阿辻さんの『漢字再入門』(中公新書)

阿辻哲次さんが新著『漢字再入門』(中公新書)を送ってくださった。香港に来る飛行機の中で読んだ。特に読みたかったところが、2時間目の「とめ・はね・はらい、ってそんなに大事なの?」という章。我が意を得たり、というか、よくぞ言ってくれた、という感が強い。

この本の流れの中では、特に、初等教育における行きすぎた字形の細部への拘りへの継承なのだけれど、この議論を行政の現場に移しても、そのまま通用するように思われる。

いくつか、心の中で快哉を叫んだところを引用すると。

「あえて失礼なことを言わせていただければ、漢字の筆画で『はねる・はねない』などにこだわる先生は、『厳しく指導している』のでもなんでもなくて、どのように書くのかが正しいのか自信をもって指導できないから、単に辞書や教科書の通りでないと正解にできないだけのことなのです。」

「『はねる・はねない』とか、『交わる・交わらない』など、非常に細かい差にこだわる先生方は、『常用漢字表』に述べられている『デザイン差』に関する記述をきっとご覧になったことがないのだろうと思います。」

IRGの場でも、この手の議論が、延々と続くことがある。阿辻さんも書いておられるように、「はねる・はねない」の違いで大きく意味が異なる場合もある。しかし、大方は、書体やフォントによるまさにデザインの相違であったり、手書きの文字を明朝体のデザインにする際の揺れだったりする。ちなみに、現在の改定常用漢字表には、明朝体のデザイン差についての記述と共に、「明朝体と筆写の楷書との関係について」という記述もある。

IRGでは、文字の同定は基本的に、ISO/IEC 10646のAnnex Sに記載されているいわゆる”Unification Rule”を用いているのだが、ぼくは、どうもこの名称が議論をミスリードしているように思えて仕方がない。むしろ、同一視するための規則を並べるよりも、同一視してはいけない場合を明確にするための規則を並べた方が分かりやすかったのではないかということ。いわば、「情報交換や社会生活の上で区別して扱う必要がある差異以外は区別しない」というごく当たり前の考え方。文字だって、情報処理的にも言語学的にも記号そのものなのだから、原点に立ち返って、区別するための単位(すなわちビット!)という観点から考え直した方がいいと思うのだ。

阿辻さんの本を読みながら、改めてそんなことを考えた。

 

 

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