2013年3月末をもって、永年続いたATOK監修委員会が最終的に解散した。
昨日(2013年4月26日)、ジャストシステムでATOKの開発に携わっている喜多さんや下岡さんと、ATOK監修委員の一員として永らくお世話になった鳥飼浩二さんを稲毛に訪ねた。話は尽きることがなかった。
じつのところ、この2年ほどは、ほとんど実質的な活動は行われていなかったこともあり、また、ATOKのみならずいわゆる仮名漢字変換システムを取り巻く環境も随分変わってきているので、まあ、潮時と言えば潮時なのだろう。
しかし、それにしても。
一抹の寂しさと漠とした不安を拭い去ることが出来ない。これでいいのだろうか、と。
今、メールをチェックしてみたら、もう4年も前になる。2009年に、最初期のATOK監修委員会委員だった矢澤眞人さんに頼まれて、筑波大学で一回限りの臨時講義をしたことがある。題して、「Google日本語変換はボルヘスの夢を見るか」。
その時に配布したレジュメは、以下のようなものだった。
《Google日本語入力は、ボルヘスの夢を見るか》
- ユニコード、ATOK、どらえもんの三題噺、自己紹介に代えて
- Google日本語変換を見てもらう(みぞうゆう、かくそくない、ことせん)
- コーパスによる仮名漢字変換辞書の自動編纂
- じつは、MS-IMEもATOKもこのようなアプローチは利用している。
- 問題は、自動編纂に用いるコーパスの質 Google日本語変換は、現在のインターネットにおける日本語使用の鏡(鑑ではない)
- 言葉が日々移ろいゆくものであるとすると、Google日本語変換の何が悪い、という強弁も成り立つ
- しかし、Google日本語変換を日本語を初めて学ぶ留学生に使わせたいと思うか
- どうも、どこかに、《ありうべき日本語》という幻の中心がありそうな気がする
- ATOKの歴史は、まぼろしの中心としての規範性とGoogle的な記述性との間で、 悩み揺れ動いてきた試行錯誤の歴史と言ってもいい。
- 小学校用学年別ATOK辞書の企画→生活語彙と学習語彙、語彙空間という概念
- 紀田順一郎さんと井上やすしさんの批評→仮名漢字変換辞書の匿名性と規範性のなさ
- ATOK監修委員会の発足→権威は入れるな、矢澤さんは森六経由で北原保雄先生が紹介
- たった一人のユーザーとしての紀田順一郎(自分の子供のためにだけ作った学幼)
- 日本語の多様性への対応(一人一人のATOK)→方言対応 荻野綱男さんの紹介で各地域の大学を訪問→グルメツアー
- 文部省文法とそれに基づくATOKのアルゴリズムでは、大阪方言に対応できない
- 真田信治さんのネオ方言と文化政策の民活(ベッカムの記事)
- 携帯電話やツイッターの日本語
- Google日本語変換は、未来のATOK?
- 突き破られるための日本語変換辞書を目指して(ヴィットゲンシュタイン的な意味での言葉と世界との隙間、裂け目への挑戦。語ることの出来ないことを語るための不可能への挑戦)
チェジュド(済州島)にチュウォルのビョンシン(知恵遅れ)の息子いてた。イルチェシデ(日帝時代)終わってすぐチュウォル済州島帰った。そやけどチェス (運)ないことに選挙反対や、選挙反対ゆもんペルゲンイ(アカ)やゆて、チェジュッサラム(済州島の人)とユッチサラム(本土の人)殺しあいしたゆ話お前も知ってるやろ。そのどさくさに出来たピョンシンの息子コモニム(姑母様)に預けてチュウォル日本に逃げてきたやげ。 在日朝鮮人二世作家、元秀一(ウォンスイル)の書いた小説『猪飼野物語』(草風館、一九八七年)の中で、大阪猪飼野(生田区)に住む在日一世のおばあさんがしゃべる、朝鮮語(済州島方言)と日本語(大阪方言)の入り混じった「イカイノ語」とでもいうべきクレオール言語の例である。(猪飼野は、在日朝鮮人 が密集して住んでいる”朝鮮人部落”としてかつて有名だった。クレオールとは、二つ以上の言語が混じりあって出来上がった混合語。ビジン・イングリッシュ などのピジンが母語化すればクレオール語となる)。 こうした「日本語」は、これまで片言であり、“間違った”日本語として排斥や忌避の対象とはなっても、まともに言語学的な対象や、文学的な言語表現語として鑑賞の対象として取り上げられることは皆無といってよいほどなかった。琉球語、アイヌ語による言語表現が、「日本文学」として鑑賞や研究の対象として考えられてこなかったのと同じように(あるいはそれ以上に)、それは言語表現とも、言語とも認知されてこなかったというべきなのである。だが、日本語が「国際化」するということは、こうした「ヘルンさん語」(小泉八雲のことばを妻の節子が保存したもの。引用者注)「イカイノ語」が生まれてくるのが必然であり当然な社会になるということであって、「かわいい日本語に旅をさせよ」というのは、まさにこうした「日本語」を、日本語の「生きた力」としてとらえる ことが出来るかどうかにかかっているといえるのである。(河村湊著『海を越えた日本語』269ページ)
このレジュメを敷衍していくと、とんでもない文章量になってしまう。ただ、このころ、Google日本語変換が出始めたころのぼくの問題意識は、今となっても全くと言っていいほど変化していない。
18番目のヴィットゲンシュタインへの言及など、その後の、ぼく自身の言語ゲームへの関心を予感させるものすらある。
何はともあれ、このころから今に至るまでのぼくの関心の一つが、仮名漢字変換システムの規範性と記述性との間の相克にあることは、間違いのないところだ。
そう。ぼく自身が、日本語表現の規範性と記述性の狭間で、ある種の引き裂かれたような感覚を抱いているのだ。
その表れが、レジュメの最後の河村湊さんの著書からの、長い引用なのだ。思えば、この個所を、ぼくは何度引用したことだろうか。ぼくにとって、この個所は、日本語というもの、いな、言語というものを考えるときの、ほとんど原点とでもいうようなものなのだ。
この一見訳の分からない言葉(猪飼野語)を乱れた日本語だとか、間違った日本語だとか言い立てることは何人にも許されないことだと思う。それどころか、ぼくは、河村湊さんがここに引用した在日一世の言葉を、美しいとすら感じる。
他方で。
ぼくの中には、漠としたものではあるが、有り得べき日本語の姿があるように思えるのだ。そんな話を矢澤さんの車の中でした。
「矢澤さんにとって、有り得べき日本語とはどのようなものなのだろう」
矢澤さんの答えは、じつに当を得ていた。
「30年後に自分の子供たちが大人になったとき、恥ずかしい思いをしないような日本語。それを子供たちに伝えたいと思うのですよ」
結構、やられた感があった。そして、その思いは、今に至るまで変わらない。
ぼくには、すでに4人の孫がいる。
その孫たちが大人になったとき、彼らを取り巻く、日本語の環境、特に、ネットワークやデジタル機器を媒介とした日本語の環境は、どのようなものになっているだろう。
30年後の日本語の環境のために、今、ぼくに出来ることが、まだあるのではないか。
ATOK監修委員会の終焉を目の当たりにして、ぼくが漠として感じている欠落感は、煎じ詰めると、そのようなものではないか、と思えるのだ。