デジタルと文化の間で

デジタルと文化の間で

《愚者の後知恵》大学時代、机を並べていた辻篤子さんとの共同作業。このころ、アエラに載ったあまりに勉強不足なピントはずれのユニコード批判について辻さんに文句を言ったら、じゃあ、自分で書いてみたら、というありがたい申し出をもらった。この時点で、このようなコンパクトな形で自分の考えをまとめることが出来て、とても良かったと思っている。
1997年2月~3月
朝日新聞夕刊

《研究所設立》

(1997/02/05掲載)

社内にデジタル文化研究所という小さな組織がある。設立のきっかけとなったのは、一九九三年秋の「メディアとしてのコンピューター」というシンポジウムだった。赤いパッケージの「一太郎」という単なるワードプロセッサーの会社から一歩踏み出そうという意図から企画した。
パネリストとして出席した社会学者、水越伸氏は、「メディアの社会的構成主義」、すなわち、メディアが成立するためには、単に技術的な要件を満たすだけではだめで、さまざまな社会的な要件がメディアを成立させていくという貴重な視点を与えてくれた。
ラジオは当初、発信と受信の機能を備えており、現在のアマチュア無線のように個人対個人の通信に多く使われていたという。ところが、あるとき、毎日一定の時刻に音楽などを発信するマニアが現れ、同時に、それを聞くだけの聴衆が誕生した。この聴衆を当て込んで、受信機能のみを備えたラジオが生産されるようになったというのだ。
パーソナルコンピューターにしても、ネットワークにしても、今僕たちが思いもしない使い方を、ある日誰かが思いつくかもしれない。そのような可能性に開かれた視野を忘れずに、これらのテクノロジーの未来を探っていきたいと思っている。
《ATOK見直し》

(1996/02/07掲載)

ワードプロセッサーを始めとするデジタル機器で日本語を扱おうとすると、当社で開発しているATOKなどの、いわゆる仮名漢字変換システムが必要になる。このシステムをつきつめていくと、技術だけでは解決のつかない、言葉や文化にかかわる問題が多々出てくる。
このことに最初に気づかせてくれたのは、紀田順一郎氏のエッセーだった。
文芸批評家としては最も初期からのパソコンユーザーだった氏は、仮名漢字変換用辞書の問題点を鋭く指摘しておられた。氏の不満は、いったい誰がどのような基準で辞書を作っているのかが明確でない、という言葉に集約されていた。
たしかに、ATOKも、担当のエンジニアが見よう見まねで経験的に積み重ねてきたために、少し丁寧に見ると、手紙などに対で使われることが多い「冠省」があって「不一」がないだとか、「独壇場」はあるがその本来の形である「独擅場」がないといった不整合が、随所に見られた。
このエッセーが契機となり、一九九二年、氏を座長に気鋭の日本語学者の参画を得て、ATOK監修委員会が生まれた。この委員会では、それまでのATOK辞書が、語彙の選択から表記の方法に至るまで、徹底的に検討されることになった。
《紀田フレイバー》

(1997/02/12掲載)

紀田順一郎氏を始めとする文科系の視点が入ることによって、ATOKの辞書は編成方法から内容に至るまで劇的な変貌を遂げた。
紀田氏は、大百科事典一式分の項目リストを電車の中でもトイレの中でも携行され、収録すべき語彙と削るべき語彙の弁別をしてくださった。日本語学者のグループは、慣用化して社会的に受容されている表記と誤表記との区別などについて、白熱した議論の上で明確な指針を出してくれた。
なかでも、委員たちが特に愛着を持って議論したのは、ある一群の語彙だった。従来は、企業などで事務的な用途に使われる機会が多かったために、実用的で使用頻度の高い語彙に偏る傾向がみられた。
しかし、それだけでは文章の風情や風格を表現するのは難しい。だれが言い出すともなく、ある一群の語彙を「紀田フレイバー」と呼ぶようになった。
思い出すままに並べると、「刮目」「幸甚」「斧正」「端倪」などやや古風で文章語的な語彙なのだが、こうした言葉が入るだけで文章全体に風格が表れたり締まったりする。
語彙の選択は最終的には紀田氏に一任され、氏は、ことのほかこの作業を楽しんでくださったようだ。  こうして、紀田フレイバーは、ATOKの個性の一部となった。
《民間主導の規格》

(1997/02/14掲載)

コンピューターで日本語の文字を扱うとき、日本では通常、JIS X〇二〇八と呼ばれる規格を使う。いわゆるJISの第一水準、第二水準などと呼ばれているものだ。
この他にも、コンピューターやネットワークで情報のやりとりを行うために、さまざまな約束事=標準規格が存在している。
これらの規格は、水や空気のように、ふだんはまずその存在を意識することはないだろうが、実は、さまざまな立場の人たちが、少しでも完全で矛盾が少ないものをめざしてきた歴史的な努力のたまものだ。
標準規格を作る作業は従来、国家機関(日本では通産省工業技術院)が主導し、学者や業界代表者の献身的な協力によって進められてきた。国際的には、それぞれの国の代表が国際標準化機構(ISO)のもとで作業をする。
ところが、近年、技術の急速な進歩に、従来の標準化の作業がついていけない事態が、たびたび起こるようになってきた。
例えば、ユニコードと呼ばれる、世界中のあらゆる文字に統一的なコード付けをして、コンピューターで扱えるようにしようという壮大な試みもそうだ。民間の団体によってどんどん作業が進み、それが結果的にISOにも影響を及ぼすようになっている。
《草の根の約束》

(1997/02/17掲載)

従来は、国際標準化機構(ISO)を中心に、国と国との話し合いによって決まってきた標準規格だが、近年は、文字コードの統一プロジェクト「ユニコード」のように、民間ベースで決まり、運用されていくケースが増えている。
いわゆるデファクトスタンダードと呼ばれるもので、音楽用CDなども、当初は民間ベースで規格化が進み、後に正式にISOで規格制定がなされた。
このような動きが特に活発なのが、インターネットを中心とするネットワークの世界だ。インターネットは、ボランティアによって運営されているため、誰もが自由に提案ができ、それが受け入れられれば、煩雑な手続きなしで事実上の標準として機能する仕組みになっている。いわば、草の根ベースの約束社会だ。
インターネットで普及しているホームページを表現するためのHTMLという規格も、欧州合同原子核研究機関(CERN)で作られ、世界中に普及した。
一見、約束事の固まりで冷たく見える標準規格も、その背後にはさまざまな努力や競争、場合によっては駆け引きが存在する。
このようなある種人間くさい規格の世界を、いつか水越伸さんにならって「規格の社会構成論」とでも名付けて、論じてみたいと夢想している。
《理想めざして》

(1997/02/19掲載)

インターネットの普及とともに、ユニコードの話題が取り上げられることが多くなってきた。コンピューターで文字を表現するためには、それぞれの文字に番号を付けて区別する必要がある。それを文字コードというが、ユニコードもその一つだ。
国内にも、JISコードと呼ばれるものがあり、専用ワープロやパソコンで一般的に使われている。また、アメリカにはアメリカの、中国には中国の、ギリシアにはギリシアのそれぞれの文字コードがある。
コンピューターが、ある国の中だけで使われている間はよかったのだが、インターネットを始めとするネットワークの発達とともに、ある国で作られた文章を他の国で読む、といった需要が増えてきた。
ユニコードは、世界中に存在するすべての文字を同一の環境上で差別なく取り扱うという理想を実現するために、アメリカの西海岸に基盤をおく民間企業を中心に組織されたユニコードコンソーシアムが、規格化を行っている。
ジャストシステムは、このコンソーシアムに日本から唯一の企業として参加しており、僕はこの組織の役員も務めている。
このユニコードを少しでも理想に近づけるために、積極的な発言を続ける必要性を感じている。
《参加決めた一言》

(1997/02/21掲載)

国際的な文字コードを定めるユニコードにかかわるようになったのは、これを推進する民間団体、ユニコードコンソーシアムのアスムス・フライタークの来訪がきっかけだった。ユニコードの問題点を認識していた僕は、初めからけんか腰で対した。
しかし、議論を重ね、さて結論を出さねば、という段になって、彼の一言が決定的な影響を与えた。
「ユニコードを批判するなら、中に入って、意見をいえばいい」 結果的に、ジャストシステムは、日本から唯一の投票権を持つメンバーとしてコンソーシアムに参加、僕は、日本からたった一人の技術委員会の委員及び取締役会の役員となった。
コンソーシアムは、IBM、マイクロソフト、アップル、といった会社を中心に、アジアからはほかに、韓国のハングル・グァ・コンピューター、台湾のダイナラブが投票権のないメンバーとして参加している。
漢字を扱う技術委員会のメンバーは皆、漢字への深い関心と知識を持っているが、文化の深い部分への理解にはどこか欠けるところが感じられる。
最近になって、彼らも、漢字に関わる問題は、何かと僕の意見を聞いてくれるようになった。積極的に意見を反映させていくのは、これからが勝負だ。
《漢字を統合》

(1997/02/24掲載)

ユニコードで最も批判の多い点の一つが、日本、中国、韓国などの漢字で、形の似たようなものを一つにまとめてしまった、いわゆるCJKユニファイ(統合)と呼ばれるものである。
従来の国際規格が、日本、中国、韓国など漢字圏のコードを、それぞれの国内規格を踏襲する形で、別々の領域を取ってコード化していたのに対して、ユニコードは、漢字全体を一つのまとまったコード領域で扱おうとした。
その際、すべての文字を十六ビットすなわち約六十五万通りの組み合わせの範囲で表現することにこだわったために、「*」(一点シンニョウ)と「*」(二点シンニョウ)とか、「*」(下が月の青)と「*」(下が円の青)のような似たような文字には、一つのコードを割り振った。  これが、CJKユニファイで、日本、中国、韓国、台湾などからの有志が作業を担当、ユニコードからも代表者が参加した。
しかし、利害が複雑に絡み合い、それぞれの国や地域の既存の規格に含まれる文字をすべて採用したことで、本来ユニファイすべき文字に別のコードが割り振られるなどの矛盾点が残された。手続き上の混乱なども加わり、感情的なしこりを残したことも事実だ。
それでも、国境を越えて文字を統合しようとするユニコードの姿勢には、共感を覚えている。
《漢字国の対立》

(1997/02/26掲載)

ユニコードに相当するISOの規格は、国際符号化文字集合(UCS)と呼ばれ、漢字の部分は四つのカラムに分かれている。日本、韓国、中国、台湾の主張がぶつかり合い、それぞれの国で使われている形をそのまま併記することになったためである。
例えば、日本のカラムに「骨」、中国のカラムには「*」と、明らかに異なった形が使われている。日本から「骨が折れる」と電子メールを送ると、中国では「*が折れる」となる。
日本では日本の文字が、中国では中国の文字が出てくるのだから読みやすくてよい、という見方もあるが、「中国では、骨を*と書く」といった、複数の言語にまたがる記述をしようとすると、決定的に矛盾を露呈する。
コンピューターの世界でも、それぞれの国や地域の言葉を正確に表現することは、相互の文化理解の基本中の基本だと思う。そのためには、ユニコードの技術委員会やISOの国際会議の場で、まだまだ改善を主張していく必要がある。
「骨」のような例も、僕はそれぞれを区別する符号をユニコードに提案しているが、大勢は文字コードではなく、HTMLやJAVAなどのよりアプリケーションに近いレベルで言語や地域を指定して区別する方法に傾きつつあるようだ。
《65000の壁》

(1997/02/28掲載)

現在、ユニコードでは、二万種類以上の漢字にコードが割り振られている。パソコンやワープロで一般に使われる約六千四百文字を始めとして、日本のJISで規格化されている漢字約一万二千字は、すべて含まれている。
一方、漢字を語る際に必ず言及される中国の康煕字典や日本の大漢和辞典には、約五万字の漢字が含まれている。それからすれば、ユニコードにはまだまだ文字数が足りない。
ユニコードは十六ビットのコードなので、二の十六乗、約六万五千種類の文字を表現できるが、漢字以外のさまざまな文字や記号もあるので、確かにこれだけでは康煕字典や大漢和辞典の漢字すべてを表現することは不可能だ。しばしば耳にするユニコードに対する批判の一つは、この点に関するものだ。
しかし、現在では、六万五千の制限を越えるための仕組みを工夫し、どのような文字を入れていくかに、議論が移ってきている。
一方、大辞典と常用の小辞典があるように、特に国際的なコミュニケーションに必要な最小限の漢字に絞った文字セットが必要との認識も広まりつつある。
東京学芸大の松岡榮志氏がそれを提唱しておられ、三月にドイツで開かれるユニコード会議で共同発表すべく準備を進めている。
《異体字の悩み》

(1997/03/03掲載)

日本で特に話題になる問題の一つに、人名や地名に登場する異体字がある。例えば、ヤマザキさんの場合、山崎、山碕、山埼、山嵜など多くのサキが存在する。中国にも従来からある場合もあるが、JISやユニコードに取り上げられていない日本の国内だけで用いられる文字も多い。
このような意味が同じで形が違う漢字を一つのグループとみなし、代表字とその異体字と考えると、実用的に必要な文字の数は、案外少なくてすむ。松岡榮志氏の調査によると、概ね五千字ほどで、これで日常的には十分だ。
残りの漢字は、歴史的な文献、文学作品などに登場する文字と、人名、地名とに大別して考えることができる。ともに必要ではあるが、ネットワークで海外とやりとりする際や、軽便な電子手帳にまで、こうしたすべての文字を要求するのは、現実的な解決策とはいえないように思う。
現在の僕自身は、歴史上と現在とを問わず、印刷物に表れたあらゆる漢字にコードを振り、そのグループ化を明確な形で行った上で、目的に応じて代表字ですます場合と、細かい字形にこだわる場合とを分けて運用すべきだとの考えに傾いている。ソフトウエアの発展は、このような要求に十分応えられるところまで来ている。
《ルビの効用》

(1997/03/05掲載)

一九九六年三月、アジアで初めてのユニコード会議が香港で開かれた。僕も日本からのスピーチのアレンジを手伝い、基調講演は紀田順一郎氏に引き受けていただいた。主題は「ルビの効用」。
ふりがなを意味する「ルビ」は、イギリスの職人たちが活字の大きさを表す符丁として、ルビー、サファイアなどの宝石名を使ってきたことに由来する。
日本では古来、多くの漢語を取り込む過程で、ルビが巧みに用いられてきた。先考と書いて、右側に漢語としての読み「せんこう」を振り、左側に大和言葉の意味「ナキチチ」を振った例がある。欣然(きんぜん、ヨロコブカタチ)、首級(しゅきゅう、クビ)なども同様だ。
明治以降、欧米の文学を輸入した際も、ルビは活用された。ルビのおかげで、日本の外国文化の導入はずいぶん促進されたのではないか。紀田氏の話はおおむねこのようなものだった。
シンガポールの女性からは、ルビを中国語と英語の相互教育に使えないかという質問も出るなど、反響は大きく、ルビは一種のキーワードとなった。
日本固有の文化だと思っていたルビが活発な議論を巻き起こしたことは、日本が国際的な場で問題提起をしていく際のこのうえない示唆を与えてくれた。
《家族メール》

(1997/03/07掲載)

ユニコードにかかわるようになって、海外出張、特にアメリカへの出張が多くなった。ただでさえ、本社のある徳島と自宅のある横浜とを毎週のように往復しているため、家族とのコミュニケーションには人一倍気を配っているが、海外出張となると、電話代もばかにならない。一計を案じて、家族にもアドレスを持たせ、電子メールでやりとりするようにした。
電子メールは、ホテルなどから市内通話でアクセスできるうえ、時差を気にすることもない。日常のささいな出来事やおみやげの催促などたわいのない内容でも不思議な温かみが感じられ、ひととき旅や仕事の疲れを忘れさせてくれる。
電子メールを始めとして、インターネットを媒介としたコミュニケーションは、もちろん仕事の上でも欠かせないものになっているが、どこか個人的なにおいがあるのがおもしろいところだ。
ユニコード仲間とのメールにしても、文面はたとえぶっきらぼうでも、単に事務的ではない、個人対個人の触れ合いが感じられる。ネットワークを介した新しい人間関係が始まっているのかもしれない。
僕たち家族は、ネットワーク熱がこうじて、ついにアメリカにホームページを持つに至った。アドレスはhttp://www.kobysh.com。
《フラクタル》

(1997/03/12掲載)

もう十年以上も前、友人でCG作家の安斎利洋氏とたくらんで、「マンデルネット86」というプロジェクトをでっちあげた。金も組織の後ろ盾もなく、時代の先端を走っているという奇妙な高揚感だけが頼りだった。
IBMのベノア・マンデルブローがフラクタルという新しい数学の概念を発表して、マンデルブロー集合に代表されるフラクタル図形を当時のミニコンを用いてCGで表現することが、一部のフリークの間で世界的ブームとなった。
非常に単純な計算式から、思いもかけぬ複雑な図形が出現することに、多くの人々が数の神秘性とでもいうべきものを感じ取ったのだと思う。研究用のコンピューターを夜中にぶん回して作った画像が、ネットワークに乗って、世界中を駆け回った。
僕たちの試みは、非力な八ビットのパソコンを使って、人的な分散処理で世界一巨大で解像度の高いマンデルブロー集合を描こう、というものだった。それは畳三畳分の作品として結実した。
僕たちの仕事は、コンピューターの能力の進展とともに、あっという間に過去のものとなったが、一時、世界の先頭にいた、という満足感は、今でも僕たちをどこかで支えているように思う。
《開かれた新世界》

(1997/03/14掲載)

代表的なフラクタル図形であるマンデルブロー集合は、単純なプログラムを繰り返すことにより簡単に描くことが出来る。
それにしても、なぜ、この図形が、僕たちを含めて、世界中のフリークたちを夢中にさせたのだろう。
理由はいくつか考えられるが、だれもが手元のコンピューターで簡単に最先端の科学に触れられることが大きな理由の一つであることは、疑い得ない。
本質的には、ほんの十行足らずのプログラムを、何千回、何万回と繰り返すことで、本当に予測が不可能な複雑きわまる世界が現れる。
ニュートンやデカルトが古典力学と微分積分の概念を確立して以来、科学技術は、ある時点の現象が分かれば、途中を省略しても、その後の動きを完全に予測できる、
いわゆる微分可能な世界を対象に発展してきた。
例えば、太陽系の惑星の動きは何万年後でも正確に予測できるし、アポロ宇宙船は、正確に月のある一点をめざして飛行していく、というわけだ。このような原理が、産業の発展も支えてきた。
しかし、手元の小さなコンピューターが描き出す世界は、ニュートン、デカルト的な世界観からは、説明が不可能な、全く新しい未知の世界だったのだ。
《パソコンの力》

(1997/03/17掲載)

パソコンを使えば、ニュートン、デカルト以来の世界観からはこぼれ落ちる、フラクタルやカオス、複雑系などの実例を、いとも簡単に視覚化できる。これらの分野にとって、手元で自由になるパソコンの出現は、本質的に不可欠だ。
実際、人工生命の生みの親であるクリストファー・ラングトンはアップルⅡ、「ティエラ」を開発したトマス・レイは東芝ラップトップと、時に驚くほどプアーなパソコンの環境で、だれもが到達したことのない最先端の成果を上げている例には事欠かない。
安斎利洋さんたちと企てた「マンデルネット86」も、このような個人が所有するコンピューターでの営為として振り返ってみると、時代の大きな流れのひとこまにぴったり組み込まれているように思われる。
そして今、独立して機能する無数のコンピューターがネットワークでつながれ、協調して動く時代がやってこようとしている。個々のコンピューターを繰っているのも、組織というよりも多くの個人だ。このような個人=パソコンのネットワークが、ニュートン、デカルトとは異なる、どんな世界観を作っていくか、実験は始まったばかりだ。
僕の小さなホームページも、その大きなネットワークの片隅に、確実に存在している。
《聖書の電子化》

(1997/03/19掲載)

六年前、「ハイパーバイブル」と称して聖書のハイパーテキスト化を試みた。
ハイパーテキストは、ワールドワイドウエッブでおなじみの、参照個所に次々にジャンプしていける電子テキスト。聖書、特に共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカの各福音書が、マルコを中心として、非常に多くの共通の個所(平行個所)を持つことから、ハイパーテキスト化に最適の素材と気づいたのだ。
元のテキストは、カトリックと新教双方の聖書学者の手になる「新共同訳」を用いた。幸いなことに、篤志家のグループがこつこつ電子化したものが、イエールというコンピューターに詳しい神父によって一つにまとめられていた。
このテキストに、書籍版に書き込まれた参照個所をハイパーテキストリンクとして埋め込んでいくという比較的単純な作業でハイパーバイブルは完成した。
その効果は目を見張るものがあった。福音書の平行個所を次々切り替えながら簡単に参照できるために、共通点や相違点の把握が容易になり、イエスの教えを立体的に理解できるような気がした。
この仕事を通して、学生時代の師である荒井献先生と再会し、コンピューターを用いた聖書研究の可能性を認めていただいたのは、望外の喜びだった。
《章節とアドレス》

(1997/03/21掲載)

聖書ほどハイパーテキスト化に適している書物は、ほかににわかには思い浮かばない。旧約聖書、新約聖書としてまとめられた聖典群の語句と思想を、哲学、文学、自然科学、政治と、あらゆる分野の人々が引用している。
その引用を支えている特徴の一つに、各国で刊行されている聖書の章と節が、カトリックとプロテスタントの別なく共通している点が挙げられる。このような章節分けは、グーテンベルクの活版印刷から約百年後に確立された。起源は写本や朗読の便宜のための段落分けで、死海文書のころにまでさかのぼるという。
いずれにせよ、この章節のマークが一意的に定められているために、電子化されてページの概念を失った後も、特定の個所を明確に指し示すことができる。
一部の古典的著作物では、定評のある全集版のページ数やパラグラフ番号を指定する習慣があるが、聖書ほど普遍的な例はない。
この章節が、コンピューターのプログラムやデータベースにおけるアドレスの概念とぴったり重なることを、カンタベリーの大主教ステファン・ランクトン(旧約の章節分けの創始者)、パリの印刷業者ロベール・エティエンヌ(新約での創始者)らが知ったら、と想像するだけでなんだか楽しくなる。
《新しい著作権》

(1997/03/24掲載)

グーテンベルクの活版印刷の発明は、テキストの大量複製を可能にし、写本につきものの誤謬も激減させた。だれもが正しいテキストを平等に読めるようになり、宗教改革や科学革命を契機とする西欧近代の成立に大きく寄与したことは、言を待たない。
同時に、自分が書いたテキストの同一性を守る権利や、産業としての複製の権利を保護する形で、著作権の成立をも促した。
だが、デジタル時代に至って、どうも様子がおかしくなってきた。そもそも、著作権をはじめとする知的財産権と、等価交換をベースとした現代の貨幣経済の理論は、それほど折り合いがよくはない。
そこへきて、大量かつ安価に電子的複製が作れ、痕跡を残さず改変も自由に行えるようになった。オリジナルを守るハードウエア的障壁はもはや存在しない。
議論はにぎやかだが、僕は、等価交換とは別個の、情報の送り手と受け手をつなぐ、新しい価値観を考える時期に来ていると考えている。例えば、シェアウエアと呼ばれる一連のソフトウエアの流通の仕方などには、新しい道へのヒントが含まれているように思う。
過去に拘泥することもない。焦ることもない。なにしろ僕たちは、五百年に一度の大きな変革に立ち会っているのだから。
《新たな時代へ》

(1997/03/26掲載)

第十回ユニコード会議はドイツのマインツで行われた。僕も東京学芸大の松岡榮志氏と異体字の関連づけを前提とした漢字の入力方法について発表した。会議が終わった晩も、各国の仲間とユニコードとインターネットを巡って語り合い、話題は尽きなかった。
翌日、僕は、グーテンベルク博物館をのぞいてみた。活版印刷技術は、マインツから始まったのだった。四十二行聖書があった。そして、多くのインキュナブラ(十五世紀以前に印刷された揺らん期本)も。  時代の要請もあり、多くの印刷業者が誕生した。おそらく彼らは時に互いの技術を盗み、時に協力して、技術を磨いていったことだろう。展示されたインキュナブラの背後から、時代を担った人々の情熱が伝わってくるような気がした。僕は世界中に散っていった仲間のことを思った。
そう、僕たちはデジタル文化のインキュナブラ(揺らん期)にいる。共にやるべきことは多い。時代は始まったばかりなのだから。

(おわり)

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UCS(ISO10646)とUnicodeの現状

UCS(ISO10646)とUnicodeの現状

《愚者の後知恵》今は解散した電子ライブラリーコンソーシアムの機関誌のために連載していた「電子化文書規格シリーズ」の第1 回。
1996年11月
ELICON「電子化文書規格シリーズ」

独立した全文データベースであれ,ネットワークを経由してアクセスするデータベースであれ,電子化されたテキストの問題を考えるとき,テキストを電子化する際用いられる文字コードを避けて通ることはできない.中でも,我々が電子ライブラリーという言葉で漠然と考えている学術文書や各国各分野の古典的な文書のアーカイブを対象とすると,文字コードの問題は,さらなる広がりを見せてくる.
今号から文字コードを中心に,電子ライブラリーの関係者を対象として,電子化文書の規格に係わる様々なトピックについての解説を試みる.対象読者の限定は難しいけれど,電子化テキストについての全くの素人ではないが情報規格の専門家でもないというレベルを想定する.すなわち,日ごろからコンピューターを通して様々な形で電子化文書に触れているが,その内部で用いられている規格については,名称程度は知っていても内容については知識を持たない,という人たちを想定する.実のところ,筆者も今後折に触れて明らかにしていくが,不可抗力で情報規格の策定にささやかに係わるようになるまでは,そのような人たちの一人だった.そんなわけで,情報規格の本当の専門家がこの解説記事をお読みになり,誤謬を発見されたら是非ご指摘願いたい.また,精確な議論が,時に煩瑣にすぎて理解を妨げると判断した場合は,あえていい加減な議論をする場合もあるかと思われる.これに関しても読者のご寛恕を前もってお願いしておく.

さて,最初は日本人の一部に極度に評判の悪いユニコード.ユニコード,ISO10646, JIS X0221,Universal Multiple-Octet Coded Character Set,国際符号化文字集合,この言葉のどれかをお聞きになったことはあるだろうか.これらの文字列(ほとんど暗号のような記号も含めて)は,実質的にある一つの文字コードの体系を表している.しかし,そのコード体系の成立の経緯を反映して,微妙にその位置づけが異なっている.いずれにせよ,これらの文字列が指し示しているのは,世界中の言語に用いられている文字を統一的なコード(符号)で表そうとする文字コードの体系なのである.
回りくどい書き方になってしまった.身近なところから整理していくこととしよう.
現在,我々日本人は,漢字を含む通常の日本語の文書を電子的に記述するために,JIS(日本工業規格)として3つの文字コードの集合を持っている.すなわち,X0208,X0212,X0221.このうちX0208が,いわゆるJISの第一水準,第二水準などと呼ばれ,通常のパーソナルコンピューターや専用ワープロなどに,組み込まれているもの.X0212は,いわゆる補助漢字と呼ばれているもので,X0208を補完するものとして,策定されたもの.そして,X0221が,「国際符号化文字集合(UCS)-第一部 体系及び基本多言語面」とよばれる規格で,これは,ISO/IEC 10646-1とよばれる国際規格に対応するものなのだ.
X0221は,1000ページを越える大部な規格で,定価も消費税込み25750円と決して安価とは言えないが,赤坂4丁目にある日本規格協会に行けば,だれでも手に入れることができる.
中身は一目瞭然,インターネットなどで日常目にする通常のラテン文字から,ギリシア文字,キリール,アルメニア,ヘブライ等々,凡人には地球上のどこでどのような人たちが用いているかも判然としない記号が,16ビットのコードとアルファベットによる一意的な名前を割り振られて整然と並んでいる.
中で特に目を引くのが,漢字の並んでいるいわゆるCJK統合漢字と呼ばれる部分である.1000ページのうち,実に,430ページ余りが,この統合漢字に割り振られている.総数,2万字強,16ビットのコードで表現できる文字の総数が,6万5千字強だということを考えると,その量に圧倒される.因みに,統合漢字の部分には,他の部分に見られるような,個々につけられたユニークな名前の欄は,存在しない.

CJK統合漢字には,JIS X0208,X0212は,すべて含まれている.さらに,中国,台湾,韓国の主要な文字コード規格の文字を含んでいる.
であるからして,ISO10646もしくはJIS X0221を用いれば,16ビットのコードで,日本語,中国語,韓国語(ハングル)を含め,ここに登録された文字を用いている(用いていた)人々の書き言葉をすべて表現できるはずなのである.
Unicodeとは,このような壮大な目途をもって,策定された希有な規格なのである.

ところで,上の文に,今までの文脈との整合性がないことに,気付かれましたか.
そう,ISO10646もしくはJIS X0221 について議論を進めてきていたのに,突如Unicodeが,出てきましたね.問題は,ここなのですよ.

ISO10646-1は,時にUnicodeと呼ばれる場合がある.そう呼ぶ人が誤解をしている場合,違いは理解していても便宜上,もしくは,無意識のうちにそう呼ぶ場合,ある意図を持って意識的にそう呼ぶ場合,人々の立場の違いによって,ニュアンスは微妙に異なってくる.
実のところ,ISO10646-1と,Unicodeとは,そのコード系の内実は全く同じものを指している.では,Unicodeとは何か.
Unicode Consortiumというアメリカに本拠をおくコンピュータ関連企業の連合体が策定した統一的な国際記号化文字集合,ということになる.あくまでも,いわゆるコンソーシアム方式で,私企業が集まって規格を策定し,デファクトスタンダードを目指そうとしたものなのだ.このUnicode策定の背景には,様々なコンピューター関連製品を英語圏以外の地域に売るための言語的処理の統一化,簡素化という非常に強い,産業的な要請があった.
委細はさておき,ISOの場で検討されていた国際符号化文字集合の議論に,私企業連合体であるUnicode Consortiumの場で議論されていた統合文字集号がマージされ,現在のISO10646-1とUnicodeが成立している.その経緯があって,UCSの策定に係わった人,その経緯を知っている人の中に,UnicodeおよびUnicode Consortiumに対する不満を抱く人は多い.冒頭に,「日本人の一部に極度に評判の悪いユニコード」と記したのは,そのような意味においてである.
批判や不満の背後に,このような政治的感情的な動機があるとはいえ,現状のUCS,Unicodに対する不満には,聞くに値する事実も含まれている.最後に,電子ライブラリーを構築する際に問題になるであろう,現状の問題点をいくつか指摘しておく.
一つ.CJK統合化の問題点.かなり強引に日本,中国,台湾,韓国の漢字を統合化したので,複数の国,地域の言語にまたがる記述をする場合に,無理が生じる.
例:「日本でと表記する漢字は,中国の簡体字では『*』と表記する.」現状のUCS,Unicodeでは,この日本語の『骨』と中国簡体字のの区別が付けられない.
一つ.JIS X0208とX0212の問題点をそのまま引きずっている.特に,日本で現在流通している人名,地名の異体字への対応が不十分.特に書誌的情報の記述に関しては,考慮が必要.理想としては,異体字も含めて検索の対象にでき,かつ,表記はきちんと使い分けられる.
例:斉藤で斉藤,斎藤,齋籐,齊籐のすべての姓を検索し,結果は,それぞれ別のものとして表示する.(これらの「さい」は,すべて,X0208から採ったが,現実には,X208にもX0212にも,すなわちX0221に,含まれない「さい」の字が多く存在する.)

このような問題がいくつか存在するとはいえ,現状で,国際的にある程度通用する多言語の全文データベースを考える際,UCS,Unicode以外の選択肢は現状としてはあり得ない.このような状態の中で,大切なことは,積極的に使いながら,建設的な批判,提言を行って,規格の改良,環境の整備を計っていくことであろう.

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母純子、死の顛末

母純子、死の顛末

《愚者の後知恵》私信の形を取るが、哲学書房刊行の『ビオス』に掲載することを前提として書かれた。共同作業者だった編集者/社主の中野幹隆さんの超多忙のゆえに、発表には至らなかった。
1996年3月
その中野幹隆さんも今は鬼籍に入ってしまった。
草稿

母純子、死の顛末 中野さま
お袋が逝きました。
一九九六年二月九日午後六時五十八分。享年七三歳。死因は、悪性リンパ種。二年三ヶ月の闘病生活の末のことでした。
私事で恐縮ですが、やはり種々の雑務に振り回されて、ビオスの原稿が進捗していません。かてて加えて、水越さんの文部省派遣によるアメリカでの在外研究が急に決まって、水越さんも大変な忙しさです。電子メールを活用したとしても、橋田さんも含めて幾度かのやりとりを繰り返して、次号の締め切りまでにビオスの原稿を準備することは、とうてい不可能なようです。ご容赦ください。

お袋の死に至る日々は、中野さんが多田富雄先生、養老孟司先生、中村桂子先生などと、対談・鼎談集『わたしという存在は何か』から『季刊ビオス』に至る一連の「いのち」に係わるお仕事を進めておられた時期と、偶然にも重なっています。中野さんから、このようなお仕事のお話をうかがう機会をたびたび持つことによって、僕は随分とお袋の生と死について考えることができました。
感謝を込めて、お袋の死に至る次第を報告させていただきます。

葬儀ミサの説教の中で、マーチン神父が、次のような話をしてくれました。マーチン神父は、最近、お母様を悪性リンパ種で亡くされ、そのこともあったのでしょう、本当に親身になって、幾度となく御聖体を持って病室を訪ねてくださっていました。
「あるとき、同僚の神父と電車に乗っていて、看板に書かれたある言葉が目に入りました。そこには、こう書かれていたのです。『生きていることは、素晴らしい。しかし、生きていることに限りがあることを知ることは、もっと素晴らしい。』この言葉は、なにか仏教に関係したものだったのです。しかし、私たちは、同時に顔を見合わせて、これは、小林純子さんのための言葉ですね、と語り合ったのです。」

一九九三年の晩秋に、体の不調を訴えて、検査のために入院したお袋でしたが、当初、病気の特定に手間取り、悪性リンパ種であると判明したのは、年が明けて一九九四年になってからのことでした。その時点で、この病気は完治する可能性がなく、抗ガン剤の投与でガン細胞を抑制することによって、病気の進行を遅らせる以外に治療方法がないこと、抗ガン剤の投与は、健康な細胞にもダメージを与え、特に高齢者の場合は、体力の衰えとのかねあいも考えなければならないことなどを、主治医の先生から説明されました。
僕たち家族が、お袋に悪性リンパ種の告知をする決心をするには、さして時間はかかりませんでした。その時点では、まだ病状は比較的軽く、治療がうまくいけば、病気と折り合いをつけながら、かなりの余命を期待できる可能性がありました。そのためには、本人の意欲と治療への積極的な協力が欠かせない、という判断がありました。また、家族全員がカトリックの信仰を持っているため、人が死ぬということに対して、比較的冷静に対峙することができたということも、告知の決意に係わっていたかもしれません。もちろん、末の妹の朝子などは、やはり母親の生に限りがあるということに、かなりの動揺を示したりはしましたが。
ともあれ、お袋への告知をスタートラインとして、親父の信夫、姉の和美、上の妹雅子、朝子、僕、そしてそれぞれの連れ合いや子供たちをも巻き込んだ、お袋の死に至るマラソンが始まったのでした。

当初の記憶は定かではありません。お袋は、文字通り入退院を繰り返し、近所に住んでいた雅子や朝子が中心となって、病院への送り迎えや、家事の手伝い、入院した際の様々な雑事などを行ってくれていました。中でも、雅子が看護婦の資格を持っており、実際の病院勤務の経験も持っていたことが、様々な局面で、とても心強く役にも立ったように思います。
この時点では、恥ずかしいことですが、僕自身は、お袋の病気に対して、主体的に係わっていたとは言えません。独立して家を構えてからすでに二十年近くが経っており、関心が自分自身の家族や日々の仕事により多く振り向けられていた、というのが実状です。入院しているときは週末に、短時間病院を訪ねるといった程度でした。

しかし、状況は少しずつですが、確実に悪化していきました。病気を持ったお袋と、ご多分に漏れず家事に疎い親父との二人きりの生活、それを助けようとする妹たちの介在、妹たち自身の家庭へのしわ寄せ、このようなことが、物理的負担、精神的軋轢両面で、だんだんと顕在化してきました。

発病して一年ほども経ったころでしょうか、僕は姉の和美から、鋭く問いつめられました。
「それで、あなたは何ができるの?」
姉も、嫁ぎ先での寝たきりの状態で入院している義母の世話、加えて、連れ合いに兄弟がないため、義父の世話も必要という状況の間隙を縫って、世田谷から藤沢まで通ってくるという生活を強いられていたのです。
この姉の言葉には、いささかまいってしまいました。それぞれできる範囲でお袋の介護をしようという合意は、僕と姉妹の間で漠然とはできていましたが、できる範囲というのが曲者なのです。家庭と職場を持った中年の男性にとって、そもそも親の介護など、通常の生活の中で時間配分に入ってくる余地など皆無なのです。できる範囲などと言っている限りは、未来永劫その時間など捻出できないのです。姉の言葉は、そのような日常生活に拘泥している僕に、そこから一歩踏み出すことを強く求めているように思われました。
ちょうど、通院しながら間欠的に抗ガン剤の投与を行っている時期でした。二週間に一度のほぼ半日をつぶした通院は、お袋にとっても姉妹たちにとっても時間的な面も含め、大きな負担になってきていました。
「通院の送り迎えを引き受けようか?」
それが、僕の答えでした。スケジュール的に可能な限り定期的に有給休暇を取って、病院への送り迎えと診察の際の付き添いをしようというわけです。もちろん、動かせない仕事が入ることもありますから、毎回完全にというわけにはいきませんが、それこそできる範囲の基準が、ぐっと拡大したことは確かです。

なかなか良いものです。午前中は、家でゆっくりくつろぎ、時には、家内と昼食のために外出し、午後からお袋につきあう。車の中や診察を待つ時間には、お袋ととりとめのない話をしました。ガンの発生というのも多田富雄先生の御説によると、ある種の自己の非自己化と捉えられるであるとか、ガンの発生が、ある程度は年齢(免疫系が持っているタイマー)により、避けられないものであるとか、先生方の御説の生半可な受け売りなども、随分としたものです。
お袋は、自分の死がそう遠くないことをよく認識していました。悪性リンパ腫は、完治の見込みがないこと、本人の生きるための意欲と努力で死を先送りできることをよく理解しており、はっきり口に出しても言っていました。病院の待合室などで話がお袋自身のガンと死の話題に及び、思わず二人して顔を見合わせ、周りの方々の耳を思い計ったこともありました。
病を得てからのお袋は、入院していない時期も自宅で静養する時間が長くなっており、暇に任せてテレビの教養番組を、随分と見ていたようです。時に、そのような番組に、僕の学生時代の恩師や著書に接してそのことをお袋と語り合ったことのある方が出演されていたりすると、ことのほかうれしそうにその内容を語ったりしていました。死が近いことを知りながら、このようなある種知的な好奇心を持ち続けてくれていたことは、僕にとって大きな救いでした。

このような送り迎えは、幾度かの入院を挟んで、一年ほども続いたでしょうか。時には、病気に起因すると思われる精神の不安定さから家族、特に親父に対する攻撃が激しくなり、これを避けるために、診察中は仕事の疲れを理由に車の中で寝て待っているといったこともありました。

この時期、親父とお袋の関係は、お世辞にも良いとは言えませんでした。旧制高校から旧帝大、海軍、官僚、企業勤めと、歩んできた親父は、信仰もあり、人柄もそれなりに温厚だったのですが、家事全般についての能力と妻の立場を思いやるという点で、どこか決定的に欠けているところがありました。これは、ある意味で世代や歩んできた環境故の致し方ないこととも思えました。
このような親父が、病を得たお袋にとっては、許し難い存在に映ったようです。お袋が、敏感になった嗅覚により、親父に染みついたタバコのにおいを忌避するときの過剰な嫌悪感には、このような背景があったように思われます。
ともあれ、晩年にさしかかった夫婦が、共に支えあって生きていくことができないという現実は、子供たちにとって割り切れないものでした。

昨年の秋、風邪をこじらせて肺炎を併発。このころから、事態はゆっくりと終盤に向かって速度を速め出します。
肺炎からは何とか回復し、下の妹朝子の家に退院。しかし、五日ほどでまた発熱して、すぐに入院。このころ、抗ガン剤の投与に抵抗を示すようになります。抗ガン剤の副作用が本人には耐え難いものになりつつあるようでした。リンパ腫のはれが、局所的だったこともあって、治療をX線照射に変更。一時的に改善が見られたもののすぐに他の個所への移転が発現。体中にガン細胞が浸透していることは素人目にも明らかでした。
クリスマスと年末年始にそれぞれ短い自宅外泊。その間にも体力の衰えは隠せず、寝ている時間が長くなっていきました。

年が明けて、正月早々、姉妹全員と共に主治医との面談の機会が持たれました。
このおり、主治医から、悪性リンパ腫としては第四ステージに入っている旨が告げられました。
このときも、僕たちの決断は明確でした。いたずらに命を延ばすためだけの治療は、もはや必要ないこと、痛み等の症状を和らげるための対症療法は可能な限りしていただきたいこと、できれば一日二日でも自宅に帰れる機会を設けていただきたいこと、意識の明晰さを可能な限り保っていただきたいこと、などをお願いしました。
それと同時に、だれかに過度の負担が集中することがないように、姉妹全員でローテーションを組み、できる限り限りお袋に付き添うことを決めました。僕も土曜日の夕方付き添うということでローテーションに加わりました。

翌日の土曜日、僕は自分の認識の甘さを即座に実感することとなりました。見舞いには度々訪れていましたが、介護の経験は皆無だったのです。姉や妹たちに甘えて、何もしてきていなかったのです。
お袋と二人、実際には四人部屋でしたから他の患者さんもいたわけですが、取り残されて、食事の世話やうがいのさせ方など、本当に途方にくれてしまいました。雅子に電話で助けを求めたりしましたが、翌日やってきた朝子は、ベッドのまわりのあまりの惨状に絶句したといいます。
自らの無能を悟った僕は、朝子に頼み込んで付き添いの見習いをするとともに、自分の当番を、夕方しか介護できない土曜日ではなく、ほぼ一日中付き添うことができる日曜日にしてもらうことにしました。
初めての付き添いの介護で、思い知ったことが、いくつかあります。
一つは、介護には多かれ少なかれ技術が必要なこと。食事の世話一つとっても、排尿排便の世話一つとっても、家族でできることから看護婦の職業的な訓練を経なければできないことまで、さまざまなレベルで何らかの訓練とか慣れとかが必要になります。気持ちだけでは如何ともしがたいものがあります。
もう一つは、介護が単に直接的な世話だけではなく、患者と介護者との間でのある種生きる時間の共有といった側面を持つということ。土曜日の夕方二三時間で食事の世話をすればよいと思っていた僕は、実は大甘で、自分の普段の生活をかなり切り捨てる覚悟が必要だということを実感させられました。僕自身は気が付いていませんでしたが、姉や妹たちは、理屈ではなくある種本能的にそのような行動を取っていた節があります。
最後に、病院という制度が、それ自体として非常に管理的側面を持っていること。急いで付け加えますが、このことは、個々の医師や看護婦が大変な熱意と誠実さを持って事に当たってくださっていることを否定するものではありません。しかし、食事や検温の時に感じる非常に事務的に流れる時間、排尿や排便を含む、ある種のプライバシーの侵害と人間の尊厳の否定、といったことは、やはり否応なくお袋を苦しめ、お袋と家族とで共有する時間に侵入してくるのでした。

積極的治療を謝絶した時点で、家族からは、可能な限り長時間付き添って介護をするために、個室に移りたいという希望が出されていました。それはまた、お袋自身の強い希望でもありました。
十日あまりで、僕たちの希望は実現し、個室に移ることができました。しかしそれはまた、お袋と僕たち家族のマラソンが最終局面にさしかかっていることも意味していました。
個室に移ってからは、時間外面会許可を取って、可能な限り誰かが朝から夕刻まで付き添うようにしました。お袋の調子がいいときは比較的楽なのですが、体の不調を訴えたり、意識が混濁して言葉の意味が理解できないときは、二人きりの病室はかなりつらいものがありました。そのような折り、姉や妹が来てくれて、その場が三人になったとたん、お袋の意識が明瞭になったり、苦しみを紛らわしたりということが、再三ありました。お袋のベッドの脇で、家族が話し合うことにより、そこにある種の「場」がうまれ、それがお袋にプラスに働く、とでも言えばよいのでしょうか、不思議な体験でした。

時に、お袋の意識が混濁し、現在と過去の時間が混乱することがありました。そのなかには、造船技師であった祖父の影響と思われる船に乗っているという錯覚も混じっていました。僕や姉妹たちは、それを「おじいちゃまの意識が乗り移った」という共通の認識で捉えていました。いずれにせよ、このような時間の混乱は、僕にとってはそう悪いものではありませんでした。混乱というよりも、複線的に時間が流れているといった印象でした。その時間の流れに乗って、僕自身も自分の幼少時のことなどを、再体験したりしていました。
リンパ節の腫れのために体の節々に痛みを訴えるときなど、お袋の体をマッサージするのです。そうしていると、幼かったころ、家事に疲れたお袋の肩や腰などを揉んであげたことがよみがえります。それは、記憶などといったものではなく、そのときの手のひらの感覚そのものであり、そこにいるお袋と僕は、何十年も昔のお袋と僕なのです。
個室に移ったころから、だんだんと食事も喉を通らなくなり、点滴に頼るようになっていましたが、すりつぶしたリンゴは、最後まで好んで口にしていました。スプーンで少しずつ口に運んであげると、「おいしい」という言葉を発するのです。この感覚も不思議なもので、ああ、僕はこの人の乳房をすって育ったのだ、その人が今幼児に返って、自分が育てた息子から食べ物を与えられている。幼児に還っていくお袋の時間と、幼児から育っていく僕の時間が、鏡に向かって歩くときのように対照的に流れていくのです。

二月四日の日曜日。
午前中に、すったリンゴを少し。昼食のころ妹の朝子が、連れ合いと娘を連れて来てくれました。朝子がお袋を見てくれている間に、外で昼食。
午後、親父がやってきました。
親父は、年が明けてまもなく、お袋とよりも長く付き合ってきていたタバコをやめていました。それ以来、毎日のように病室にやってきては、自慢げに禁煙五日目だの十日目だのと、指でお袋に示していました。親父がタバコをやめたことは、僕や姉妹にとって、言葉では表せない喜びでした。それは、親父とお袋の和解そのものの象徴でした。
お袋を間に挟んで、親父と僕は、しばらくじっといすに座って、沈黙の時を過ごしました。永遠に続くかと思えるような静かな時間でした。
午後、腰を揉んだり足の裏を揉んだり。
夕刻、重湯、野菜ジュースなどの流動食を、スプーンで数杯。「おいしい。」
口をゆすぐ力もなくなっていたので、ぬらしたガーゼで、口の中を拭いてあげました。
面会時間が終わる七時が近づいていました。
「祈ろうか」
朝ミサの時に聞いたマタイ福音書の五章、世の光、地の塩のところを読み、一緒にゆっくりと主の祈りと天使祝詞三回を唱えました。
「そろそろ行くよ、またな。」
「ありがとう。」
僕がお袋と交わした最後の言葉になりました。

翌日、容態が急変。姉や妹たちが、交代で夜間も泊まり込みの介護を始めたそうです。僕は、九日の夕刻、携帯電話でいよいよ最後の時が迫っていることを知らされるまで、日常の多忙な時間の流れに引き戻されていました。
家族と共に病室に駆けつけたときには、お袋はすでに息を引き取っていました。朝子がしきりにお袋の顔をなで回していました。枕元にかすかに吐血か嘔吐の跡。僕たちのマラソンのゴールでした。
そう。不思議な満足感でした。悲しみはありませんでした。ほっとしたのとも違います。何事かをなし終えた満足感、親父も姉妹たちも含めて、その思いは共通のものでした。そして、それは何よりもお袋の思いであったに違いありません。
悪性リンパ腫の告知をしたときから、僕は常にお袋の信仰が試されていると感じていました。うまく死ねたらお袋の信仰は本物、取り乱したらそれだけのもの。お袋は、見事に自分の信仰を証ししてくれました。

朝子と雅子が、看護婦さんとともに、清拭に加わりました。薄く死化粧も施しました。主治医による死因等の説明。思えば、若き主治医の阿南先生も、循環器内科が無い市民病院で、本当によくやってくれました。時には、取り乱した妹のメンタルケアにまで付き合ってくれたこともありました。
遺体を自宅に移すために病院を出たところで、小雨の中を自転車で駆けつけてくれたマーチン神父にばったり。ここにもマラソンの力強い伴走者がいました。マーチン神父は、引き続き自転車で自宅にも来てくださり、お袋を囲んで家族と共に祈りを捧げてくださると同時に、葬儀社との打ち合わせにも加わってくださりました。
自宅には、もう一人の伴走者、シスター我妻も訪ねてきてくれました。マーチン神父とシスター我妻は、交代で毎日のように病室を見舞い、御聖体を授けてくださっていました。後から妹に聞いた話ですが、五日の月曜日に御聖体を届けてくださったシスター我妻は、聖体拝領の直前に唱える「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」というヨハネ福音書のなかの言葉をお袋が口にしたのをはっきりと聞かれたそうです。この言葉はまた、お袋自身の信仰宣言でもありました。
シスター我妻を中心に、またもお袋の遺体を囲んで祈りの時が持たれました。出棺までの三日間、幾度となくこのような祈りの時が持たれました。そして、その折りに唱えられる祈りは、決まって、シスター我妻が最後に耳にしたヨハネ福音書と、カトリックの信者たちがロザリオの祈りと呼び慣わしている主の祈りと天使祝詞、栄唱を組み合わせた祈りでした。
思えば、僕が病室でお袋と共に祈るようになったきっかけも、このロザリオの祈りでした。姉の話によると、個室に移ったころのある日、お袋はかなり苦しい思いをしており、姉も如何ともしがたい状態にあったそうです。このとき、お袋の口から「お祈りでもしようかね。」という言葉が出たそうです。何だか変な言葉ですが、苦しみの中で気を紛らわすために、日常のこととして祈りを選んだお袋の気持ちがよく表れていて、僕はこの言い方がとても好きです。
この時から、お袋とともに病室で祈ることが僕たちの日常となりました。そして、お袋の死後も、病室と同じように祈りの時が持たれるようになったのです。
祈りだけではありませんでした。僕たちは、お袋を囲んで思い出話に花を咲かせ、時にみんなで大笑いすることさえありました。幼いときから兄弟のようにして育ってきた従兄弟が家族と共に来てくれたと言っては笑い祈り、前に住んでいた神戸以来親子ともに親しくしてきた友人が夫婦で訪ねてきてくれたと言っては祈り笑い、二十年以上も昔の皆が家庭を持つ前の、一番にぎやかだったころの実家の生活が戻ってきたようでした。

通夜から翌日の葬儀ミサ、火葬に至る一連のことどもは、さながらウィニングランのごときものでした。ちょうど連休にかかり、僕たちの仕事関係の人々には連絡するにも連絡ができない状態にあって、教会関係者、お袋の友人たちを中心に、思いもかけぬ多くの人々が参加してくださいました。献花の折りに挨拶のため立っていると、僕の見知った顔、初めてお目にかかる顔、その方々のすべてが、何らかの形でお袋と時間を共有してこられ、その思い出を胸に抱いてくださっていることが、痛いほど分かりました。その中には、四半世紀にもわたって家族同然の付き合いをしてきた魚屋の夫婦もいました。孫娘たちが、お袋が生前好んでいたルルドのドロップをみなさんに配っていました。そう、みんなで人生のマラソンを完走した走者に心からの祝福を贈っている、そんな感じの式でした。
祭壇には、親父の喜寿とお袋の古稀を共に祝った際の、ツーショットで撮った笑顔がありました。

中野さん、これがお袋の死の顛末です。前にもお話したことがあると思いますが、お袋の闘病中に、柳田邦男氏の犠牲(サクリフィス)を感動を持って読みました。中でも、「二人称の死」という考え方で、自分の死でも他人の死でもない、ごく近しい人の死について論じられていた章には、大きな示唆を得ました。思えば、人の死とは、本来二人称でしか語りようがないのではないでしょうか。お袋は、きっと死の瞬間まで幸せだったに違いありません。自分でも死を受け入れ、その死への過程に二人称として付き合う家族とマーチン神父やシスター我妻をはじめとする多くの知人、友人がいたのですから。

不一
小林龍生

p.s.橋田さん、水越さんとは、次号を目指して建て直しをはかっています。水越さんの渡米の前に、懸案になっている橋田、水越二人の対面を実現できれば良いのですが。

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JIS X O208改訂

JIS X O208改訂

《愚者の後知恵》今はない電子ライブラリーコンソーシアムの機関誌への寄稿。第2回。現時点(2004年6月)で読み返してみると、この原稿執筆時点で、JIS X 0208の97改正、JIS X 2013:2000制定の問題点が、ある程度顕在化していたことが分かる。この時点で、国語審議会答申『表外漢字字体表』の主旨を生かすためのJIS文字コードの改正に関わるとは、夢想さえしていなかった。
1997年4月
ELICON「電子化文書規格シリーズ」

JIS X O208改訂
われわれが日常用いている専用ワープロやパーソナルコンピューターは,ご存じのように漢字を扱うことができる。一昔(まさに十年)前までは,手元 のコンピューターで漢字を扱えること自体が大きな驚異だった。しかし,今ではある程度までは自由自在,そして,できないことに対する不満が一杯,と いう状態になっている。今回は,パーソナルコンピューターで漢字を扱うことの現状を,それを支えるJISコードの側面から振り返ってみたい。
われわれが,通常JISの第一水準,第二水準などと呼んでいるJISは,正確には「JIS X O208-1990情報交換用漢字符号」と呼ばれているものを指している。 いや,もう正確ではない。この規格は今年の1月20日に改訂されて,X 2028-1997となっている。
そもそも,漢字符号がJIS化されたのは,昭和53年1月1日。「情報交換用漢字符号系JISC6226-1978」が最初である。これが,昭和58年9月1日にJIS X 0208-1983として改正され,さらに、平成2年9月1日1に「情報交換用漢字符号JIS X 0208-1990」となり,今回の改正に至っている。
われわれが参照することのできるJIS漢字コードはもう一つあり,「情報交換用漢字符号-補助漢字JIS X 0212-1990」で,平成2年10月1日に制定されている。この規格は,非常に多岐にわたる文字種を採録しているが,人名という非常に重要なニーズへ の配慮が足りず,現状としては,普及するに至っていない。ただし,前にもふれたようにJIS XO221には,この文字種はすべて含まれており,Unicode実 装の普及により,使用への障壁は取り除かれつつある。
こまごまと年代を書き連ねたが,この歴史の中に,コンピューターで漢字を扱う上での問題点が込められているので,お許し願いたい。

現行のJIS XO208には,基本的な性格の漢字2965文字(第1水準漢字集合)とそれ以外の漢字3390文字(第2水準漢字集合),合計6355文字が含まれて いる。他に,特殊文字,数字,ローマ字,ひらがな,片仮名,ギリシア文守:,ロシア文字,罫線素片などが含まれている。規格票自体は,赤坂にある日本規格 協会の他,政府刊行物を販売している書店などでも,容易に入手することができる。
では,昨今喧しい,JIS漢字の問題点とは何か。
問題は大きく,二つに分けられる。
一つは,現行のⅩ 0208に一貫して含まれている問題。もう一つは,1983年の改訂に伴って顕在化した問題。
83年の改訂の問題から考えよう。この改訂では,規格にずいぶん大きな変更が加えられた。特に問題となるのは,以下の二つの変更の部分だと思われる。
まず,第1水準と第2水準で位置を入れ替えられた漢字が,22字ある。*鯵と鯵*,*鷺と鴬*など。もう一つは,第1水準にあって常用漢字表,人名用漢字別衣にない漢字で,常用漢字表,人名用漢字別表の字形を部分字形として含むもので,それに準じた字形に変更されたものが,151字ある。  この二つが,大きな混乱を巻き起こした。メーカーや業界などで,この改訂に追従しなかったところがあったのだ。たとえば,パーソナルコンピューターやプリンターなどでは,78JISの字形をそのまま踏襲するメーカーと83JISに準拠するメーカーが混在し,その組み合わせによって,意図した文字と異なる文字が印刷される例が頻出した。この問題は,今に至るまで尾を引いている。  特に,よく引き合いに出されるのが,森鴎外の「鴎」と冒涜の「涜」。ともに,教科書や一般の出版物などでは,森*鴎*外,冒?と書かれるのが通例で,この字形には,違和感を覚える人も多いようだ。現在審議が進行している第21期国語審議会でも,この間題を看過することができず,何らかの解決の方向性を求めて,鋭意審議が行われている。JISを所轄する通産省工業技術院でも,今回の改訂に当たっては,この83JISでの改訂の問題にも,真剣に取り組み,問題点の正確な把握を行った上で,包摂という概念を導入して,同一コードでのいわゆる旧字体出 力の可能性に道筋をつけている。この点に関しては,今回の改訂の問題点として,後述する。
JIS漢字全般に関する問題。現在のJIS漢字では,表現できない人名特に姓が多く存在する。たとえば,「富」と「冨」といったように,人名に頻出する異体字をかなり多く拾っている一方で,「高」はあって「*高*」がないとか,「吉」があって「*吉*」がない などの.不整合が目立つ。これは,規格そのものの性格付けにも大いに関係がある。
問題の所在は,固有名詞,特に人名の姓に関わる異表記,いわゆる異体字をどのように扱うか,という点にある。今回のJIS改訂に当たって,工技院が用意した調査資料をみても,78年の制定当初から,JIS漢字が人名表記を重視していたことは疑いを得ない。異体字と一くくりに述べてきたが,人名に用いられる異体字には,いわゆる俗字と明らかな誤字が混在している。なおかつ,漢字の生産性の高さ(新しい字を作る潜在的な機能)からいって,このすべてを列挙することは,とうてい不可能なことだと思われる。法務省の指導の下,各地方自治体では,着々と戸籍の電子化の作業が進みつつある。この現場においても,法務省が容認した字形をJISの規格票でカバーすることは到底不可能なことだ。JIS漢字が情報交換用のものであるなら,転居等に伴う諸手続の電子化もふまえて,やはり人名の問題に対して.一定の解決を与える必要があるだろう。
問題点を一言でまとめると,現在のJISは,特に人名に用いられる漢字に関して,実体にそぐわない点が多くある,ということである。
ここで制定に関わった人々の名誉のために強調しておくが,JIS漢字は,制定された当初の目論見を離れて,意図せぬ用途に使われてきたきらいがある。
78年にJIS漢字が制定された際,現在のような家庭やオフィスで専用ワープロやパソコンが使われ,年賀状の宛名書きにおいて,手書きに取って代わることを関係者が予想していたとは,想像しにくい。規格とは往々にしてこのように当初の意図を越えて利用される運命にあるとはいえ,現在の混乱の責任を当時の規格策定の関係者に帰すのは,酷というものだろう。

97改訂の問題点
今回の改訂では,文字とコードとの対応はいっさい変更しなかった。いったん割り振られたコードを変更することによる社会的損失の大きさを痛感した結果と思われるが,この点は高く評価できる。また,いわゆるシフトJISを実装規定として,規格に取り込んだこともデファクトスタンダードの規格化の流れとして評価できる。
問題は,包摂にありそうだ。筆者としては.この問題に対して性急な評価を下すことは差し控えるが、区別する手段の提供を放棄して,同一視することのみを提唱した今回の改訂は,混乱に拍車をかけるおそれがある。

いわゆる第3水準,第4水準について
現在,工技院では,新しい漢字コードの策定が進んでいる。これは,特に人名,地名に重点を置いて,現在一般に用いられているものと,教科書等に出現するものを合わせて,網羅しようとするものだと聞いている。JIS漢字の大きな用途の一つに人名,地名があることを見据えて,現在のシフトJISの仕組みの上で高度な解決を図ろうとする姿勢は,敬服に値する。問題が存在するとすると,包摂で同一視した漢字の弁別と,一般人の人名に対する素朴な思い入れに,どのように折り合いをつけるか,という辺りにありそうだ。また,論理的な整合性を求めるあまり,再度実状にそぐわない形での規格が制定され ることがないように祈りたい。

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