エスペリアのランチ、そして、貴婦人と一角獣展とミュシャ展

2013年5月1日、新国立美術館で開かれている「貴婦人と一角獣」展と森美術館で開かれているミュシャ展をはしご。間に、西麻布のエスペリアでランチ。

六本木近辺の美術館に行くときの最大の楽しみは、西麻布のエスペリアでランチが食べられること。というか、エスペリアでランチするための口実に展覧会を見る、というのがホンネ。

朝から出かけて、まず、「貴婦人と一角獣」展を見た。

メインは、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の6面の連作タピスリー。美術館の収蔵室衣替えにあわせての貸し出し。メトロポリタン美術館以来120年ぶり、2度目の館外貸与とのこと。

午前中ということもあり、それほど混んでいなかったこともあり、ヨーロッパ中世の香りを堪能できた。

エスペリアも連休の谷間のせいか、それほど混んではいなかった。森シェフの料理とフロアーの小倉さんの接客は、いつものように素晴らしい。ゆったりとした気分で贅沢な時を過ごせる。

思えば、森克明シェフと知り合ってから、もう30年以上経つ。小学館の編集者時代、当時、三笠会館新宿店のシェフだった森さんと出会った。そのころは、フレンチで南フランスの料理を出していた。もう、サラダ革命でチーズの騎士の称号を得ていた。大切な執筆者の接待のために、頼み込んでチーズづくしのコースをやってもらった。その執筆者はとても満足してくださり、上機嫌で、後に「コンピューター時代の教育」という一連のシンポジウムに発展する話題で盛り上がった。

ジャストシステムに移ってまもなく、西銀座デパートにヴォーノ・ヴォーノというイタリアンの店を立ち上げる、という案内をもらった。開店披露のパーティにも呼んでもらった。ヴォーノ・ヴォーノにもよく通った。娘が小さいころ、そのころ安斎利洋さんと中村理恵子さん、草原真知子さんらが中心となって、ゴールデンウィークにワシントン靴店のギャラリーで開いていたコンピュータグラフィックスのグループ展を見た後、妻の幸子と3人で、食事をするのが楽しみだった。

ほどなく、森さんは、支配人としてフロアーに立つようになり、そして、いつの間にか、姿が見えなくなった。

数年経って、三笠会館の鵠沼店で食事をした折、支配人から森さんの消息を聞いた。曙町で自分の店を出した、と。

曙町の店にも何度か行った。しかし、この店は、場所柄と安さのせいだろう、若い人たちがあふれかえっていて、ぼくたちには、ちょっと賑やかすぎた。

しばらくして、エスペリアは、今の西麻布に移った。

西麻布に移ってからのエスペリアは、ぼくにとっては、フレンチの三笠会館鵠沼店、うなぎのうな平、カレーのガネーシュとともに、最高のレストランの一つとなった。

森さんの料理が素敵なのは、ほんとうに、客に旨いものを食べさせるのが楽しくって仕方がない、という彼の思いが、詰まっているところだろう。森さんがヴォーノ・ヴォーノの支配人になったころ、冗談で、「裏切り者」と言ったことがある。だれよりもそのような思いを抱いていたのは、森さん自身だったに違いない。彼は、料理が作りたくって作りたくって、独立したに違いないのだ。そして、客にゆっくり自分の料理を味わってもらいたくって、今の場所に移ったのだ。

森さんの料理と小倉さんの接客ぶりに接するだけで、ぼくたちは幸せなひとときを過ごすことが出来る。

午後から見た、ミュシャ展は、大変混雑していた。ミュシャは、過日、プラハに行ったときにも随分見たが、作品の重なりはあまりなく、珍しい油絵作品や写真も出展されていて、なかなか充実したものだった。ちょっと嬉しかったのは、ビクトリア女王の在位50年だかを記念してネスレの注文で描いたポスターの左右上部に、ライオンと一角獣が描かれていたこと。幸子に言われて気付いた。ヨーロッパの文化の脈流に触れたような気分だった。

しかし、いつものことながら、東京の美術館の企画展の混雑と場内の案内は、もう少し何とかならないものだろうか。せっかくのゆったりした気分が、ずいぶんと削がれてしまった。

帰りに、東京駅で、《御門屋》と《あげもちや》の唐辛子揚げあられ。幸子に呆れられる。

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並木の藪

電子書籍コンソーシアム事務局で、苦楽の苦の部分ばかりを共にくぐり抜けてきた、及川明雄さん、金沢美由妃さん、そして、コンソーシアムメンバーでほとんど唯一いまだに交友が続いている浜地稔さん、それに愚妻の幸子と、並木の藪に行った後、亀戸天神へ。

小学館に入社したばかりのころ、学年別学習雑誌の部長さんだった林順信さんからは、いろいろなことを教わった。蕎麦の喰い方もその一つ。そのころの定番は、神田の藪と日本橋の砂場。専大前にあった一茶庵はまだ新興勢力の風情だった。

でも、順信さんは、「神田の藪よか並木の藪の方が旨いぜ」などとおっしゃっていた。

後に並木の藪の主人が書いた『そばや今昔』(中公新書)を読んだ。

しかし、神田の藪やまつやには何度も足を運んだのに、今に至るまで並木の藪には行ったことがなかった。今日、40年来の夢が叶った。

及川さんや浜地さんたちとの散策は楽しい。気心が知れているというか心置きない関係というか。それぞれが、何の遠慮をすることもなく、それでいて、すこぶる居心地がいい。落語を聴きに行っても、東京の下町を散策しても、いつも、お二人の見識というか教養には舌を巻くしかないのだけれど、蘊蓄の数々がごく自然に何のてらいもなく語られて、それを素直に聞くことが出来る。

ゴールデンウィーク初めの日曜日で、かつ、好天に恵まれていたためもあって、雷門周辺から仲見世にかけては、ものすごい人出だった。外国人の観光客も随分増えていたような。そして、1時過ぎに行ったのに、並木の藪も行列が出来ていた。

まあ、覚悟の上だったし、楽しい仲間と一緒だと、行列に並んでいる間の会話も楽しい。

板わさ、焼き海苔、天ぷらを頼んで、ビールを2本。つまみの量は少なめだけれど、後に蕎麦が控えているのでね。

せいろ一枚ずつは、あっという間に平らげた。

浜地さんと金沢さんは、せいろをおかわり。だけど、及川さんは、頑固にかけを主張する。ぼくも幸子も、今回は、及川さんに乗ることにした。

このかけが絶品だった。せいろがまずいわけではない。というか、せいろも十分以上に旨い。名にしおう並木の蕎麦つゆも、味が濃い。思っていたよりも甘かったけれど。

しかし、かけの旨さ。きっと、蕎麦のゆで方も、せいろとは変えているのだろうが、なによりも、つゆが旨い。きりりとしていて、芳醇で。正直なところ、こんなに旨いかけそばは、喰ったことがない。そばはせいろが王道で、温かい蕎麦など邪道だと思っていたが、宗旨替えをせざるを得ない。

ずうっと昔、いわゆるバブルのころ、飛行機に乗って札幌にラーメンを食いに行く、などというばかげた話があったが、このかけそばを食うためだけに、浅草に出向くのも一興かな、などと。

 

 

 

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ATOK監修委員会の終焉

2013年3月末をもって、永年続いたATOK監修委員会が最終的に解散した。

昨日(2013年4月26日)、ジャストシステムでATOKの開発に携わっている喜多さんや下岡さんと、ATOK監修委員の一員として永らくお世話になった鳥飼浩二さんを稲毛に訪ねた。話は尽きることがなかった。

じつのところ、この2年ほどは、ほとんど実質的な活動は行われていなかったこともあり、また、ATOKのみならずいわゆる仮名漢字変換システムを取り巻く環境も随分変わってきているので、まあ、潮時と言えば潮時なのだろう。

しかし、それにしても。

一抹の寂しさと漠とした不安を拭い去ることが出来ない。これでいいのだろうか、と。

今、メールをチェックしてみたら、もう4年も前になる。2009年に、最初期のATOK監修委員会委員だった矢澤眞人さんに頼まれて、筑波大学で一回限りの臨時講義をしたことがある。題して、「Google日本語変換はボルヘスの夢を見るか」。

その時に配布したレジュメは、以下のようなものだった。

 

《Google日本語入力は、ボルヘスの夢を見るか》

  1. ユニコード、ATOK、どらえもんの三題噺、自己紹介に代えて
  2. Google日本語変換を見てもらう(みぞうゆう、かくそくない、ことせん)
  3. コーパスによる仮名漢字変換辞書の自動編纂
  4. じつは、MS-IMEもATOKもこのようなアプローチは利用している。
  5. 問題は、自動編纂に用いるコーパスの質  Google日本語変換は、現在のインターネットにおける日本語使用の鏡(鑑ではない)
  6. 言葉が日々移ろいゆくものであるとすると、Google日本語変換の何が悪い、という強弁も成り立つ
  7. しかし、Google日本語変換を日本語を初めて学ぶ留学生に使わせたいと思うか
  8. どうも、どこかに、《ありうべき日本語》という幻の中心がありそうな気がする
  9. ATOKの歴史は、まぼろしの中心としての規範性とGoogle的な記述性との間で、 悩み揺れ動いてきた試行錯誤の歴史と言ってもいい。
  10. 小学校用学年別ATOK辞書の企画→生活語彙と学習語彙、語彙空間という概念
  11. 紀田順一郎さんと井上やすしさんの批評→仮名漢字変換辞書の匿名性と規範性のなさ
  12. ATOK監修委員会の発足→権威は入れるな、矢澤さんは森六経由で北原保雄先生が紹介
  13. たった一人のユーザーとしての紀田順一郎(自分の子供のためにだけ作った学幼)
  14. 日本語の多様性への対応(一人一人のATOK)→方言対応  荻野綱男さんの紹介で各地域の大学を訪問→グルメツアー
  15. 文部省文法とそれに基づくATOKのアルゴリズムでは、大阪方言に対応できない
  16. 真田信治さんのネオ方言と文化政策の民活(ベッカムの記事)
  17. 携帯電話やツイッターの日本語
  18.  Google日本語変換は、未来のATOK?
  19. 突き破られるための日本語変換辞書を目指して(ヴィットゲンシュタイン的な意味での言葉と世界との隙間、裂け目への挑戦。語ることの出来ないことを語るための不可能への挑戦)

チェジュド(済州島)にチュウォルのビョンシン(知恵遅れ)の息子いてた。イルチェシデ(日帝時代)終わってすぐチュウォル済州島帰った。そやけどチェス (運)ないことに選挙反対や、選挙反対ゆもんペルゲンイ(アカ)やゆて、チェジュッサラム(済州島の人)とユッチサラム(本土の人)殺しあいしたゆ話お前も知ってるやろ。そのどさくさに出来たピョンシンの息子コモニム(姑母様)に預けてチュウォル日本に逃げてきたやげ。  在日朝鮮人二世作家、元秀一(ウォンスイル)の書いた小説『猪飼野物語』(草風館、一九八七年)の中で、大阪猪飼野(生田区)に住む在日一世のおばあさんがしゃべる、朝鮮語(済州島方言)と日本語(大阪方言)の入り混じった「イカイノ語」とでもいうべきクレオール言語の例である。(猪飼野は、在日朝鮮人 が密集して住んでいる”朝鮮人部落”としてかつて有名だった。クレオールとは、二つ以上の言語が混じりあって出来上がった混合語。ビジン・イングリッシュ などのピジンが母語化すればクレオール語となる)。  こうした「日本語」は、これまで片言であり、“間違った”日本語として排斥や忌避の対象とはなっても、まともに言語学的な対象や、文学的な言語表現語として鑑賞の対象として取り上げられることは皆無といってよいほどなかった。琉球語、アイヌ語による言語表現が、「日本文学」として鑑賞や研究の対象として考えられてこなかったのと同じように(あるいはそれ以上に)、それは言語表現とも、言語とも認知されてこなかったというべきなのである。だが、日本語が「国際化」するということは、こうした「ヘルンさん語」(小泉八雲のことばを妻の節子が保存したもの。引用者注)「イカイノ語」が生まれてくるのが必然であり当然な社会になるということであって、「かわいい日本語に旅をさせよ」というのは、まさにこうした「日本語」を、日本語の「生きた力」としてとらえる ことが出来るかどうかにかかっているといえるのである。(河村湊著『海を越えた日本語』269ページ)

このレジュメを敷衍していくと、とんでもない文章量になってしまう。ただ、このころ、Google日本語変換が出始めたころのぼくの問題意識は、今となっても全くと言っていいほど変化していない。

18番目のヴィットゲンシュタインへの言及など、その後の、ぼく自身の言語ゲームへの関心を予感させるものすらある。

何はともあれ、このころから今に至るまでのぼくの関心の一つが、仮名漢字変換システムの規範性と記述性との間の相克にあることは、間違いのないところだ。

そう。ぼく自身が、日本語表現の規範性と記述性の狭間で、ある種の引き裂かれたような感覚を抱いているのだ。

その表れが、レジュメの最後の河村湊さんの著書からの、長い引用なのだ。思えば、この個所を、ぼくは何度引用したことだろうか。ぼくにとって、この個所は、日本語というもの、いな、言語というものを考えるときの、ほとんど原点とでもいうようなものなのだ。

この一見訳の分からない言葉(猪飼野語)を乱れた日本語だとか、間違った日本語だとか言い立てることは何人にも許されないことだと思う。それどころか、ぼくは、河村湊さんがここに引用した在日一世の言葉を、美しいとすら感じる。

他方で。

ぼくの中には、漠としたものではあるが、有り得べき日本語の姿があるように思えるのだ。そんな話を矢澤さんの車の中でした。

「矢澤さんにとって、有り得べき日本語とはどのようなものなのだろう」

矢澤さんの答えは、じつに当を得ていた。

「30年後に自分の子供たちが大人になったとき、恥ずかしい思いをしないような日本語。それを子供たちに伝えたいと思うのですよ」

結構、やられた感があった。そして、その思いは、今に至るまで変わらない。

ぼくには、すでに4人の孫がいる。

その孫たちが大人になったとき、彼らを取り巻く、日本語の環境、特に、ネットワークやデジタル機器を媒介とした日本語の環境は、どのようなものになっているだろう。

30年後の日本語の環境のために、今、ぼくに出来ることが、まだあるのではないか。

ATOK監修委員会の終焉を目の当たりにして、ぼくが漠として感じている欠落感は、煎じ詰めると、そのようなものではないか、と思えるのだ。

 

 

 

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中森さんとの会食

昨日(2013年4月26日)、スコレックスとぼく個人の顧問をしていただいている会計士の中森真紀子さんと会食。息子夫婦と妻の幸子同席。
中森さんは、彼女が電子書籍コンソーシアムの会計監査をなさっていたのがご縁で、有限会社スコレックスを設立したときから、ずっと顧問をお願いしている。まあ、こんな弱小企業や零細個人事業主の顧問をお願いするのも申し訳ないのだけれど、やっていることはそれなりに面白くって、もしかしたら、中森さんの他のお仕事にも少しは役立てていただけることもあるのではないか、という勝手な思い込みで、甘え続けている次第。
そんなわけで、楽しいグルメの昼下がり。
場所は、新丸ビルのオー・グー・ドゥ・ジュール・ヌーヴェルエール (Au gout du jour Nouvelle Ere)。
噂に違わぬ、というか、期待以上の素晴らしい料理だった。いい意味での意外性が一杯。
中でも秀逸は、アミューズに出てきたシフォンに添えられたスモークの香りが強いホイップクリーム。パテシェ出身シェフの面目躍如。
復元なった東京駅丸の内駅舎の眺めも素晴らしい。
で、食事の席で話題となったカレーとワインにまつわるいくつかの本。
中島岳志著
中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義(白水社)
著者の神戸外大における修士論文が元となった著書。
みずみずしい熱気が伝わってくる快著。
リジー・コリンガム著
インドカレー伝(河出書房新社)
「純粋なインドカレーなどない」インド料理を軸とするさまざまな文化の出会いと混交の歴史。
ジョージ・M・テイバー著
パリスの審判(日経BP)
1976年の歴史的なブラインドテイスティングの場にいたジャーナリストによるワイン世界化の歴史。
ガーギッチ・ヒルズやスタグス・リープなど樋浦さんとの思い出のワインも出てきて、思い一入。
小菅桂子
「カレーライスの誕生」(講談社学術文庫)
カレーの日本伝来史。イギリス風のカレーがどのようにして日本のライスカレーになったか。世相の変化も如実に伝わる優れた文化史。
山下範久
「ワインで考えるグローバリゼーション」(NTT出版)
学識と趣味が見事に融合。面白くてためになる。グローバルな視野でビジネスに取り組むための必読書。
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ガネーシュ復活

ああ、もう一年近くたつのだ。ガネーシュの石原さんが亡くなってから。そして、緑園都市のガネーシュが、ばたばたと店を閉じてから。。

閉店前の昼時に、最後と思って出かけたら、ものすごい混雑ぶりで、石原さんと石原さんの料理を愛していた人がこれほどもいたのかと、改めて深い感慨を覚えるとともに、だいすきだったマトンカレーが売り切れていて食べられなかったことが、とても悔やまれた。この思いは、その後も折に触れて味覚の記憶として何度もよみがえった。そのたびに、哀切の情が胸を刺した。

ゴールデンウィークに入る前に、うれしいはがきが届いた。ガネーシュ復活。場所は、だいぶ遠くなって、金沢区の能見台。それでも、また、あのマトンカレーが食べられる。

昨日(2008年5月16日)、満を持して、出かけた。近ごろ家を出てマンション暮らしをしている娘も、独立した息子も、身重の嫁も、孫も、みんな集まった。総勢、7名。

事前にお店に電話をしたら、予約は受け付けない、とのことだったので、6時前には入っていた。ははは、一番乗り。

マトン、シュリンプ、ベジタブル、キーマ、チキンバターマサラ、ライタ。そう、この味。石原さん時代と全く変わらない味と、ほんの少し変化のついた味と。

孫は、お子様プレート。緑園都市のお店にはなかったなあ。

食後には、蜂蜜のババロアにマンゴーのピュレをかけたものとマサラチャイ。

写真を撮ろうと思って持っていたカメラのことなど、最後の一皿を食べ終わるまで、まったく頭の中から消えていた。

おいしかった。懐かしかった。家族の賑やかな会話があった。

なによりも、石原さんのバトンが確実に次の世代に引き継がれたことが嬉しかった。

また行こう。駐車場に向かう途中の春風が心地よかった。

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ある料理人の死

ガネーシュのオーナーシェフ、石原さんが亡くなった。

お店で最後に会ったとき、異様にやせていたので、気になっていた。

先日、お店に行ったら、姿が見えず、娘の幼なじみでお店でずっとアルバイトをしているトモちゃんが、糖尿病で検査入院している、と教えてくれた。お店もしばらく休むことになりそうだ、ということだったので、一度、お見舞いの花を持って食事に行こう、と家族で話していた矢先に、訃報が届いた。

やりきれない。

今、ホームページでチェックしたら、1992年の開店。

開店直後に一度ランチを食べに行った。味にちょっと安定感がない、という印象を受けた。

しばらくして、また、行った。すごく旨いと思った。そして、病みつきになった。

何度か通ううち、顔を覚えてくれたのだろう、石原さんが、「裏メニューもありますよ」といって、メニューにない料理を出してくれた。

「もう一つ、裏技があってね。マトンビリヤーニに野菜カレーとライタ(ヨーグルトと刻み野菜のサラダ)を混ぜて食べるとサイコーですよ」

サイコーだった。1+1+1が3ではなく、時に、4にも5にもなることを身をもって知った。

それ以来、ガネーシュはぼくたち家族にとって、かけがえのない店になった。

家族中で世話になっていたカーテン神父がカナダに帰るとき、毎年ホームパーティを開いている親しい3家族で集って送別会を開いたのもガネーシュだった。

東京外国語大学アジアアフリカ文化研究所のインド語の専門家である町田和彦教授や畏友樋浦秀樹さんを招いて食事をしたのも楽しい思い出だ。町田さんが、研究所に帰って「いやあ、横浜に旨いインド料理の店があってね」と自慢したら、知らなかったのご本人だけで、他の方々は先刻ご承知だった、と後から聞いた。ガネーシュの名前は、インド料理好きの間では、全国に知れ渡っていた。

懇意にしていた徳島の天ぷら屋の主人が送ってくれた鳴門の鯛を持ち込んだら、「鳴門の鯛なんて買おうったって手に入りませんよ」と満面の笑みを浮かべて、片身をビリヤーニに、のこりの片身を絶妙にスパイシーなグリルにしてくれた。

札幌の二条市場で買ってきたタラバガニとホタテ貝。タラバガニはやはりビリヤーニとグリルに。カニ味噌を入れたカレーソースにディップして食べた脚の旨かったこと。ホタテ貝は手持ちのエビを加えて、バターマサラソースで料理してくれた。

デザートも上手かった。娘は、ガネーシュで食べたデザートを全部覚えていて、時々、石原さんにリバイバルのリクエストなどをしていた。クルフィー(インド式のアイスクリーム)、マンゴーケーキ、黒砂糖のアイスクリーム。ぼくは、黒砂糖のアイスクリームが好きだった。コーヒーやチャイに添えられた黒砂糖からして、もう、味が違うのだ。素材を求める情熱も並のものではなかった。

シラスの季節になると、喜々として小坪に買い出しに行っていた。「釜揚げしらすを少し天日で干してもらうんですよ。そうすると、ビリヤーニにしたとき、コメと上手くなじむんですよ」

石原さんは、冗談半分に「いやあ、私は天才ですから」と言っていた。冗談ではなく、そう思う。ぼくはインド料理に格別詳しいわけではないけれど、石原さんの料理は、どこかの地方のインド料理というよりも、石原さんの料理、といった印象を受ける。フレンチの基礎とインディアンの経験が相俟って、どんな食材に向き合っても、彼独自のすばらしい料理に展開する実力を持っていた。

ワインへの入れ込み方も並ではなかった。特に、白ワインにはこだわりがあって、料理と合う絶妙のワインを選んでくれた。

ぼくが、カリフォルニアや勝沼で買い込んできたワインを持って行くと、「うちにワインを持ち込むのは小林さんぐらいですよ」などと言いながら、いやな顔一つせず、自分でもちゃっかりグラスを持ってきて、テイスティングしていた。

夜少し遅くなって、客が僕たちだけになると、何やかやとわがままを聞いてくれた。一方、忙しい週末などは、ぼくたちへのサービスは後回し。常連客と新しい客との距離感が抜群だった。親しさが決して馴れに流されなかった。そんな態度が、また、新たな常連客を増やしていったのだろう。

そんな石原さんが亡くなった。

やりきれない。もう、ガネーシュの料理は食べられなくなる。それは、単に料理が食べられなくなる、というだけのことではなく、料理を通して、石原さんという人格と接することができなくなる、ということ。

閉店までに、どうしてももう一度、お店に行かなければ。そして、お弟子さんたちが作る石原さんの味をしっかり舌に覚え込ませておかなければ。

生前の石原さんは、お弟子さんの養成に力を入れていた。石原さんの味は、きっとそのお弟子さんたちに受け継がれて行くに違いない。そして、お弟子さんたちは、石原さんの味の上に、それぞれの個性を盛り込んで行くに違いない。それが、後に続く人たちの責務だろう。ガネーシュが閉店しても、そのような形で石原さんの味が生き続けることを、ぼくは切に願う。

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イタリア宿酔

6月17日から24日まで、全くプライベートに妻とイタリアに行った。ローマ、ボローニャ、フィレンツェ。その後遺症からまだ復帰できない。かつてスタンダールはフィレンツェの華麗さに圧倒されて、酔ったような状態になったというが、それもあながち誇張ではない、と思わされた。

ヴァチカンの世俗的な富と美、あらゆる街角にあるあまたの教会、コロッセオの古代から現代までがまさに積み重なって共存しているローマ。中世の大学都市を今に残すボローニャ。そして、ルネッサンスの精華、フィレンツェ。

少しずつ吐き出していかないと、頭の中が、イタリアに押しつぶされた状態のまま、永遠に先に進めないかもしれない。

渦巻く頭の中から、少しずつ形が見えてきたものも、少しはある。

ウフィッツィ美術館の《春》と《ヴィーナス誕生》。(ボッティチェッリ自身の作品も含めて、それ以前の絵画、それ以後の絵画とは、全く隔絶された二つの作品。ああ、ボッティチェッリのこの二つの作品は、ルネッサンスという歴史的な現象をそのまま形にしたものに違いないのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・アンジェリコ、そしてボッティチェッリを含む数多の《受胎告知》、ルカによる福音書が、マリアの心の変化の過程を描いたものだと思い知らされる、それぞれのマリアの姿の違い。

フラ・アンジェリコの《ノリ・メ・タンゲレ》。かつて、森有正が言及していた、イエスの足の向き。

ボローニャで見た《ファルスタッフ》とローマで見た《マノン・レスコー》。ヴェルディの最晩年の作品と、円熟に向かおうとするプッチーニの作品は、ともに、1893年に初演されたのだった。すでにして独自の音色を得ていながら、ベルカントオペラの域から抜けきれないプッチーニと、言葉、劇の進行、音楽が一体となった軽妙達意のヴェルディ。それらを日常のこととして楽しむ聴衆。

ローマで食べた客に挑むような洗練のモダンイタリアンとボローニャ《パパレ》の親しみのこもった料理。

さあて、どこから吐き出していこうか。
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セビリアの理髪師(横浜オペラ未来プロジェクト)

去年のコジがとてもよかったので、今年も。

このプロジェクトの良さを一言で表すと、さわやかさ、といったことになるかしら。

若い指揮者(大家に成り下がっていないという意味で)が、とびきり優秀な歌手とオーケストラメンバーを集めて、(いい意味で本物の)世界的大演出家の助力を得て、世界に発信できるプロダクションを作り出そうとする心意気、志が、素直に舞台と音楽全体に横溢している。見ていて、聴いていて、気持ちがいいのが。素直に楽しみ、素直に応援したいと思えてくる。

歌手のレベルがそろっている。オーディションで選ばれたソリストたちは、それぞれの声の質にぴったりと合う役柄を与えられて、無理がない。

オーケストラは、質がそろっていてテクニックもすこぶる優れている。その個々人の技量が指揮者のコントロール下で調和を乱すことなく引き出されている。

演出は練達そのもの。オペラハウスではなくコンサートホールでの上演だというハンディキャップを正面から受け止めた上で、様式感と新鮮さとを両立させた見事な舞台を作っている。一幕で、アルマビーバ伯爵から書状を見せられて、兵士の指揮官初め全員が驚きのあまり、体の動きが止まってしまうところなど、歌舞伎を彷彿とさせるストップモーションなど圧巻。

無い物ねだりをすると、それは観客の側にある。

残念ながら、やや空席が目立った。こんなにすばらしく志の高い上演がどうして満席にならないのだろう。価格だって、外来の引っ越し公演とは比べものにならないほどの低価格。そして、この真剣さ。

拍手のタイミングが少しずつ遅い。お行儀がよすぎるというか、おっかなびっくりというか。

でも、このプロジェクトを企画した人たちの志は、まさに、この部分にあるのだろう。

いつの日か、満席の客席から、絶妙のタイミングで拍手とブラボーが飛ぶ日が来る。それが文化が街に根付く、ということなのだ。

ぼくも、その日を思い描いて、このプロジェクトの応援を続けよう。一市民として。

ブラービ、横浜オペラ未来プロジェクト!
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中野幹隆の死:その後

哲学書房社主の中野さんのことをmixiに書いたら、メンタルスタッフさん、安斎利洋さんから、下記のようなありがたいコメントをもらった。

>こんな小林さんの話が、Mixiの中に埋もれてアクセスできなくなってしまうのも惜しいですよね。

>こういう時間をこえたテキストが、mixiといういわば共時的な場に刻まれるということが、まさに書物の終焉の景色なんでしょう。

このコメントを契機に、おなじアーティクルをこのブログにもアップしておいた。

そうしたら、『新潮』の編集長がコメントをくださって、同誌に中野さんの追悼文を書かないか、とのお誘い。

中野さんの生前の恩義にささやかながら報いたい、という思いもあって、喜んでお引き受けした。掲載号が今日(2007年4月7日)店頭に並ぶ。

題して、

中野幹隆の死

---またはグーテンベルク銀河系の黄昏---

このような形で、新しいメディアから従前のメディアへの細い糸を一本かけることができて、ちょっと感傷的になっている。生前の中野さんは、文芸誌もずいぶん丁寧に目を通しておられたし。

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小澤征爾のタンホイザー

  • タイトル:ワーグナー:歌劇「タンホイザー」
  • 開始日時:2007-03-24 15:00
  • 終了日時:2007-03-28 20:00
  • 場所:横須賀芸術劇場
  • 音楽監督/指 揮  小澤征爾

    演 出  ロバート・カーセン

    出 演  タンホイザー ステファン・グールド

    エリーザベト ムラーダ・フドレイ

    ヴェーヌス ミシェル・デ・ヤング

    ヴェルフラム ルーカス・ミーチェム

    領主ヘルマン アンドレア・シルベストレッリ

    ヴァルター ジェイ・ハンター・モリス

    ビーテロルフ マーク・シュネイブル

    ハインリッヒ 平尾憲嗣

    ラインマール 山下浩司

    ほか

    管弦楽  東京のオペラの森管弦楽団

    合 唱  東京のオペラの森合唱団

    装 置  ポール・スタインバーグ

    衣 装  コンスタンス・ホフマン

    照 明  ロバート・カーセン/ペーター・ヴァン・プラット

    振 付  フィリップ・ジュラウドゥ

さてと。小澤征爾の指揮を生で聴いたのはいったい何年ぶりだろう。そして、オペラは?

もう四半世紀ほども前に、ヴォツェックを聴いたのを覚えている。演奏会形式+アルファのやり方。ステージにオーケストラが乗っており、その上に足場を組んだりして、歌手はある程度の移動と演技を行う形式。たしか、あのときも暗譜だった。今回も。

演出は、第一幕こそ、ヴェーヌスがヌードで登場したと思ったら、バッカナールでは多くの男性がこれまたセミヌードで登場して、ボディーペインティングもどきをやらかしたりして、ぎょっとさせられたものの、第二幕以降はオーソドックスな現代風演出(語義矛盾だねえ)で安心。大団円など、いささか拍子抜けするような浄化場面で、演出のロバート・カーセンが世界的に人気を博するのも納得。

歌手も粒がそろっていて破綻がなかった。ヴェーヌス役のミシェル・デ・ヤングが第一幕で足を怪我し、第三幕では代役が演技を、本人が袖で歌唱を、といったアクシデントがあったが、それもご愛敬というか、事故があってのオペラの楽しみみたいなもので、本人にはかわいそうだったが、舞台と客席の間を埋めるポジティヴな働きをしていた。(客席の一部を利用した演出も好感が持てた)

しかし、何と言っても、このオペラはオザワのオペラなのだ。パリ版を用いて、序奏から延々と続くバッカナールに入って、まずはたっぷりオーケストラを楽しんだところで、やっと歌が聴けるというところもそうだし、第二幕の有名な歌手たちの入場場面もそうだし、なにしろ、オーケストラがめっぽううまい。4階席の一番前で聴いたこともあって、オーケストラの音の分解能がとっても高くって、個々のメンバーの名人芸がよく聞こえるの。オザワがオケ鳴らしのとびきりの名手だということも、あらためて思い知らされた。でも、これってオペラなのだろうか? いや、そんな疑問を持ってもいけないのだろう。オザワが完全に掌握したオーケストラと歌手陣と合唱が、一丸となって押し出す音の洪水に、抵抗することなく身を委ねて包み込まれる。そんな楽しみ方をすればいいのだ。

この劇場は、音響もいいし、ヨーロッパの歌劇場のように二階席以上がバルコニー作りになっていることも好感が持てる。しかし、ロビーのトイレと喫茶コーナーの動線の悪さや駐車場に降りるエレベーターが一基しかないことなど、客席の扉の外の作りは、いささか興を削がれる。音楽を聴くというのは、前後の食事やホールに向かう道すがらの会話なども含めた時間の流れがあってのことだと思うのだけれど。

そういえば、歌舞伎座だって、舞台がはねた後の余韻が、地下鉄に降りる階段のところで、ブッチリと断ち切られてしまうのは、もうすこし、何とかならないかなあ。暖かくて時間に余裕があれば、新橋までぶらぶら歩いて帰る、っていう手もあるけれどね。

小澤征爾は、夏にカルメンも振る。琵琶湖ホールに出向いて、オーベルジュに泊まって、なんてことも考えていたけれど、同じ日に弥勒忠史さんプロデュースのオペラ宅配便があるので、今年はパスに決定。神奈川県民ホールで聴こうかどうか迷い中。
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小倉朗とバルトーク

  • タイトル:第639回定期演奏会 Bシリーズ
  • 開始日時:2007-02-24 19:00
  • 終了日時:2007-02-24 21:00
  • 場所:サントリーホール
  •  指揮:高関健

    ピアノ:田部京子

    ピアノ:小川典子

    打楽器:安藤芳広

    打楽器:小林巨明

    児童合唱:TOKYO FM少年合唱団/世田谷ジュニア合唱団

    《別宮貞雄プロデュース 日本管弦楽の名曲とその源流4》

        * 間宮芳生:合唱のためのコンポジションNo.4 「子供の領分」

        * 小倉朗:管弦楽のための舞踊組曲

        * バルトーク:2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲

        * バルトーク:舞踊組曲

小倉朗は、ぼくにとってとても大切な人だ。学生時代に知遇を得、亡くなるまでのほぼ20年、音楽のみならず全人格的な生きざまの師として接した。彼の最後の著書『なぜモーツァルトを書かないか』を企画編集する機会にも恵まれた。その彼の曲が演奏されると苑子夫人からうかがって出かけた。

演奏全般について正直に告白すると、ああ、小倉朗も古典となったのだ、という感慨。決して悪い演奏ではない。いや、破綻もなくうまい演奏といっていいのだろう。しかし、その破綻のなさ、見通しの良さが、どこか素直な感動に入っていけない欲求不満を残す。今から振り返ってみると、バルトークも小倉朗も前世紀の作曲家で、それぞれの曲は同じ時期に書かれたと言ってもいいほど、時間が経っているのだ。過去の偉大な作曲家の作品に連なる古典曲として冷静緻密に演奏されるのが当たり前と言えば当たり前なのか。

中では、バルトークの2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲が、高い緊張感と密度を保持し続けていて、非常によかった。まあ、この曲の原曲は、打楽器奏者にとっては室内楽の古典中の古典ということになるのだが、協奏曲版はめったに演奏されることがないのではないだろうか。ぼくも、バルトーク自身が夫人とともに演奏したライブのレコードをずうっと以前に聞いた記憶があるだけ。ソナタ版に比しても、他のバルトークの協奏曲に比しても、うまいオーケストレーションとは言い難い。しかし、当夜の演奏は、そのことが逆に幸いして、ソリストたちの主体的な会話を指揮者とオーケストラがそっと支えるといった塩梅になっていた。

この曲を聴きながら、ぼくは、ずうっと以前に交わした小倉朗との短い会話を反芻していた。

学生時代、まだ小倉さんが藤沢市の大庭に住んでいたころ。大学の小倉ゼミ(ぼくが企画して、大学の正規の全学一般ゼミナールとして認められていた)の仲間が集まってホームパーティのようなことをやっていた。ぼくは、バルトークの2台ピアノと打楽器のソナタのミニチュアスコアを持っていって、ある個所のリズム構成について質問しようとした。

小倉さんは一言

「きみもペダンチックだねえ」

とだけ答えた。

この答えが、ぼくにはとてつもなく応えた。そして、人生の指針となった。

音楽にたどり着く道はアナリーゼだけではない。もっと大切なものが他にある。頭の中で音符を切り刻む前にもっとやるべきこと考えることがある。ことは音楽だけではない。書物にしても事象にしても、自分を埒外において批判的に見るのではなく、全人格をもって立ち向かえ。

四半世紀経って、ぼく自身の言葉で小倉朗の言葉を敷衍すると、おおむね上記のようなことになる。小倉朗は、ぼくの質問から、そのころの青臭いぼくの性向を見透かし、たった一言で生き方全体に対して大きな方向付けをしてくれたのだった。

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本の解体新書:実践編

さてと。

昨年暮れにわざわざインターネットでオランダのiRex社からiLiadを買ったわけですが、クリスマス直前に届いたのはよかったものの、12月26日にはディスプレー上部に一本の細い線が常駐するようになって。サポートフォーラムで調べてみると、この故障、結構多発しているみたいで。結局、年明け早々に一旦メーカー(サポートセンターはドイツ)に送り返して修理をしてもらうことになりました。

一月足らずで戻ってきたのはちょっとありがたかったわけで、昨今はこのiRiadを常用して読書三昧の生活なわけです。

ここいらで、iLiadを中心としたぼくの読書環境整備状況を報告しておきたく。

iLiadについて簡単に説明しておくと。フィリップスからスピンオフした会社iRex Technologiesが製造販売している。電子書籍リーダー。コアテクノロジーは、元々MITで開発され、現在はeINK社が開発を続けている電子ペーパーの技術。ディスプラーの製造は、日本の凸版印刷が行っている。それに、ワコムのデジタイザー技術が組み込まれている。

基本的なコンセプトは、Sonyが北米で発売しているSony Readerとほぼ同じだが、決定的な差は、そのディスプレーの大きさ。Sony Readerが6インチなのに対して、iLiadは8インチ。この差が、価格差にもぼくの物欲にも大きな影響を持っている。

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