、ちょっといいところがあって、主専攻(major)の他に副専攻(minor)が選べた。ぼくは、副専攻に芸術を選んだ。

贅沢な教授陣だった。皆川達夫がルネッサンスの音楽を、柴田南雄が一学期をかけてマーラーの全交響曲を、海老沢敏が1778年のモーツァルトの母親とのパリ旅行と母親の客死を、内垣啓一がバイロイトにおけるワーグナーの演出史を、高辻知義がアドルノの音楽社会学序説の講読を、角倉一朗だけは休講ばかりでろくな講義はなし、といった塩梅だった。

その中に、由良君美の芸術理論のゼミもあった。

四方田犬彦が描いている由良ゼミは全学共通一般ゼミナールとかいって、駒場の全教官有志が、通常の一般教養科目の枠を越えて、それぞれの専門とする分野についてつっこんだゼミナールを行う、という試みで、大学紛争後の疲弊した教育環境からの復興を目指す、意欲的な試みだった。学外の講師の招聘も認められていて、ぼくは、この枠を利用して、高校時代同窓だった小倉令子の伝を頼って父君の小倉朗にゼミナール講師の依頼をしたりした。

由良君美が芸術理論と題して行ったゼミナールは、この一般ゼミナールの枠ではなく、専門課程の一こまだった。

それでも、そこには、四方田犬彦がいた。脇明子がいた。青木由紀子がいた。こちらのもう一つの方の由良ゼミも、四方田犬彦が描く風景とほとんど重なり合うものだった。

四方田の記述に少しだけ、ぼくがかかわった風景を付け加えると。

ある夕刻の由良研究室で。いつものように正規のゼミが終わって、酒の入った本番のゼミになって酒が足りなくなった。四方田が買い出し係を買って出た。

しかし、まてどくらせど、四方田は帰ってこない。ずいぶん経ってから、

「守衛にいまごろ何やっているんだ、って誰何されちゃって。はい、由良先生の研究室でシンポジウムをやっています、って答えてすり抜けてきた」

と。才気煥発とはこのようなことを言うのだろう、とぼくは変な感心の仕方をした。

もう一つ。

ぼくは今でも自宅での朝食は濃いミルクティーとトーストなのだけれど。

この紅茶の入れ方は、ずーっと前から、少し暖めたミルクを先にカップに入れ、後からうんと濃く入れた安物のブラックティーを注ぐ、というやり方。

お袋が、当時のロンドンからの帰国子女だった女学校の同級生に教わったやり方だった。

四方田の評伝を読んだ上で思い返すと、ちょっと背筋が寒くなるのだけれど、ぼくは、この方法で紅茶を由良先生とゼミの仲間に献じたことがある。

由良先生と学友たちの評判はすこぶるよかった。

じつは、ぼくは、ロンドンには行ったことがないし、先日香港に立ち寄った際も、ペニンシュラホテルのブレックファストは食べそびれたので、実際にロンドンっ子がどんなミルクティーを飲んでいるのかは詳らかにしない。

ともあれ、そのころの由良先生もロンドン滞在の経験はなく、当然のこととしてイギリス流の濃いミルクティーの存在はつとにご存じだったに違いないが、その実物となると、ぼく同様、経験がなかったのではないかと推測する。

「いいね、これこそ本場のミルクティーだ」

といった意味合いのことをおっしゃたような記憶があるが、由良先生の心の中には、ちょっとアンビバレントなさざ波が立ったのではないか。

こんなエピソードよりも、四方田の評伝を読んで、改めてびっくりしたことが三つ。どれもが内外の著作者にかかわることなのだけれど。

エドワード・サイード。ぼくは、直接的には、サイードのことを教わったのは、水越伸からなのだけれど、四方田は、当時の由良先生から、「見ててごらん。いずれこの人はスゴイことをしでかすよ」という言葉とともに、サイードのごく所期の評論『始まり』を紹介されている。

レイモンド・ウィリアムズ。これも水越伸の流れで。カルチュアル・スタディーズの旗手であるスチュアート・ホールの一派が作ったソニーのウォークマン戦略をケーススタディとしたオープンカレッジの教科書があって、その付録にモーバイル・プライバタイゼーション(動く私的空間)という概念を論じた部分が引用されている。ぼくは、ここ数年、ウォークマン(いまやiPod)だけではなく、交通期間内での携帯電話のメールや携帯ゲーム機の隆盛を考える際、このウィリアムズの概念がとても有効だと思って、折に触れて考えたり紹介したりしてきたのだけれど。

このレイモンド・ウィリアムズも、由良先生はずっと昔に紹介されているという。

江藤淳。

この人は、由良先生は、この人を蛇蝎のごとく嫌っていたという。あれ、逆かなあ、江藤淳が由良先生を嫌っていたのかしら。たぶん、両方。

後年、日本文藝家協会のユニコードバッシングでぼくはかなりつらい思いをするのだけれど、会長としてその先頭に立っていたのが江藤淳だった。ぼくは、紀田順一郎とともに、あたかも敵陣中への落下傘効果よろしく、当時出版されたユニコードバッシング本に江藤淳と名前を並べて小論を書いている。

愕然とする、というか、唖然とするというか、ぼくは、アカデミズムとは縁を切って、編集者として、IT業界の製品企画者、国際標準化専門家としての道を歩んできたわけだけれど、そんなぼくでさえ、由良先生の手のひらから一歩も出ていない、ということ。

ともあれ、四方田犬彦の由良君美評伝は、世代から世代への知のリレーへの覚悟といった意味合いも含めて、ちょっとほろ苦い思い出とともに、ぼくに深い感銘を与えた。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 書架の記憶 | 4件のコメント

中野幹隆時代の終焉(承前)

《mixiに書いた日記の一部。このブログの前のアーティクルで少し触れたハイパーバイブルについて》

1991年10月に発行された『季刊哲学12号』は、《電子聖書:ハイパーバイブル=テクストの新スペキエス》と銘打たれている。

ビル・アトキンソンのハイパーカードがようやく普及の兆しを見せ始め、ハイパーテキストという言葉が一部の尖った連中の間で話題になり始めたころだった。HTMLもモザイクも、まだ、インターネットの海に解き放たれてはいなかった。

ぼくは、マックを持っていなかった(買えなかった)ので、ハイパーテキストによってもたらされる世界は、いくつかの書籍や雑誌の記事などから夢想する以外に方法はなかった。

一方、(一応)カトリックの信仰を持ち、学生時代に新約聖書学の泰斗、荒井献の謦咳に接したこともあるぼくは、特に共観福音書とよばれるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関係に関心があった。

ある時、共同訳(カトリック陣営とプロテスタント陣営が共同で訳した画期的な聖書)を眺めていて、突如思いついた。

「共観福音書はハイパーテキストではないか」

大げさではなく、神の啓示だと思った。

共観福音書には互いに似たような記述が多くある。

それらはつとに知られており、平行する個所を横並びに編集して一覧できるようにする努力は、手書き写本の頃から行われていた。

そして、聖書学研究の多くの部分が、平行個所の引用関係を精緻に分析することにより、三福音書の成立過程を解き明かすことに捧げられてきた。

この成果をそのまま電子化すれば、きれいなハイパーテキストになる。

いくつかの偶然が重なった。

安斎利洋さんとの思い出の共著『ターボグラフィックス』を出版してくれたJICC出版局(今の宝島)の佐藤さんが、当時、たぶん一般に手に入る唯一のMS-DOSのテキストコンソールで動くハイパーテキストツールを提供してくれた。

新共同訳の翻訳チームの一員だった福岡のイエール神父が、いくつかのボランタリーな聖書電子化プロジェクトを糾合して、信頼性の高い電子テキストをまとめていた。

そして、中野さんがいた。

たぶん、ぼくは、熱にうなされていたのだと思う。マンデルネット86の企画を、安斎さんと思いついたときもそうだったけれど、技術的に可能だと分かってしまえば、社会的な障壁などかまっていられなかった。

中野さんは、なんの躊躇もなしに、

「やりましょう」

と言った。

それどころか、このプロジェクトは、単なる福音書のハイパーテキスト化としてだけではなく、解体されるべきテキストとしての聖書(=書物)についての広汎な議論の場へと拡げられた。

皮肉なことに、ぼくが作ったハイパーバイブルは、『季刊哲学』そのものに含まれることはなかった。日本聖書協会が主張する翻訳著作権が障壁になった。

しかし、荒井献の東京大学における最終講義と若桑みどりのシスティナ礼拝堂の壁画をめぐる図像学の論文とを、ハイパーテキストとして解体し、ハイパーリンクによって異なる視点(例えば、フェミニズムの聖書学)から再構築する、といった実験を行うことが出来た。

翻訳掲載されたトマス・アクイナスとボナヴェントゥラのテキストには、『季刊哲学』からは欠落したハイパーバイブルへの外部リンクを埋め込んでおいた。

ぼくは、電子テキストの問題を考えるとき、いつも、この中野さんとの共同作業と、その後も続いた、書物の未来をめぐる議論を思い起こす。今に至るまで、巷間なされる議論で、中野さんとの議論を越えるものに出会えることは、きわめてまれなことだ。残念なことに、中野さんの書物の未来に対する絶望的な予言は、少しずつだけれど確実に現実のものとなっている。

中野幹隆の死とともに、ある時代が終焉を迎えたのだという思いは、日ましに強まっていく。

中野幹隆が生涯をかけて解体を試みた書物=テクストを、どのような形で未来の再生につなげていくか。ぼくたちは、中野さんから重い課題を受け継いでいる。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で | コメントする

時代の終焉:中野幹隆の死

中野幹隆が死んだ。訃報は西田裕一からもたらされた。
中野さんは、ぼくにとって唯一無二の編集者としての師だった。初めてお目にかかったときから、三十年以上ずうっと。
最初にお目にかかったときのことを、鮮明に覚えている。
駒場の大学裏の喫茶店の二階。机の上に、『エピステーメ創刊ゼロ号』。中野さんは、三つ揃いのスーツに、やや派手な臙脂色のネクタイを身につけて現れた。そのときから、ちょっと汗っかきで柄物のハンカチーフで汗を拭き、扇子で顔に風邪を送って。
ぼくは、大学院の入試に落ち、都合二度目の留年をして、学部にとどまっていたけれど、アカデミズムの道を邁進するだけの覚悟はまだ出来ていなかった。それよりも、成定薫さんを筆頭に、まなじりを決して研究に没頭する人たちの姿に気圧されて、少し気持ちがぐらついてもいた。今の妻との結婚を考え始めていて、父から、結婚するなら自分で稼ぐようになってからにしろ、とも言われていた。就職することを考え始めていた。
そんなときに、エピステーメに出会った。指導教官だった伊東俊太郎先生が、執筆されていたこともあって、中野さんへの仲介をお願いした。
おずおずとエピステーメの編集をお手伝いしたい旨を申し出た学生を、中野さんはほとんど何の躊躇もなく受け入れてくださった。
「社長と会ってください。」
お目にかかった出版社の社長さんも、
「大歓迎ですよ。でも、後で後悔されても困るので、一応、大手出版社の入社試験も受けて、落ちてきてください。」
と。
結局、ぼくは、小学館に入社し、学習雑誌の編集部で編集者としての第一歩を踏み出すことになった。入社直後、中野さんが、
「お祝いしましょう」とおっしゃって、神保町のビアホール、ランチョンに誘ってくださった。ぼくは、ランチョンの場所を知らなかった。
「え、ランチョンをご存じないのですか? 編集者としては、モグリですよ。」
ランチョンで、中野さんは、
「木曜日の午後、ランチョンにきたときは、この席は空けておかなければなりません。吉田健一先生が座られますから」
こうして、ぼくは、中野さんから、《神田村》で編集者として暮らす作法を学び始めたのだった。
爾来、勤務先が小学館からジャストシステムに変わってからも、ジャストシステムを退社して、個人会社を足場に活動するようになってからも、中野さんとの交流は続いた。
季刊哲学の一冊を、まるごと聖書の電子化の問題に充てていただいたのは、ぼくにとってかけがえのない勲章となった。
DTPでの本作りをお手伝いしたときの《スコラエキスプレス構想》が、ぼくの個人会社名《スコレックス》の源流となった。
昨年の賀状で、お体の具合がよろしくない、といったことを知り、心の隅に引っかかるものが残った。
昨日、安斎利洋、中村理恵子、歌田昭弘らと仲間内で食事をし、帰路についたところで留守宅からの連絡が入った。思えば、西田裕一を含め、中野さんを媒介として知遇を得たり、中野さんに触発されながら、議論を重ねてきた仲間は、少なくない。
中野幹隆の死とともに、書物の一つの時代が終わった。中野幹隆の時代の終焉に、愛惜の思いを込めて合掌。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: デジタルと文化の狭間で | コメントする

灰谷健次郎のこと

灰谷健次郎とのこと
灰谷健次郎が死んだ。享年72歳。
ずいぶん前に編集者を廃業しているので、今さらといえば今さらだけれど、灰谷さんへのたった一度の執筆依頼の思い出は、編集者としてのぼくにとっては、大きな勲章の一つだとなっている。
もう30年近くも前、ぼくが本当の駆け出しのころ。小学館に入社し、学習雑誌『小学六年生』に配属されて、たぶん2年目かそこらの冬。そのころベストセラーとなっていた「兎の目」を読んで感動したぼくは、3月号の卒業記念企画として、灰谷さんの書き下ろしエッセーを提案し、この企画は、編集会議でめでたく採用された。
ぼくは、灰谷さんに手紙を書き、灰谷さんは、執筆を快諾してくれた。
原稿は、インドだったか沖縄だったかへの旅の途中で書かれ、郵送されてきた。
一読して、ぼくは、仄かな不満を覚えた。原稿は、氏が出会った子供の感動的なエピソードが一つと、それから敷衍したはなむけの言葉とから成っていた。本来の灰谷さんの文章はこんなものではない。相手が小学生でも。灰谷さんの美質は、抽象的な説教や講話ではなく、生の子供たちの出会いであり、ぶつかり合いにあるはずだった。
ぼくは、大学の大先輩でもある編集長に、おずおずと申し出た。
「書き直してもらおうと思うのですが。」
「署名原稿だろ。それに、小学館文学賞を受賞したばかりだぞ。」
「でも、灰谷さんには、ぜったいにもっといい原稿が書けるはずです。」
やりとりしばし。
「そんなに言うのなら、行くだけ行ってこい。」
垂水に住んでいた灰谷さんを訪ねる新幹線の中で、ぼくは、出版されたばかりの「おきなわの子」を読んだ。読みながら、何度か嗚咽が出て止まらなくなった。
初対面の灰谷さんは、若輩者のぼくの話を静かに聞いてくれた。
「一晩ください。書き直しておきます。」
ぼくは、京都に住んでいた友人の家に一晩泊めてもらい、次の日、再び灰谷さんの自宅を訪ねた。原稿は、後半部分がもう一つ別の子供のエピソードに置き換わっており、前よりもずっと生き生きとしたものになっていた。
ぼくが、お礼を述べて辞そうとしたとき、灰谷さんが、ぼそっと言った。
「長いこと原稿を書いて生活してきたけど、書き直しをしたのは今回が初めてですわ。」
ぼくは、一瞬、ギクリとした。
「せやけど、小林さんの言うこと、もっともやからね。」
うれしさがこみ上げてきたのは、駅に向かって歩きながらだった。
ぼくは、《あらがわ》に寄って、一人でステーキを食べて、自分をほめてあげたのだった。
10年あまりの後、ジャストシステムに転じるため、小学館を辞めた折。
ぼくが担当していたある漫画家が言った。
「小林さん、直しの小林、って言われているの知ってました?」
残念ながら、ぼくは、そのあだ名を耳にしたのは、初めてだった。
「でも、小林さんに言われて直すと、確実に良くなるからなあ。」
灰谷さんが駆け出しのぼくにくれた勲章は、編集者としてのぼくのスタイルとして体に染みついていたのだった。
その後の灰谷作品に対して、ぼくは決して熱心な読者であるとは言えなくなっていった。しかし、一度きりの執筆依頼は、今でも鮮烈にぼくの記憶に残っている。
思い出とともに。合掌。

カテゴリー: 書架の記憶 | コメントする

フィガロの結婚:宮本亜門演出(横須賀芸術劇場)

  • タイトル:フィガロの結婚
  • 開始日時:2006-10-15 14:00
  • 終了日時:2006-10-15 18:00
  • 場所:横須賀芸術劇場
  • 指揮:現田茂夫

    演出:宮本亜門

    出演:アルマヴィーヴァ伯爵 黒田博、伯爵夫人 佐々木典子、ケルビーノ 林美智子、フィガロ 山下浩司、スザンナ 薗田真木子 他

    合唱:二期会合唱団

    管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

    装置:ニール・パテル 衣装:前田文子 照明:大島祐夫

モーツァルトイヤーということなのだろう。今年は、さまざまなところでさまざまなモーツァルトの作品が上演された。ぼくたち夫婦も、それなりに恩恵を受けた。どこだったか東欧の歌劇場のドン・ジョヴァンニに始まり、国立劇場の魔笛、横浜オペラ未来プロジェクトのコジ、そして、今回のフィガロ。ドン・ジョヴァンニが一番凹だったかなあ。なんだかうら寂しくてねえ。
おっと、ヨコスカポケットでやった弥勒さん演出のバスティアンとバスティエンヌ、劇場支配人も忘れられない。
で、今回のフィガロなのだけれど、どうも記憶を辿っていっても、今まで実際に見た記憶がない。藤沢市民オペラの第一回上演作品なので、30年以上前からよく知っているつもりでいたのだけれど。ポネル演出、ベーム指揮の名作映画も何度か見た記憶があるし。
いずれにしても、宮本亜門の演出もすごくオーソドックスでシャープだし、舞台の上に額縁を切り、その外側もうまく利用した舞台装置も秀逸。現田さん指揮の神奈フィル、個々のキャスト、どの一つをとっても水準以上の出来で、素直に楽しめた。
なによりも、ぼくは、初めて行ったのだけれど、ホールがとてもいい。大きすぎず、客席の配置が古典的なヨーロッパの歌劇場みたいだし(平戸間+バルコニー式の2階席以上)、『オペラの運命』(岡田暁生著、中公新書)からの孫引きの知識をひけらかして、「フムフム、下々の者は1階席ね。ぼくなんて、3階席の真ん中だもんね」などと、悦に入ったりしてね。
これで、国立劇場のマエストロやかつての日生劇場のアクトレスのようなオペラの上映とリンクした美味しいレストランが併設されていたらもう最高。
拍手のタイミングがやや遅かったのは無い物ねだりなのだろうが、これからいい上演を重ねていって、地元の観客が少しずつでも成熟していくことを祈っている。
このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

カテゴリー: 音楽の泉 | コメントする