香港で観るホフマン物語

香港滞在の最後の晩。オッフェンバックのホフマン物語を見た。

英子ちゃんが所属している香港シンフォニエッタがピットに入っていた。

このオペラを、ぼくは存分に楽しんだ。

じつは、行く前はちょっと不安があった。もう何年も、一人でオペラを観に行ったことがない。いつも妻と一緒。多分、最後に一人で来たオペラは、バーレンボイムが指揮をしたベルリンドイツオペラのワルキューレ。もう、何年も前のこと。そのときは、ちょっと寂しい思いをした。今回も、一人でオペラを観て、楽しめる自信がなかった。

杞憂に終わった。ぼくは、十分楽しんだ。

演出はとてもよかった。屏風のようなスクリーンに映し出されるシルエットがすごく効果的だった。オペラが始まる舞台となるレストランがそれぞれの幕でも存在感を残しており、特に、椅子の使い方が秀逸だった。オーケストラと歌のコンビネーションには最初の方で少し違和感を覚えたが、そのうち気にならなくなった。歌手陣は、まあ、出来不出来はあったとしても、決して決定的な破綻に至るようなことはなかった。

しかし。そんなことは、どうでもいい。問題は、楽しめたかどうか。

ヨーロッパに旅行してオペラを観るとき、いつも感じることがある。オペラは劇場だ。同じことは歌舞伎にも言える。金比羅宮近くの金丸座で観る歌舞伎と、東銀座の歌舞伎座で観る歌舞伎は決定的に違う。たとえ、同じ演者が同じ演目を演じても違う。そして、近ごろこけら落としをした新しい歌舞伎座でも違うに相違ない。

同じようなことは、絵画にも言える。国立博物館で観たレオナルドの受胎告示と、旬日を経ずにウフィツィ美術館で観た受胎告示は、ほとんど別の作品に思えた。

ぼくが観たオペラは、紛う方なく香港のオペラだった。中国語と英語の字幕が両方出ていた。隣に座っていた老カップルの夫人の方は、はっきり分かるブリティッシュイングリッシュだった。着飾った西欧人と東洋人がともにいた。歌手も、東洋人と西欧人が混ざっていた。オケピットには、日本人の英子ちゃんと中国人の夫君ルー君がいた。そして、ぼくは、旅行者として、このオペラを観た。

どう表現すればいいのだろう。突飛な言い方だけれども、ぼくは、ある種の懐かしさを覚えていたのかも知れない。ぼくは、何度かホフマン物語を見ている。ホフマン物語はやったことはないけれど、いくつものオペラのピットにアマチュアプレーヤーとして入っている。そして、日本でもヨーロッパでも、数限りなくオペラを観ている。懐かしさと言うのはもしかしたら、そういうことなのかも知れない。即ち、ぼくが生きてきた歩みの中にオペラ鑑賞というのは、少なからぬ比重を占めている。そして、今日観たホフマン物語は、そんなぼくの歩みに、確実に一つの記憶として刻み込まれる。

オペラの後で、英子ちゃん、夫君のルー君、そして同じオケでホルンを吹いているますみさんという素敵な女性とちょっと呑んだ。たまらなく楽しかった。そう、ぼくは、香港の最後の夜をものすごくリラックスして過ごしたのだった。

また来よう。そして、英子ちゃんたちの音楽を聴こう。

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