母純子、死の顛末

母純子、死の顛末

《愚者の後知恵》私信の形を取るが、哲学書房刊行の『ビオス』に掲載することを前提として書かれた。共同作業者だった編集者/社主の中野幹隆さんの超多忙のゆえに、発表には至らなかった。
1996年3月
その中野幹隆さんも今は鬼籍に入ってしまった。
草稿

母純子、死の顛末 中野さま
お袋が逝きました。
一九九六年二月九日午後六時五十八分。享年七三歳。死因は、悪性リンパ種。二年三ヶ月の闘病生活の末のことでした。
私事で恐縮ですが、やはり種々の雑務に振り回されて、ビオスの原稿が進捗していません。かてて加えて、水越さんの文部省派遣によるアメリカでの在外研究が急に決まって、水越さんも大変な忙しさです。電子メールを活用したとしても、橋田さんも含めて幾度かのやりとりを繰り返して、次号の締め切りまでにビオスの原稿を準備することは、とうてい不可能なようです。ご容赦ください。

お袋の死に至る日々は、中野さんが多田富雄先生、養老孟司先生、中村桂子先生などと、対談・鼎談集『わたしという存在は何か』から『季刊ビオス』に至る一連の「いのち」に係わるお仕事を進めておられた時期と、偶然にも重なっています。中野さんから、このようなお仕事のお話をうかがう機会をたびたび持つことによって、僕は随分とお袋の生と死について考えることができました。
感謝を込めて、お袋の死に至る次第を報告させていただきます。

葬儀ミサの説教の中で、マーチン神父が、次のような話をしてくれました。マーチン神父は、最近、お母様を悪性リンパ種で亡くされ、そのこともあったのでしょう、本当に親身になって、幾度となく御聖体を持って病室を訪ねてくださっていました。
「あるとき、同僚の神父と電車に乗っていて、看板に書かれたある言葉が目に入りました。そこには、こう書かれていたのです。『生きていることは、素晴らしい。しかし、生きていることに限りがあることを知ることは、もっと素晴らしい。』この言葉は、なにか仏教に関係したものだったのです。しかし、私たちは、同時に顔を見合わせて、これは、小林純子さんのための言葉ですね、と語り合ったのです。」

一九九三年の晩秋に、体の不調を訴えて、検査のために入院したお袋でしたが、当初、病気の特定に手間取り、悪性リンパ種であると判明したのは、年が明けて一九九四年になってからのことでした。その時点で、この病気は完治する可能性がなく、抗ガン剤の投与でガン細胞を抑制することによって、病気の進行を遅らせる以外に治療方法がないこと、抗ガン剤の投与は、健康な細胞にもダメージを与え、特に高齢者の場合は、体力の衰えとのかねあいも考えなければならないことなどを、主治医の先生から説明されました。
僕たち家族が、お袋に悪性リンパ種の告知をする決心をするには、さして時間はかかりませんでした。その時点では、まだ病状は比較的軽く、治療がうまくいけば、病気と折り合いをつけながら、かなりの余命を期待できる可能性がありました。そのためには、本人の意欲と治療への積極的な協力が欠かせない、という判断がありました。また、家族全員がカトリックの信仰を持っているため、人が死ぬということに対して、比較的冷静に対峙することができたということも、告知の決意に係わっていたかもしれません。もちろん、末の妹の朝子などは、やはり母親の生に限りがあるということに、かなりの動揺を示したりはしましたが。
ともあれ、お袋への告知をスタートラインとして、親父の信夫、姉の和美、上の妹雅子、朝子、僕、そしてそれぞれの連れ合いや子供たちをも巻き込んだ、お袋の死に至るマラソンが始まったのでした。

当初の記憶は定かではありません。お袋は、文字通り入退院を繰り返し、近所に住んでいた雅子や朝子が中心となって、病院への送り迎えや、家事の手伝い、入院した際の様々な雑事などを行ってくれていました。中でも、雅子が看護婦の資格を持っており、実際の病院勤務の経験も持っていたことが、様々な局面で、とても心強く役にも立ったように思います。
この時点では、恥ずかしいことですが、僕自身は、お袋の病気に対して、主体的に係わっていたとは言えません。独立して家を構えてからすでに二十年近くが経っており、関心が自分自身の家族や日々の仕事により多く振り向けられていた、というのが実状です。入院しているときは週末に、短時間病院を訪ねるといった程度でした。

しかし、状況は少しずつですが、確実に悪化していきました。病気を持ったお袋と、ご多分に漏れず家事に疎い親父との二人きりの生活、それを助けようとする妹たちの介在、妹たち自身の家庭へのしわ寄せ、このようなことが、物理的負担、精神的軋轢両面で、だんだんと顕在化してきました。

発病して一年ほども経ったころでしょうか、僕は姉の和美から、鋭く問いつめられました。
「それで、あなたは何ができるの?」
姉も、嫁ぎ先での寝たきりの状態で入院している義母の世話、加えて、連れ合いに兄弟がないため、義父の世話も必要という状況の間隙を縫って、世田谷から藤沢まで通ってくるという生活を強いられていたのです。
この姉の言葉には、いささかまいってしまいました。それぞれできる範囲でお袋の介護をしようという合意は、僕と姉妹の間で漠然とはできていましたが、できる範囲というのが曲者なのです。家庭と職場を持った中年の男性にとって、そもそも親の介護など、通常の生活の中で時間配分に入ってくる余地など皆無なのです。できる範囲などと言っている限りは、未来永劫その時間など捻出できないのです。姉の言葉は、そのような日常生活に拘泥している僕に、そこから一歩踏み出すことを強く求めているように思われました。
ちょうど、通院しながら間欠的に抗ガン剤の投与を行っている時期でした。二週間に一度のほぼ半日をつぶした通院は、お袋にとっても姉妹たちにとっても時間的な面も含め、大きな負担になってきていました。
「通院の送り迎えを引き受けようか?」
それが、僕の答えでした。スケジュール的に可能な限り定期的に有給休暇を取って、病院への送り迎えと診察の際の付き添いをしようというわけです。もちろん、動かせない仕事が入ることもありますから、毎回完全にというわけにはいきませんが、それこそできる範囲の基準が、ぐっと拡大したことは確かです。

なかなか良いものです。午前中は、家でゆっくりくつろぎ、時には、家内と昼食のために外出し、午後からお袋につきあう。車の中や診察を待つ時間には、お袋ととりとめのない話をしました。ガンの発生というのも多田富雄先生の御説によると、ある種の自己の非自己化と捉えられるであるとか、ガンの発生が、ある程度は年齢(免疫系が持っているタイマー)により、避けられないものであるとか、先生方の御説の生半可な受け売りなども、随分としたものです。
お袋は、自分の死がそう遠くないことをよく認識していました。悪性リンパ腫は、完治の見込みがないこと、本人の生きるための意欲と努力で死を先送りできることをよく理解しており、はっきり口に出しても言っていました。病院の待合室などで話がお袋自身のガンと死の話題に及び、思わず二人して顔を見合わせ、周りの方々の耳を思い計ったこともありました。
病を得てからのお袋は、入院していない時期も自宅で静養する時間が長くなっており、暇に任せてテレビの教養番組を、随分と見ていたようです。時に、そのような番組に、僕の学生時代の恩師や著書に接してそのことをお袋と語り合ったことのある方が出演されていたりすると、ことのほかうれしそうにその内容を語ったりしていました。死が近いことを知りながら、このようなある種知的な好奇心を持ち続けてくれていたことは、僕にとって大きな救いでした。

このような送り迎えは、幾度かの入院を挟んで、一年ほども続いたでしょうか。時には、病気に起因すると思われる精神の不安定さから家族、特に親父に対する攻撃が激しくなり、これを避けるために、診察中は仕事の疲れを理由に車の中で寝て待っているといったこともありました。

この時期、親父とお袋の関係は、お世辞にも良いとは言えませんでした。旧制高校から旧帝大、海軍、官僚、企業勤めと、歩んできた親父は、信仰もあり、人柄もそれなりに温厚だったのですが、家事全般についての能力と妻の立場を思いやるという点で、どこか決定的に欠けているところがありました。これは、ある意味で世代や歩んできた環境故の致し方ないこととも思えました。
このような親父が、病を得たお袋にとっては、許し難い存在に映ったようです。お袋が、敏感になった嗅覚により、親父に染みついたタバコのにおいを忌避するときの過剰な嫌悪感には、このような背景があったように思われます。
ともあれ、晩年にさしかかった夫婦が、共に支えあって生きていくことができないという現実は、子供たちにとって割り切れないものでした。

昨年の秋、風邪をこじらせて肺炎を併発。このころから、事態はゆっくりと終盤に向かって速度を速め出します。
肺炎からは何とか回復し、下の妹朝子の家に退院。しかし、五日ほどでまた発熱して、すぐに入院。このころ、抗ガン剤の投与に抵抗を示すようになります。抗ガン剤の副作用が本人には耐え難いものになりつつあるようでした。リンパ腫のはれが、局所的だったこともあって、治療をX線照射に変更。一時的に改善が見られたもののすぐに他の個所への移転が発現。体中にガン細胞が浸透していることは素人目にも明らかでした。
クリスマスと年末年始にそれぞれ短い自宅外泊。その間にも体力の衰えは隠せず、寝ている時間が長くなっていきました。

年が明けて、正月早々、姉妹全員と共に主治医との面談の機会が持たれました。
このおり、主治医から、悪性リンパ腫としては第四ステージに入っている旨が告げられました。
このときも、僕たちの決断は明確でした。いたずらに命を延ばすためだけの治療は、もはや必要ないこと、痛み等の症状を和らげるための対症療法は可能な限りしていただきたいこと、できれば一日二日でも自宅に帰れる機会を設けていただきたいこと、意識の明晰さを可能な限り保っていただきたいこと、などをお願いしました。
それと同時に、だれかに過度の負担が集中することがないように、姉妹全員でローテーションを組み、できる限り限りお袋に付き添うことを決めました。僕も土曜日の夕方付き添うということでローテーションに加わりました。

翌日の土曜日、僕は自分の認識の甘さを即座に実感することとなりました。見舞いには度々訪れていましたが、介護の経験は皆無だったのです。姉や妹たちに甘えて、何もしてきていなかったのです。
お袋と二人、実際には四人部屋でしたから他の患者さんもいたわけですが、取り残されて、食事の世話やうがいのさせ方など、本当に途方にくれてしまいました。雅子に電話で助けを求めたりしましたが、翌日やってきた朝子は、ベッドのまわりのあまりの惨状に絶句したといいます。
自らの無能を悟った僕は、朝子に頼み込んで付き添いの見習いをするとともに、自分の当番を、夕方しか介護できない土曜日ではなく、ほぼ一日中付き添うことができる日曜日にしてもらうことにしました。
初めての付き添いの介護で、思い知ったことが、いくつかあります。
一つは、介護には多かれ少なかれ技術が必要なこと。食事の世話一つとっても、排尿排便の世話一つとっても、家族でできることから看護婦の職業的な訓練を経なければできないことまで、さまざまなレベルで何らかの訓練とか慣れとかが必要になります。気持ちだけでは如何ともしがたいものがあります。
もう一つは、介護が単に直接的な世話だけではなく、患者と介護者との間でのある種生きる時間の共有といった側面を持つということ。土曜日の夕方二三時間で食事の世話をすればよいと思っていた僕は、実は大甘で、自分の普段の生活をかなり切り捨てる覚悟が必要だということを実感させられました。僕自身は気が付いていませんでしたが、姉や妹たちは、理屈ではなくある種本能的にそのような行動を取っていた節があります。
最後に、病院という制度が、それ自体として非常に管理的側面を持っていること。急いで付け加えますが、このことは、個々の医師や看護婦が大変な熱意と誠実さを持って事に当たってくださっていることを否定するものではありません。しかし、食事や検温の時に感じる非常に事務的に流れる時間、排尿や排便を含む、ある種のプライバシーの侵害と人間の尊厳の否定、といったことは、やはり否応なくお袋を苦しめ、お袋と家族とで共有する時間に侵入してくるのでした。

積極的治療を謝絶した時点で、家族からは、可能な限り長時間付き添って介護をするために、個室に移りたいという希望が出されていました。それはまた、お袋自身の強い希望でもありました。
十日あまりで、僕たちの希望は実現し、個室に移ることができました。しかしそれはまた、お袋と僕たち家族のマラソンが最終局面にさしかかっていることも意味していました。
個室に移ってからは、時間外面会許可を取って、可能な限り誰かが朝から夕刻まで付き添うようにしました。お袋の調子がいいときは比較的楽なのですが、体の不調を訴えたり、意識が混濁して言葉の意味が理解できないときは、二人きりの病室はかなりつらいものがありました。そのような折り、姉や妹が来てくれて、その場が三人になったとたん、お袋の意識が明瞭になったり、苦しみを紛らわしたりということが、再三ありました。お袋のベッドの脇で、家族が話し合うことにより、そこにある種の「場」がうまれ、それがお袋にプラスに働く、とでも言えばよいのでしょうか、不思議な体験でした。

時に、お袋の意識が混濁し、現在と過去の時間が混乱することがありました。そのなかには、造船技師であった祖父の影響と思われる船に乗っているという錯覚も混じっていました。僕や姉妹たちは、それを「おじいちゃまの意識が乗り移った」という共通の認識で捉えていました。いずれにせよ、このような時間の混乱は、僕にとってはそう悪いものではありませんでした。混乱というよりも、複線的に時間が流れているといった印象でした。その時間の流れに乗って、僕自身も自分の幼少時のことなどを、再体験したりしていました。
リンパ節の腫れのために体の節々に痛みを訴えるときなど、お袋の体をマッサージするのです。そうしていると、幼かったころ、家事に疲れたお袋の肩や腰などを揉んであげたことがよみがえります。それは、記憶などといったものではなく、そのときの手のひらの感覚そのものであり、そこにいるお袋と僕は、何十年も昔のお袋と僕なのです。
個室に移ったころから、だんだんと食事も喉を通らなくなり、点滴に頼るようになっていましたが、すりつぶしたリンゴは、最後まで好んで口にしていました。スプーンで少しずつ口に運んであげると、「おいしい」という言葉を発するのです。この感覚も不思議なもので、ああ、僕はこの人の乳房をすって育ったのだ、その人が今幼児に返って、自分が育てた息子から食べ物を与えられている。幼児に還っていくお袋の時間と、幼児から育っていく僕の時間が、鏡に向かって歩くときのように対照的に流れていくのです。

二月四日の日曜日。
午前中に、すったリンゴを少し。昼食のころ妹の朝子が、連れ合いと娘を連れて来てくれました。朝子がお袋を見てくれている間に、外で昼食。
午後、親父がやってきました。
親父は、年が明けてまもなく、お袋とよりも長く付き合ってきていたタバコをやめていました。それ以来、毎日のように病室にやってきては、自慢げに禁煙五日目だの十日目だのと、指でお袋に示していました。親父がタバコをやめたことは、僕や姉妹にとって、言葉では表せない喜びでした。それは、親父とお袋の和解そのものの象徴でした。
お袋を間に挟んで、親父と僕は、しばらくじっといすに座って、沈黙の時を過ごしました。永遠に続くかと思えるような静かな時間でした。
午後、腰を揉んだり足の裏を揉んだり。
夕刻、重湯、野菜ジュースなどの流動食を、スプーンで数杯。「おいしい。」
口をゆすぐ力もなくなっていたので、ぬらしたガーゼで、口の中を拭いてあげました。
面会時間が終わる七時が近づいていました。
「祈ろうか」
朝ミサの時に聞いたマタイ福音書の五章、世の光、地の塩のところを読み、一緒にゆっくりと主の祈りと天使祝詞三回を唱えました。
「そろそろ行くよ、またな。」
「ありがとう。」
僕がお袋と交わした最後の言葉になりました。

翌日、容態が急変。姉や妹たちが、交代で夜間も泊まり込みの介護を始めたそうです。僕は、九日の夕刻、携帯電話でいよいよ最後の時が迫っていることを知らされるまで、日常の多忙な時間の流れに引き戻されていました。
家族と共に病室に駆けつけたときには、お袋はすでに息を引き取っていました。朝子がしきりにお袋の顔をなで回していました。枕元にかすかに吐血か嘔吐の跡。僕たちのマラソンのゴールでした。
そう。不思議な満足感でした。悲しみはありませんでした。ほっとしたのとも違います。何事かをなし終えた満足感、親父も姉妹たちも含めて、その思いは共通のものでした。そして、それは何よりもお袋の思いであったに違いありません。
悪性リンパ腫の告知をしたときから、僕は常にお袋の信仰が試されていると感じていました。うまく死ねたらお袋の信仰は本物、取り乱したらそれだけのもの。お袋は、見事に自分の信仰を証ししてくれました。

朝子と雅子が、看護婦さんとともに、清拭に加わりました。薄く死化粧も施しました。主治医による死因等の説明。思えば、若き主治医の阿南先生も、循環器内科が無い市民病院で、本当によくやってくれました。時には、取り乱した妹のメンタルケアにまで付き合ってくれたこともありました。
遺体を自宅に移すために病院を出たところで、小雨の中を自転車で駆けつけてくれたマーチン神父にばったり。ここにもマラソンの力強い伴走者がいました。マーチン神父は、引き続き自転車で自宅にも来てくださり、お袋を囲んで家族と共に祈りを捧げてくださると同時に、葬儀社との打ち合わせにも加わってくださりました。
自宅には、もう一人の伴走者、シスター我妻も訪ねてきてくれました。マーチン神父とシスター我妻は、交代で毎日のように病室を見舞い、御聖体を授けてくださっていました。後から妹に聞いた話ですが、五日の月曜日に御聖体を届けてくださったシスター我妻は、聖体拝領の直前に唱える「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」というヨハネ福音書のなかの言葉をお袋が口にしたのをはっきりと聞かれたそうです。この言葉はまた、お袋自身の信仰宣言でもありました。
シスター我妻を中心に、またもお袋の遺体を囲んで祈りの時が持たれました。出棺までの三日間、幾度となくこのような祈りの時が持たれました。そして、その折りに唱えられる祈りは、決まって、シスター我妻が最後に耳にしたヨハネ福音書と、カトリックの信者たちがロザリオの祈りと呼び慣わしている主の祈りと天使祝詞、栄唱を組み合わせた祈りでした。
思えば、僕が病室でお袋と共に祈るようになったきっかけも、このロザリオの祈りでした。姉の話によると、個室に移ったころのある日、お袋はかなり苦しい思いをしており、姉も如何ともしがたい状態にあったそうです。このとき、お袋の口から「お祈りでもしようかね。」という言葉が出たそうです。何だか変な言葉ですが、苦しみの中で気を紛らわすために、日常のこととして祈りを選んだお袋の気持ちがよく表れていて、僕はこの言い方がとても好きです。
この時から、お袋とともに病室で祈ることが僕たちの日常となりました。そして、お袋の死後も、病室と同じように祈りの時が持たれるようになったのです。
祈りだけではありませんでした。僕たちは、お袋を囲んで思い出話に花を咲かせ、時にみんなで大笑いすることさえありました。幼いときから兄弟のようにして育ってきた従兄弟が家族と共に来てくれたと言っては笑い祈り、前に住んでいた神戸以来親子ともに親しくしてきた友人が夫婦で訪ねてきてくれたと言っては祈り笑い、二十年以上も昔の皆が家庭を持つ前の、一番にぎやかだったころの実家の生活が戻ってきたようでした。

通夜から翌日の葬儀ミサ、火葬に至る一連のことどもは、さながらウィニングランのごときものでした。ちょうど連休にかかり、僕たちの仕事関係の人々には連絡するにも連絡ができない状態にあって、教会関係者、お袋の友人たちを中心に、思いもかけぬ多くの人々が参加してくださいました。献花の折りに挨拶のため立っていると、僕の見知った顔、初めてお目にかかる顔、その方々のすべてが、何らかの形でお袋と時間を共有してこられ、その思い出を胸に抱いてくださっていることが、痛いほど分かりました。その中には、四半世紀にもわたって家族同然の付き合いをしてきた魚屋の夫婦もいました。孫娘たちが、お袋が生前好んでいたルルドのドロップをみなさんに配っていました。そう、みんなで人生のマラソンを完走した走者に心からの祝福を贈っている、そんな感じの式でした。
祭壇には、親父の喜寿とお袋の古稀を共に祝った際の、ツーショットで撮った笑顔がありました。

中野さん、これがお袋の死の顛末です。前にもお話したことがあると思いますが、お袋の闘病中に、柳田邦男氏の犠牲(サクリフィス)を感動を持って読みました。中でも、「二人称の死」という考え方で、自分の死でも他人の死でもない、ごく近しい人の死について論じられていた章には、大きな示唆を得ました。思えば、人の死とは、本来二人称でしか語りようがないのではないでしょうか。お袋は、きっと死の瞬間まで幸せだったに違いありません。自分でも死を受け入れ、その死への過程に二人称として付き合う家族とマーチン神父やシスター我妻をはじめとする多くの知人、友人がいたのですから。

不一
小林龍生

p.s.橋田さん、水越さんとは、次号を目指して建て直しをはかっています。水越さんの渡米の前に、懸案になっている橋田、水越二人の対面を実現できれば良いのですが。

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