デジタルと文化の間で

デジタルと文化の間で

《愚者の後知恵》大学時代、机を並べていた辻篤子さんとの共同作業。このころ、アエラに載ったあまりに勉強不足なピントはずれのユニコード批判について辻さんに文句を言ったら、じゃあ、自分で書いてみたら、というありがたい申し出をもらった。この時点で、このようなコンパクトな形で自分の考えをまとめることが出来て、とても良かったと思っている。
1997年2月~3月
朝日新聞夕刊

《研究所設立》

(1997/02/05掲載)

社内にデジタル文化研究所という小さな組織がある。設立のきっかけとなったのは、一九九三年秋の「メディアとしてのコンピューター」というシンポジウムだった。赤いパッケージの「一太郎」という単なるワードプロセッサーの会社から一歩踏み出そうという意図から企画した。
パネリストとして出席した社会学者、水越伸氏は、「メディアの社会的構成主義」、すなわち、メディアが成立するためには、単に技術的な要件を満たすだけではだめで、さまざまな社会的な要件がメディアを成立させていくという貴重な視点を与えてくれた。
ラジオは当初、発信と受信の機能を備えており、現在のアマチュア無線のように個人対個人の通信に多く使われていたという。ところが、あるとき、毎日一定の時刻に音楽などを発信するマニアが現れ、同時に、それを聞くだけの聴衆が誕生した。この聴衆を当て込んで、受信機能のみを備えたラジオが生産されるようになったというのだ。
パーソナルコンピューターにしても、ネットワークにしても、今僕たちが思いもしない使い方を、ある日誰かが思いつくかもしれない。そのような可能性に開かれた視野を忘れずに、これらのテクノロジーの未来を探っていきたいと思っている。
《ATOK見直し》

(1996/02/07掲載)

ワードプロセッサーを始めとするデジタル機器で日本語を扱おうとすると、当社で開発しているATOKなどの、いわゆる仮名漢字変換システムが必要になる。このシステムをつきつめていくと、技術だけでは解決のつかない、言葉や文化にかかわる問題が多々出てくる。
このことに最初に気づかせてくれたのは、紀田順一郎氏のエッセーだった。
文芸批評家としては最も初期からのパソコンユーザーだった氏は、仮名漢字変換用辞書の問題点を鋭く指摘しておられた。氏の不満は、いったい誰がどのような基準で辞書を作っているのかが明確でない、という言葉に集約されていた。
たしかに、ATOKも、担当のエンジニアが見よう見まねで経験的に積み重ねてきたために、少し丁寧に見ると、手紙などに対で使われることが多い「冠省」があって「不一」がないだとか、「独壇場」はあるがその本来の形である「独擅場」がないといった不整合が、随所に見られた。
このエッセーが契機となり、一九九二年、氏を座長に気鋭の日本語学者の参画を得て、ATOK監修委員会が生まれた。この委員会では、それまでのATOK辞書が、語彙の選択から表記の方法に至るまで、徹底的に検討されることになった。
《紀田フレイバー》

(1997/02/12掲載)

紀田順一郎氏を始めとする文科系の視点が入ることによって、ATOKの辞書は編成方法から内容に至るまで劇的な変貌を遂げた。
紀田氏は、大百科事典一式分の項目リストを電車の中でもトイレの中でも携行され、収録すべき語彙と削るべき語彙の弁別をしてくださった。日本語学者のグループは、慣用化して社会的に受容されている表記と誤表記との区別などについて、白熱した議論の上で明確な指針を出してくれた。
なかでも、委員たちが特に愛着を持って議論したのは、ある一群の語彙だった。従来は、企業などで事務的な用途に使われる機会が多かったために、実用的で使用頻度の高い語彙に偏る傾向がみられた。
しかし、それだけでは文章の風情や風格を表現するのは難しい。だれが言い出すともなく、ある一群の語彙を「紀田フレイバー」と呼ぶようになった。
思い出すままに並べると、「刮目」「幸甚」「斧正」「端倪」などやや古風で文章語的な語彙なのだが、こうした言葉が入るだけで文章全体に風格が表れたり締まったりする。
語彙の選択は最終的には紀田氏に一任され、氏は、ことのほかこの作業を楽しんでくださったようだ。  こうして、紀田フレイバーは、ATOKの個性の一部となった。
《民間主導の規格》

(1997/02/14掲載)

コンピューターで日本語の文字を扱うとき、日本では通常、JIS X〇二〇八と呼ばれる規格を使う。いわゆるJISの第一水準、第二水準などと呼ばれているものだ。
この他にも、コンピューターやネットワークで情報のやりとりを行うために、さまざまな約束事=標準規格が存在している。
これらの規格は、水や空気のように、ふだんはまずその存在を意識することはないだろうが、実は、さまざまな立場の人たちが、少しでも完全で矛盾が少ないものをめざしてきた歴史的な努力のたまものだ。
標準規格を作る作業は従来、国家機関(日本では通産省工業技術院)が主導し、学者や業界代表者の献身的な協力によって進められてきた。国際的には、それぞれの国の代表が国際標準化機構(ISO)のもとで作業をする。
ところが、近年、技術の急速な進歩に、従来の標準化の作業がついていけない事態が、たびたび起こるようになってきた。
例えば、ユニコードと呼ばれる、世界中のあらゆる文字に統一的なコード付けをして、コンピューターで扱えるようにしようという壮大な試みもそうだ。民間の団体によってどんどん作業が進み、それが結果的にISOにも影響を及ぼすようになっている。
《草の根の約束》

(1997/02/17掲載)

従来は、国際標準化機構(ISO)を中心に、国と国との話し合いによって決まってきた標準規格だが、近年は、文字コードの統一プロジェクト「ユニコード」のように、民間ベースで決まり、運用されていくケースが増えている。
いわゆるデファクトスタンダードと呼ばれるもので、音楽用CDなども、当初は民間ベースで規格化が進み、後に正式にISOで規格制定がなされた。
このような動きが特に活発なのが、インターネットを中心とするネットワークの世界だ。インターネットは、ボランティアによって運営されているため、誰もが自由に提案ができ、それが受け入れられれば、煩雑な手続きなしで事実上の標準として機能する仕組みになっている。いわば、草の根ベースの約束社会だ。
インターネットで普及しているホームページを表現するためのHTMLという規格も、欧州合同原子核研究機関(CERN)で作られ、世界中に普及した。
一見、約束事の固まりで冷たく見える標準規格も、その背後にはさまざまな努力や競争、場合によっては駆け引きが存在する。
このようなある種人間くさい規格の世界を、いつか水越伸さんにならって「規格の社会構成論」とでも名付けて、論じてみたいと夢想している。
《理想めざして》

(1997/02/19掲載)

インターネットの普及とともに、ユニコードの話題が取り上げられることが多くなってきた。コンピューターで文字を表現するためには、それぞれの文字に番号を付けて区別する必要がある。それを文字コードというが、ユニコードもその一つだ。
国内にも、JISコードと呼ばれるものがあり、専用ワープロやパソコンで一般的に使われている。また、アメリカにはアメリカの、中国には中国の、ギリシアにはギリシアのそれぞれの文字コードがある。
コンピューターが、ある国の中だけで使われている間はよかったのだが、インターネットを始めとするネットワークの発達とともに、ある国で作られた文章を他の国で読む、といった需要が増えてきた。
ユニコードは、世界中に存在するすべての文字を同一の環境上で差別なく取り扱うという理想を実現するために、アメリカの西海岸に基盤をおく民間企業を中心に組織されたユニコードコンソーシアムが、規格化を行っている。
ジャストシステムは、このコンソーシアムに日本から唯一の企業として参加しており、僕はこの組織の役員も務めている。
このユニコードを少しでも理想に近づけるために、積極的な発言を続ける必要性を感じている。
《参加決めた一言》

(1997/02/21掲載)

国際的な文字コードを定めるユニコードにかかわるようになったのは、これを推進する民間団体、ユニコードコンソーシアムのアスムス・フライタークの来訪がきっかけだった。ユニコードの問題点を認識していた僕は、初めからけんか腰で対した。
しかし、議論を重ね、さて結論を出さねば、という段になって、彼の一言が決定的な影響を与えた。
「ユニコードを批判するなら、中に入って、意見をいえばいい」 結果的に、ジャストシステムは、日本から唯一の投票権を持つメンバーとしてコンソーシアムに参加、僕は、日本からたった一人の技術委員会の委員及び取締役会の役員となった。
コンソーシアムは、IBM、マイクロソフト、アップル、といった会社を中心に、アジアからはほかに、韓国のハングル・グァ・コンピューター、台湾のダイナラブが投票権のないメンバーとして参加している。
漢字を扱う技術委員会のメンバーは皆、漢字への深い関心と知識を持っているが、文化の深い部分への理解にはどこか欠けるところが感じられる。
最近になって、彼らも、漢字に関わる問題は、何かと僕の意見を聞いてくれるようになった。積極的に意見を反映させていくのは、これからが勝負だ。
《漢字を統合》

(1997/02/24掲載)

ユニコードで最も批判の多い点の一つが、日本、中国、韓国などの漢字で、形の似たようなものを一つにまとめてしまった、いわゆるCJKユニファイ(統合)と呼ばれるものである。
従来の国際規格が、日本、中国、韓国など漢字圏のコードを、それぞれの国内規格を踏襲する形で、別々の領域を取ってコード化していたのに対して、ユニコードは、漢字全体を一つのまとまったコード領域で扱おうとした。
その際、すべての文字を十六ビットすなわち約六十五万通りの組み合わせの範囲で表現することにこだわったために、「*」(一点シンニョウ)と「*」(二点シンニョウ)とか、「*」(下が月の青)と「*」(下が円の青)のような似たような文字には、一つのコードを割り振った。  これが、CJKユニファイで、日本、中国、韓国、台湾などからの有志が作業を担当、ユニコードからも代表者が参加した。
しかし、利害が複雑に絡み合い、それぞれの国や地域の既存の規格に含まれる文字をすべて採用したことで、本来ユニファイすべき文字に別のコードが割り振られるなどの矛盾点が残された。手続き上の混乱なども加わり、感情的なしこりを残したことも事実だ。
それでも、国境を越えて文字を統合しようとするユニコードの姿勢には、共感を覚えている。
《漢字国の対立》

(1997/02/26掲載)

ユニコードに相当するISOの規格は、国際符号化文字集合(UCS)と呼ばれ、漢字の部分は四つのカラムに分かれている。日本、韓国、中国、台湾の主張がぶつかり合い、それぞれの国で使われている形をそのまま併記することになったためである。
例えば、日本のカラムに「骨」、中国のカラムには「*」と、明らかに異なった形が使われている。日本から「骨が折れる」と電子メールを送ると、中国では「*が折れる」となる。
日本では日本の文字が、中国では中国の文字が出てくるのだから読みやすくてよい、という見方もあるが、「中国では、骨を*と書く」といった、複数の言語にまたがる記述をしようとすると、決定的に矛盾を露呈する。
コンピューターの世界でも、それぞれの国や地域の言葉を正確に表現することは、相互の文化理解の基本中の基本だと思う。そのためには、ユニコードの技術委員会やISOの国際会議の場で、まだまだ改善を主張していく必要がある。
「骨」のような例も、僕はそれぞれを区別する符号をユニコードに提案しているが、大勢は文字コードではなく、HTMLやJAVAなどのよりアプリケーションに近いレベルで言語や地域を指定して区別する方法に傾きつつあるようだ。
《65000の壁》

(1997/02/28掲載)

現在、ユニコードでは、二万種類以上の漢字にコードが割り振られている。パソコンやワープロで一般に使われる約六千四百文字を始めとして、日本のJISで規格化されている漢字約一万二千字は、すべて含まれている。
一方、漢字を語る際に必ず言及される中国の康煕字典や日本の大漢和辞典には、約五万字の漢字が含まれている。それからすれば、ユニコードにはまだまだ文字数が足りない。
ユニコードは十六ビットのコードなので、二の十六乗、約六万五千種類の文字を表現できるが、漢字以外のさまざまな文字や記号もあるので、確かにこれだけでは康煕字典や大漢和辞典の漢字すべてを表現することは不可能だ。しばしば耳にするユニコードに対する批判の一つは、この点に関するものだ。
しかし、現在では、六万五千の制限を越えるための仕組みを工夫し、どのような文字を入れていくかに、議論が移ってきている。
一方、大辞典と常用の小辞典があるように、特に国際的なコミュニケーションに必要な最小限の漢字に絞った文字セットが必要との認識も広まりつつある。
東京学芸大の松岡榮志氏がそれを提唱しておられ、三月にドイツで開かれるユニコード会議で共同発表すべく準備を進めている。
《異体字の悩み》

(1997/03/03掲載)

日本で特に話題になる問題の一つに、人名や地名に登場する異体字がある。例えば、ヤマザキさんの場合、山崎、山碕、山埼、山嵜など多くのサキが存在する。中国にも従来からある場合もあるが、JISやユニコードに取り上げられていない日本の国内だけで用いられる文字も多い。
このような意味が同じで形が違う漢字を一つのグループとみなし、代表字とその異体字と考えると、実用的に必要な文字の数は、案外少なくてすむ。松岡榮志氏の調査によると、概ね五千字ほどで、これで日常的には十分だ。
残りの漢字は、歴史的な文献、文学作品などに登場する文字と、人名、地名とに大別して考えることができる。ともに必要ではあるが、ネットワークで海外とやりとりする際や、軽便な電子手帳にまで、こうしたすべての文字を要求するのは、現実的な解決策とはいえないように思う。
現在の僕自身は、歴史上と現在とを問わず、印刷物に表れたあらゆる漢字にコードを振り、そのグループ化を明確な形で行った上で、目的に応じて代表字ですます場合と、細かい字形にこだわる場合とを分けて運用すべきだとの考えに傾いている。ソフトウエアの発展は、このような要求に十分応えられるところまで来ている。
《ルビの効用》

(1997/03/05掲載)

一九九六年三月、アジアで初めてのユニコード会議が香港で開かれた。僕も日本からのスピーチのアレンジを手伝い、基調講演は紀田順一郎氏に引き受けていただいた。主題は「ルビの効用」。
ふりがなを意味する「ルビ」は、イギリスの職人たちが活字の大きさを表す符丁として、ルビー、サファイアなどの宝石名を使ってきたことに由来する。
日本では古来、多くの漢語を取り込む過程で、ルビが巧みに用いられてきた。先考と書いて、右側に漢語としての読み「せんこう」を振り、左側に大和言葉の意味「ナキチチ」を振った例がある。欣然(きんぜん、ヨロコブカタチ)、首級(しゅきゅう、クビ)なども同様だ。
明治以降、欧米の文学を輸入した際も、ルビは活用された。ルビのおかげで、日本の外国文化の導入はずいぶん促進されたのではないか。紀田氏の話はおおむねこのようなものだった。
シンガポールの女性からは、ルビを中国語と英語の相互教育に使えないかという質問も出るなど、反響は大きく、ルビは一種のキーワードとなった。
日本固有の文化だと思っていたルビが活発な議論を巻き起こしたことは、日本が国際的な場で問題提起をしていく際のこのうえない示唆を与えてくれた。
《家族メール》

(1997/03/07掲載)

ユニコードにかかわるようになって、海外出張、特にアメリカへの出張が多くなった。ただでさえ、本社のある徳島と自宅のある横浜とを毎週のように往復しているため、家族とのコミュニケーションには人一倍気を配っているが、海外出張となると、電話代もばかにならない。一計を案じて、家族にもアドレスを持たせ、電子メールでやりとりするようにした。
電子メールは、ホテルなどから市内通話でアクセスできるうえ、時差を気にすることもない。日常のささいな出来事やおみやげの催促などたわいのない内容でも不思議な温かみが感じられ、ひととき旅や仕事の疲れを忘れさせてくれる。
電子メールを始めとして、インターネットを媒介としたコミュニケーションは、もちろん仕事の上でも欠かせないものになっているが、どこか個人的なにおいがあるのがおもしろいところだ。
ユニコード仲間とのメールにしても、文面はたとえぶっきらぼうでも、単に事務的ではない、個人対個人の触れ合いが感じられる。ネットワークを介した新しい人間関係が始まっているのかもしれない。
僕たち家族は、ネットワーク熱がこうじて、ついにアメリカにホームページを持つに至った。アドレスはhttp://www.kobysh.com。
《フラクタル》

(1997/03/12掲載)

もう十年以上も前、友人でCG作家の安斎利洋氏とたくらんで、「マンデルネット86」というプロジェクトをでっちあげた。金も組織の後ろ盾もなく、時代の先端を走っているという奇妙な高揚感だけが頼りだった。
IBMのベノア・マンデルブローがフラクタルという新しい数学の概念を発表して、マンデルブロー集合に代表されるフラクタル図形を当時のミニコンを用いてCGで表現することが、一部のフリークの間で世界的ブームとなった。
非常に単純な計算式から、思いもかけぬ複雑な図形が出現することに、多くの人々が数の神秘性とでもいうべきものを感じ取ったのだと思う。研究用のコンピューターを夜中にぶん回して作った画像が、ネットワークに乗って、世界中を駆け回った。
僕たちの試みは、非力な八ビットのパソコンを使って、人的な分散処理で世界一巨大で解像度の高いマンデルブロー集合を描こう、というものだった。それは畳三畳分の作品として結実した。
僕たちの仕事は、コンピューターの能力の進展とともに、あっという間に過去のものとなったが、一時、世界の先頭にいた、という満足感は、今でも僕たちをどこかで支えているように思う。
《開かれた新世界》

(1997/03/14掲載)

代表的なフラクタル図形であるマンデルブロー集合は、単純なプログラムを繰り返すことにより簡単に描くことが出来る。
それにしても、なぜ、この図形が、僕たちを含めて、世界中のフリークたちを夢中にさせたのだろう。
理由はいくつか考えられるが、だれもが手元のコンピューターで簡単に最先端の科学に触れられることが大きな理由の一つであることは、疑い得ない。
本質的には、ほんの十行足らずのプログラムを、何千回、何万回と繰り返すことで、本当に予測が不可能な複雑きわまる世界が現れる。
ニュートンやデカルトが古典力学と微分積分の概念を確立して以来、科学技術は、ある時点の現象が分かれば、途中を省略しても、その後の動きを完全に予測できる、
いわゆる微分可能な世界を対象に発展してきた。
例えば、太陽系の惑星の動きは何万年後でも正確に予測できるし、アポロ宇宙船は、正確に月のある一点をめざして飛行していく、というわけだ。このような原理が、産業の発展も支えてきた。
しかし、手元の小さなコンピューターが描き出す世界は、ニュートン、デカルト的な世界観からは、説明が不可能な、全く新しい未知の世界だったのだ。
《パソコンの力》

(1997/03/17掲載)

パソコンを使えば、ニュートン、デカルト以来の世界観からはこぼれ落ちる、フラクタルやカオス、複雑系などの実例を、いとも簡単に視覚化できる。これらの分野にとって、手元で自由になるパソコンの出現は、本質的に不可欠だ。
実際、人工生命の生みの親であるクリストファー・ラングトンはアップルⅡ、「ティエラ」を開発したトマス・レイは東芝ラップトップと、時に驚くほどプアーなパソコンの環境で、だれもが到達したことのない最先端の成果を上げている例には事欠かない。
安斎利洋さんたちと企てた「マンデルネット86」も、このような個人が所有するコンピューターでの営為として振り返ってみると、時代の大きな流れのひとこまにぴったり組み込まれているように思われる。
そして今、独立して機能する無数のコンピューターがネットワークでつながれ、協調して動く時代がやってこようとしている。個々のコンピューターを繰っているのも、組織というよりも多くの個人だ。このような個人=パソコンのネットワークが、ニュートン、デカルトとは異なる、どんな世界観を作っていくか、実験は始まったばかりだ。
僕の小さなホームページも、その大きなネットワークの片隅に、確実に存在している。
《聖書の電子化》

(1997/03/19掲載)

六年前、「ハイパーバイブル」と称して聖書のハイパーテキスト化を試みた。
ハイパーテキストは、ワールドワイドウエッブでおなじみの、参照個所に次々にジャンプしていける電子テキスト。聖書、特に共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカの各福音書が、マルコを中心として、非常に多くの共通の個所(平行個所)を持つことから、ハイパーテキスト化に最適の素材と気づいたのだ。
元のテキストは、カトリックと新教双方の聖書学者の手になる「新共同訳」を用いた。幸いなことに、篤志家のグループがこつこつ電子化したものが、イエールというコンピューターに詳しい神父によって一つにまとめられていた。
このテキストに、書籍版に書き込まれた参照個所をハイパーテキストリンクとして埋め込んでいくという比較的単純な作業でハイパーバイブルは完成した。
その効果は目を見張るものがあった。福音書の平行個所を次々切り替えながら簡単に参照できるために、共通点や相違点の把握が容易になり、イエスの教えを立体的に理解できるような気がした。
この仕事を通して、学生時代の師である荒井献先生と再会し、コンピューターを用いた聖書研究の可能性を認めていただいたのは、望外の喜びだった。
《章節とアドレス》

(1997/03/21掲載)

聖書ほどハイパーテキスト化に適している書物は、ほかににわかには思い浮かばない。旧約聖書、新約聖書としてまとめられた聖典群の語句と思想を、哲学、文学、自然科学、政治と、あらゆる分野の人々が引用している。
その引用を支えている特徴の一つに、各国で刊行されている聖書の章と節が、カトリックとプロテスタントの別なく共通している点が挙げられる。このような章節分けは、グーテンベルクの活版印刷から約百年後に確立された。起源は写本や朗読の便宜のための段落分けで、死海文書のころにまでさかのぼるという。
いずれにせよ、この章節のマークが一意的に定められているために、電子化されてページの概念を失った後も、特定の個所を明確に指し示すことができる。
一部の古典的著作物では、定評のある全集版のページ数やパラグラフ番号を指定する習慣があるが、聖書ほど普遍的な例はない。
この章節が、コンピューターのプログラムやデータベースにおけるアドレスの概念とぴったり重なることを、カンタベリーの大主教ステファン・ランクトン(旧約の章節分けの創始者)、パリの印刷業者ロベール・エティエンヌ(新約での創始者)らが知ったら、と想像するだけでなんだか楽しくなる。
《新しい著作権》

(1997/03/24掲載)

グーテンベルクの活版印刷の発明は、テキストの大量複製を可能にし、写本につきものの誤謬も激減させた。だれもが正しいテキストを平等に読めるようになり、宗教改革や科学革命を契機とする西欧近代の成立に大きく寄与したことは、言を待たない。
同時に、自分が書いたテキストの同一性を守る権利や、産業としての複製の権利を保護する形で、著作権の成立をも促した。
だが、デジタル時代に至って、どうも様子がおかしくなってきた。そもそも、著作権をはじめとする知的財産権と、等価交換をベースとした現代の貨幣経済の理論は、それほど折り合いがよくはない。
そこへきて、大量かつ安価に電子的複製が作れ、痕跡を残さず改変も自由に行えるようになった。オリジナルを守るハードウエア的障壁はもはや存在しない。
議論はにぎやかだが、僕は、等価交換とは別個の、情報の送り手と受け手をつなぐ、新しい価値観を考える時期に来ていると考えている。例えば、シェアウエアと呼ばれる一連のソフトウエアの流通の仕方などには、新しい道へのヒントが含まれているように思う。
過去に拘泥することもない。焦ることもない。なにしろ僕たちは、五百年に一度の大きな変革に立ち会っているのだから。
《新たな時代へ》

(1997/03/26掲載)

第十回ユニコード会議はドイツのマインツで行われた。僕も東京学芸大の松岡榮志氏と異体字の関連づけを前提とした漢字の入力方法について発表した。会議が終わった晩も、各国の仲間とユニコードとインターネットを巡って語り合い、話題は尽きなかった。
翌日、僕は、グーテンベルク博物館をのぞいてみた。活版印刷技術は、マインツから始まったのだった。四十二行聖書があった。そして、多くのインキュナブラ(十五世紀以前に印刷された揺らん期本)も。  時代の要請もあり、多くの印刷業者が誕生した。おそらく彼らは時に互いの技術を盗み、時に協力して、技術を磨いていったことだろう。展示されたインキュナブラの背後から、時代を担った人々の情熱が伝わってくるような気がした。僕は世界中に散っていった仲間のことを思った。
そう、僕たちはデジタル文化のインキュナブラ(揺らん期)にいる。共にやるべきことは多い。時代は始まったばかりなのだから。

(おわり)

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