ネットワーク社会でのルビの再評価 HTML、Unicodeに即して

ネットワーク社会でのルビの再評価
HTML、Unicodeに即して

《愚者の後知恵》情報処理学会情報メディア研究会報告の予稿。この研究会で、ルビを視覚的に捉えるか、あくまでも音声化して捉えるか、という点を巡って田中克彦氏(音声派)とシュテファン・カイザー氏(視覚派)が、発表者そっちのけで刺激的な論争をされた楽しい思い出がある。ちなみに、ここに記載されているHTMLの表記方式は、現在標準化されているものとは異なっている。
1998年11月
http://ci.nii.ac.jp/els/110002946980.pdf?id=ART0003301271&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1367141414&cp=

【和文抄録】
ルビは、主としてある表記に発音のヒントを付加する日本独特の表現方法である。漢語を初めとする外国語を日本語に取り込む際、意味の多重化、異化の作用を持つことにより日本語の多様化に重要な役割を果たしてきた。1996年の香港で開催されたInternational Unicode Conferenceにおける紀田順一郎氏の招待講演を契機に、ルビを inline annotation として捉えなおし、HTMLやUnicodeに取り入れていこうという動きが活発になっている。この過程で、日本語としての文化の特殊性と普遍的な機能との間での鬩ぎ合いが顕在化している。
【Abstract】
Ruby is used frequently in Japanese to indicate the pronunciation of Kanji character. Mr. Jun’ichiro Kida made keynote address about Ruby in 8th International Unicode Conference, Hong Kong, March 1996. This address aroused new movement to standardize Ruby in HTML and Unicode as “inline annotation”.

最近、遅蒔きながら井上ひさしの『吉里吉里人』を文庫で読んだ。この本自体、本日の研究会のテーマである『ことばとグローバリゼイション』の問題を考える上で、非常に示唆に富んでいると思う。筆者自身、Unicode Consortiumに係わったことを契機として、さまざまな形で国際的な情報交換用文字コードの策定に携わってきた過程で、『ことばとグローバリゼイション』の問題を少しは考えてきたつもりでいたが、井上氏のこの小説には非常に大きな感銘を受けた。特にこの作品が、夙に昭和56年、すなわち1981年に発刊されていることを考え合わせると、その問題意識の新鮮さは驚異ですらある。この小説を読まずに『ことばとグローバリゼイション』の問題を軽々に論じていたことに、忸怩たる思いを抱いた。

この小説から得たものは非常に多いが、望外の収穫は、文庫版の解説を大学時代の恩師、由良君美氏が執筆しておられたことだ。中に、ルビについての言及がある。

 漢字にふりがな。「ルビ」という日本語の特殊な修辞力を、わたしは説いて久しいが、井上ひさしは、東北弁の修辞力の驚くべき今日的活力を、この作品のなかに、〈ルビ〉によってものの見事に実現してくれたのである。方言の尊厳のために、またルビの修辞的秘儀のために、井上ひさしのこの傑作を読んで下さる人とともに、わたしは乾杯したいと思うのだ。として、古いの文句をそえて---
《吉里吉里、千歳栄、白衆等……》(新潮文庫版p.519)

ここで由良氏が「『ルビ』という日本語の特殊な修辞力を、わたしは説いて久しいが」と言及しているのは、おそらく「《ルビ》の美学」(『言語文化のフロンティア』昭和50年、株式会社創元社刊所収)という評論のことだと思われる。以下、この評論に従い、日本語におけるルビの歴史を概観することとする。しかし、由良氏の博覧強記ぶりはこの評論においても例外ではなく、単純な要約は不可能である。興味をお持ちの方は、元評論に直接当たっていただくようお願いしたい。

自身幼少期の祖父の家での「ルビ屋さん」「検印屋さん」の思い出に引き続き、由良氏は、ルビの根を日本語の漢字採用時にまで遡って説き起こす。

「ルビの根は、日本語の漢字採用とともに古い。ここは音読すべきか、ここは訓読すべきかを指定する、古事記式割注とともに。そして、経文にみられる古訓点本の仮名の発達とともに、日本語独特の意味論的性質をかかえこんでゆくことになった。」(前掲書p.100)

 

ルビは、音読か訓読かを指定するための記号にとどまるものではない。ルビは日本語に独自の表記法といってよいが、その祖型は、もとより、中国に求めることができる。たとえば、契丹文字の判読に悩んだ古代中国人は、契丹文字の脇に、対応する漢字を小書きして読解の助けとしていたことは、出土資料によって明らかであろう。(同書p.100)(下図)


次いで由良氏は、黄表紙本の鼻祖恋川春町作『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(下図)を例に、「漢文脈と和文脈との間に平行して作りだされる緊張関係」にある「ルビの面白さ」を解き明かしていく。

「文に曰く 浮世(ふせい)は夢の如し 歓をなすこといくばくぞやと 誠にしかり」は、一応、李白の詩「浮世ハ夢の如シ。歓ヲ為スこと幾何ゾヤ」を基にしており、「誠にしかり」と応ずることで、一知半解の読者をもまず良い気にさせるのである。この読者の知識を高く仮定するかのように見せて、心を一旦くすぐっておきながら、次第にあやふやなこじつけに移行し、全篇を支配する故事の滑稽な今様解釈という主題展開に、いつの間にか乗せてしまうのが狙いなのである。(同書p.105)

 

「一すひ」は、原語そのもののもつ〈一炊〉→〈一睡〉の掛け言葉から成りたつ寓意性を、読者に分からせるための故意の仮名がきであり、解釈上の微妙な方向づけを孕むことに注意されねばなるまい。(同書p.106)

ルビを契機とする由良氏の連想はさらに羽ばたく。

「漢字の持つイメージの喚起力は、まずフェノローサを感動させ、彼の研究を通じてエズラ・パウンドの詩法を産み、エイゼンシュテインの映画のモンタージュ理論の産婆となり、シクロフスキーのフォルマリズム詩学の異化理論の影の力になってきた。」(同書p.110)「まず漢訳し、つぎに邦訳する一種の〈ひとり重訳〉とでもいうべき二重手続きは、読解法としてみるとき、恐ろしく古臭い感じがするが、創作法として考え直してみるとき、それはシクロフスキー理論そのものといいたいほどの超前衛的な側面を示してくる。」(同書p.112)

 

 この〈ひとり重訳〉法が創作法に転化されたところに生れたのが、歌舞伎のであり、黄表紙滑稽本表題であり、それが本文内容構成まで深くしばりながら、高度のデザイン化を促すところに生じたのが、江戸文学のグラフィック・デザインであるといえよう。(同書p.113)

 

わたしが関心を持つのは、この成立史の問題をさらに大きく包み込んで、江戸期を現時点につなぐ、いっそう基底的なものである。それは、たとえば「」(南北)から「」(有人)を経て「」(野坂昭如)につながる、或る表題発想のしかたである。(同書p.113)

さて、由良氏の議論が野坂昭如に至ったところで、「ルビの美学」の紹介は、ひとまず措くこととする。しかし、論者にとってこの恩師の評論は記憶の根底に、深く残っていたものと思われる。この評論を読んだのは、発行されてすぐのことと記憶しているので、1975年ごろとのことと思うが、それから20年ほども経った後、紀田順一郎氏との雑談の折りに、忽然としてこの評論を思い出すこととなる。

紀田氏とは、氏がジャストシステムのユーザー誌「モアイ」に日本語に係わるさまざまな評論を連載されていたこともあり、ATOK監修委員会の座長をお願いしたことで、親しくおつきあいさせていただいていた。その折の会話。

「今度、モアイでルビのことを取り上げようと思うのですよ」

「そう言えば、学生時代の恩師にルビについて論じたものがありましたよ。今度探しておきます。」

このような会話が契機となって、氏の「ルビという小さな虫」(『日本語発掘図鑑』、1995年、ジャストシステム刊)の中に、由良氏の「ルビ屋さん」の挿話が取り入れられることになった。

紀田氏の評論は、現在でも書店で簡単に入手することが可能なので、詳細は実物を参照していただきたい。

1996年春、香港で第8回International Unicode Conference が開催された。ジャストシステムが日本からは唯一の正会員としてUnicode Consortium に参加していた関係で、アジアで最初の本格的なユニコードの国際会議にふさわしい招待講演者の推薦を依頼された。

論者は、迷うことなく紀田氏を推薦し、ご本人からも快諾をいただいた。その折りのテーマとして選ばれたのが「ルビ」だった。

紀田氏の講演は予想を上回る好評をもって迎えられた。理由はさまざま考えられるが、ユニコードにより漢字圏の言語を表現する基盤がようやく整い始めた段階で、ある言語(おそらくはすべての言語)が持つ文化的な複雑性を、ルビが象徴的に垣間見させたことにあるのではないかと思われる。

「ルビ」は、香港会議である種のブームを巻き起こし、このメカニズムを単に日本語に留めるのみならず、他の言語にも応用することが出来るのではないか、といった活発な議論が行われた。

中でも、HTMLのi18nに関して、活発な発言を行っているMartin Duerst(当時はチューリッヒ工科大学、現在は慶應義塾大学でW3Cの専任)は、特に熱心に紀田氏への質問を投げかけ、いささか論者らを辟易させたりした。

直後、Martin は、”Ruby in HTML”(http://claude.ifi.unizh.ch/groups/mml/people/dmuerst/rubi.html) という文章をインターネット上で発表する。

このMartinの文章がきっかけとなり、日本語のルビをどのようにHTMLで扱うか、また、ネットワークに流す文章に取り入れていくか、という議論がi18nに係わる人間たちを中心に議論されるようになり、現在もその規格化に係わる議論は継続している。

さらに、Unicode Consortiumの副社長であるAsmus Freytag が、”Support for Implementing Inline and Interlinear Annotations”(L2/98-055, For UTC Consideration Only)というプロポーザルをUnicode Technical Committeeに提出し、ルビの議論は文字コードの世界にまで入ってきている。

因みに、ルビの語源がイギリスの印刷業界において5.5ポイント活字を表す伝統的なジャーゴンに由来していることもあってか、最近ではRubyと表記して日本のルビに限定されない広い意味での inline annotation を表す言葉として定着し始める兆しが見える。

先の由良氏の評論からもうかがえるように、ルビにはさまざまな機能がある。

現在もっとも一般的なルビの理解は、「ある漢字列にひらがな列でその読みを与える」といったものであろう。しかし、由良氏述べているように、ルビにはその出自当初から意味の多重化、異化作用が本質的に含まれていたのではないか。
例えば、船戸与一の『蝦夷地別件』には、漢語の熟語にアイヌ語の読みをルビで振った例が頻出するし、最近話題になった馳星周の『不夜城』なども、同じ漢語に福建語や広東語の読みを振るようなことをしている。現代のミステリーや冒険小説の作家が、ごく自然なこととして、ルビが持つ表記と音との異化作用を活用しているという事実からも、日本語表現におけるルビの役割の重要さが認識できよう。
こういった意味も含め、ルビを単なる発音ではなく、inline and interlinear annotation として捉えた、Martin や Asmus の発想は、ルビの再評価という意味では、ある一定の評価をすることができよう。
では、このルビをコンピューター上で表現するためには、どうすればよいか。最後に、Martinのプロポーザルに即して、ルビをコンピューターで表現する際の問題点を指摘しておく。
彼は、ルビをHTMLで表現する方法が二通りあるという。
・Ruby as an Attribute

小林こばやし
<SPAN RUBY=”こばやし”>小林</SPAN>
<EM RUBY=”こばやし”>小林</EM>

ばやし

   <SPAN RUBY="こばやし">

              <SPAN RUBY="こ">小</SPAN>

              <SPAN RUBY="ばやし">林</SPAN>

   </SPAN>

・Ruby as an Element
小林こばやし

<RUBYBASE>小林</RUBYBASE><RUBY>こばやし</RUBY>
<RUBYBASE>小林<RUBY>こばやし</RUBY>

ばやし
<RUBYBASE>小</RUBYBASE><RUBY>こ</RUBY><RUBYBASE>林<RUBYBASE><RUBY>ばやし</RUBY>

<RUBYBASE>小<RUBY>こ</RUBY><RUBYBASE>林<RUBY>ばやし</RUBY>

ルビをアットリビュートとして扱う場合と、エレメントとして扱う場合の顕著な相違は、一見して分かるように、アットリビュートとした場合は、ルビの振る舞いを知らない処理系は、その部分を読み飛ばすのに対して、エレメントとしてあつかった場合は、タグの部分だけが読み飛ばされるために、意味不明の文字列になる場合がある点である。
この中間的なケースとして、タグの意味は知っているがレンダリングの機能としてルビを実装していない場合、同一行にパーレンでくくってルビ文字を入れるという妥協案も考えられる。

小林(こばやし)
小(こ)林(ばやし)

ルビをHTMLなどのマークアップ言語で表現する議論に関して、論者は肯定的かつ積極的である。しかし、議論が文字コードとなると、問題が異なってくる。
UTCに提案された最新の案は、HTMLの表記で置き換えると

<RUBYBASE>小林<RUBY>こばやし</RUBY>

のタイプに相当する、<RUBYBASE><RUBY></RUBY>という3つのタグに対応するコードを決めてしまおう、というものである。
先にも述べたように、ルビ記号を知らない処理系は、ルビ記号を読み飛ばして、ルビに相当する文字コードは残してしまう。
以下に、論者がサンマイクロの樋浦秀樹氏、アップルの木田泰夫氏と共同でUTCに提出した意見書”Suggestion to the inline and interlinear annotation proposal”から、ルビを本文に混ぜ込んでしまった場合の文意の変化のいくつかの極端な例を挙げておく。

彼の名前は出羽内ではない
彼の名前は出羽内ではない。

羽虫はむしです。
葉虫はむしです。

いいはなしです。
いい話はなしです。

はなしにならない。
話はなしにならない。

これらの例は、UTCの中で、ルビタグを熱心に推進していたマイクロソフトを中心とするグループには、かなり大きな打撃となったようだ。7月のUTCにおいては、侃々諤々の議論を経て、ルビタグに関しては、ネイティヴスピーカーを含むアドホックミーティングで再検討することとなった。

ともあれ、明治期に文明開化と共に日本に渡来したルビという言葉は、紀田順一郎氏の香港での講演を機に、情報技術の世界で日本を越えた議論の対象になっている。日本独自の文化として発展してきたルビの美学が、inline annotation という新たな意味づけを獲得して国際的に発展していくか、日本語の固有性を誇示しながら取り入れられていくか、状況はまだまだ予断を許さない。各位の主体的な関わりを期待する所以である。

 

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