「紙」の役割を代替できるか、できないか
-電子書籍コンソーシアムの目指すもの-
ブックオンデマンド実験の概要
特集「出版メディアの現在と未来」に当たって『新聞研究』編集部から与えられたテーマは、「『電子書籍コンソーシアム』の目指すもの」というものだった。編集部からの依頼状に、以下のような記述がある。
特に流通面では、ダイレクトに読者とつながることが可能になり、書籍流通に相当大きな影響を及ぼすと思いますが、現行の流通ルート、取次会社や書店はどう変容するのでしょうか。また人々の読書スタイルや、紙から電子へ、作り手側の変化はどのように起こるでしょうか。そしてなにより、「紙がなくなる」ということが出版文化に本質的な変化をどう及ぼすのか、参加出版社はこの構想に何を期待し、また何を大事に考えて、取り組まれようとしているのかについて、改めて伺いたいと存じます。
電子書籍コンソーシアムと、当コンソーシアムがJIPDEC(日本情報処理開発協会協会)との請負契約に基づいて行う「ブック オン デマンド 総合実証実験」については、御協会傘下の新聞社の何社かにも会員会社としてご参加いただいており、何よりも幾度か紙上でも取り上げていただいているので、長く繰り返すことはしない。
簡単にまとめると、以下のようになろうか。
- 従来の電子出版物制作経験を踏まえ、通読系の書籍、特に出版界で流通量としても大きな比重を占めるマンガにも対応できるメディア=システムにする
- 読者の代弁者としての編集者が納得のできるレベルの可読性を求める
- 従来の紙の出版物の大きな特色であった可搬性を可能な限り確保する
- 制作過程で検索などの機能をいたずらに追求することなく、リーゾナブルなコストで短期間に大量のコンテンツを電子化することを目指す
- マンガなどの画像データへの対応、文学作品などに多く含まれる情報交換のための技術では扱いが困難な多様な漢字表現への対応を踏まえ、既存書籍を画像として取り込む方式を基本とする
- 画像データでも可読性を損なわない高解像度の液晶ディスプレーの利用を基本とする
- 画像データの問題点である膨大なデータ量に対応するため、衛星通信や光ファイバーなどの大容量通信手段を用いる
- 大容量通信手段の普及度を勘案し、書店店頭、コンビニエンスストアなどに販売端末を設置する
以上のような基本構想の下に、実証実験の終了期限である2001年1月までの短期的なゴールとして、5000タイトルのコンテンツ電子化と、実験用携帯読書端末の開発、通信衛星から販売端末までを含む電子配信システムなどのシステム開発を平行して行っており、中長期的には、電子出版用の電子フォーマットの国際標準化、電子出版物の著作権処理に関わる諸問題の整理解決などに取り組んでいる。
概要については、以上のようなものであるが、これでは編集部の注文への回答になっていないことも、重々承知している。本論の読者が、新聞業界といういわばお隣の業界の関係者という前提で本音を語らせていただけば、質問していただいたそれぞれの項目への回答が既にして存在するぐらいなら、誰も実証実験なども行わず、コンソーシアムなどという曖昧な組織で議論をすることもなく、とうの昔に積極果敢にビジネスに討って出ていますよ、とでもいったことになろう。
以下は、これら、未だ結論を得ていない”Good Questions”の若干に対する、筆者なりの問題提起である。
電子的な読書環境の貧困さ
第一の問題。読みやすい紙面ないしは版面は、内容によって変化するか?
まず、素朴な質問をさせていただこう。一般の新聞では、通常の記事の場合、1行の文字数は12文字なのに、連載小説はなぜ1行22文字に、社説は1行19文字になっているのだろうか。(手近にある朝日新聞の場合)
もう一つ。NetscapeやInternet Explorerなどのブラウザーは、なぜ、欧文に比べ(特に長文の)和文が読みにくいのだろうか。
前者については、おそらくはこの「新聞研究」の読者諸兄の方が、筆者よりもずっと詳しくその理由をご存じのことと忖度する。
後者については、筆者なりに理由の一つを理解しているつもりでいる。すなわち、現今のブラウザーは、欧文フォントのデザイン設計を基準に開発されているので、和文行間への配慮が著しく欠如している、という点である。もう少し、詳しく述べる。
ラテンアルファベットは、そのデザイン設計上、”y”や”q”など、ベースラインから下にはみ出すものがあるため、ベースラインの下にもう一本、ディセンダーラインを想定する。そのため、ラインスペースをゼロ(いわゆるベタ組)にしても、ある程度の可読性を確保できる。
それに対して、和文の場合、1行の高さ全部を使って、方形にタイポグラフを設計するため、ベタ組にすると縦横の区別が困難になり、著しく可読性を阻害する。
言うまでもなく、この議論は、WWWのブラウザーの問題であるが故に、当然のことながら、横組みを前提とした議論であり、縦組みの議論などは、論外である。
筆者の友人に、世界規模で占有率最右翼のブラウザーの開発に携わっているエンジニアがいるが、彼の話によると、このブラウザーは、対応する言語すべてのヴァージョンを一つのソースコードで同時に開発しているという。このような状況の中で、明治以降、日本の出版人、印刷人が営々と築きあげてきた文字設計、組み版の技術を、電子的な媒体での読書に反映させることは、可能なのだろうか。
このような次第で、紙面設計、版面設計一つを取っても、解決すべき問題は、多岐にわたる。
- 紙の印刷物とCRT、LCDでの表示は、同じイメージでよいのか。CRTとLCDでもデザインを変える必要があるのではないか
- フォントの設計は、どうするべきか
- 縦組みと横組みの使い分けはどうすべきか
- 地球規模のアプリケーション開発競争の中で、日本(語)の歴史と文化に根ざした要求をどのように反映させればよいか、そもそも、それが可能か
- メディアの変容とともに(かつて、活版印刷から写植+オフセットに変化した折り、版面設計のポリシーが変化したと同様)、あらたな画面設計のポリシーを創出すべきではないか
実のところ、このような議論は、まだ、ほとんど緒にもついていないような状況にある。新聞の連載小説は、単行本として上梓される際は、おそらくは、1行、42文字から43文字程度、1ページ17行から18行程度の版面で組み直されることだろう。紙で発行される紙誌、書籍の紙誌面、版面の多様性に比べ、現状での電子的な読書環境の貧困さは、覆い隠すべくもない。何よりも、メジャーなブラウザー環境は存在しても、メジャーなリーダー環境は未だ存在していない。
新聞の報道記事のためのブラウジング環境、社説のためのリーディング環境、小説のためのリーディング環境、それらについての、真剣な議論を巻き起こしていく必要があるだろう。
こうした中で、電子書籍コンソーシアム発足の直接的なきっかけが、シャープによって開発された高解像度モノクロディスプレイだったことは、故なしとはしない。
プロジェクトの関係者たちは、この液晶の精度の表現として、「ガラスに印刷したような」、「ルビまで読める」という言い方をしている。この液晶の175dpiという密度は、一般的な人間の目の解像度にちょうど相当し、比較的高品質なオフセット印刷やグラビア印刷のスクリーニング用マスクの線数とも一致している。
少なくとも、液晶の解像度という点で、技術は、紙の印刷物が人間の知覚能力との関係で築き上げてきた地点に到達したのだ。技術の新規性を喧伝することによって、表現力の貧弱さを糊塗する必要がなくなったのだ。それぞれの長短、特徴を、平等に検討できるスタートラインに立ったとでも言えようか。
「変わらねば」-書店の危機感
紙幅も限られている。もう一点だけ問題提起させていただく。流通、特に書店について。先日来、各地の書店組合、複数書店で構成される私的な研究会などに、何度かお招きいただき、電子書籍のプロジェクトに関して意見を交わす機会があった。その折り、共通に感じたのは、書店の方々のある種の危機感を背景とした熱心さ。もう少し正確を期すなら、紙の書物を読むという習慣と書店に出向いて書物を購入するという習慣の長期低落傾向の中にあって書店そのものが変貌しなければ生き延びていけないのではないか、という大きな問題意識の中で、電子書籍のプロジェクトを捉えられていた、ということになろうか。 中にストレートな質問をする方がおられて、
「結局は、本屋なんていらへんやないか」
などとおっしゃり、返答に窮したこともあった。
実際には、5年や10年で紙の書物が市場から消滅するとは考えられないし、古書市場まで含めて考えれば、紙の書物は、これからも数百年、数千年の単位で、文化と歴史を支え続けることになると思われる。
希望的観測で言えば、紙による読書と異なる読書手段を提供することによって、一部、紙から電子への読者の移行があるとしても、読書機会の増大による新たな読者の増加により、総体としての市場規模そのものが若干拡大するのではないか。
しかし、このような杓子定規な答弁とは別のところで、書店の現場の方々は、書店が変わらなければ生き延びてはいけない、と強く肌で感じておられることもまた事実であろう。
20年あまりも前、かつて筆者が駆けしの児童雑誌編集者であったころ、取材などでローカル線の駅に降り立つと、駅前には必ず本屋があり、その隣に定食屋があった。本屋で自分が編集している雑誌が店頭にあることを確かめ、隣の定食屋でカレーライスを掻き込み、駅前に止まっている二三台のタクシーの一台に目的の小学校名を告げる、というのが取材のスタートのいわば定型だった。筆者の記憶の景観の中で、これらの書店は、鉄道の駅舎と一体となって、異なる世界へのゲートウェイのような空間を構成していたように思う。いや、駆け出しの編集者の立場から言えば、見ず知らずの土地に迷い込みながらも、列車に飛び乗れば、すぐにでも東京に戻れるし、何よりも自分が編集した雑誌がそこにあることによって、この見知らぬ土地が自分の日常と繋がっているのだという安心感を抱くことが出来たのではないか。
これらのいくつかの駅前書店が、今はどうなってしまったか、筆者には知る由もない。一方、この20年ほどで爆発的に増加したのは、いわゆる郊外型の書店であり、その増加はファミリーレストランの増加と軌を一にしているように思われる。
昨今の筆者は、休日の昼下がりなど、家人に粗大ゴミ呼ばわりされることを避けるため、このような郊外型書店のいくつかを梯子したりもする。そこには、相哀れむべき同類が多々見受けられる。
ともあれ、書店とは、単に書籍を購う場所ではなく、自分と世界を結ぶ接面空間のような存在のように思われる。世界の空気を嗅ぐために書店に出向く、とでもいえようか。
新聞のことにも触れねばなるまい。新聞配達。毎朝、郵便受けに届けられる新聞は、確かにさまざまな記事や情報を運んでくる。しかし、それと同時に、「ああ、今日も自分は世界の中で生きて存在している」という社会とのつながり感も運んでくるのではないか、新聞休刊日に空の新聞受けを覗いたときに抱くある種の空虚感は、逆説的な形で配達された新聞が持つ自分と世界とを繋ぐ力を表しているのではないか。
大きな事件の折りなど、ターミナル駅の駅頭などで配られる号外なども、記事そのものの内容とともに、「号外が発行された」「号外を手に取る」という出来事、行為自体に、大きな意味合いがあるのではないか。
このように考えたとき、電子的な書物、電子的な新聞が、どのような形で、書店の役割や新聞配達の役割を代償できるか、もしくは、代償できないかは、それほど簡単な問題ではないように思われる。
期待される現代の“アルダス”
新しいメディアは、常に古いメディアのメタファーとして出現する。旧メディアの共通点をとば口として、社会に受け入れられていく。新規性だけでは、メディアの成功はおぼつかない。しかし、新規性がなければ、そもそも「新しいメディア」を標榜するわけにもいかない。この相反する要素にどう折り合いを付けていくか、今までの議論を反芻してみると、編集部からの “Good Questions” は、すべてこの点に係わっていたように思われる。
かつて、グーテンベルクは、42行聖書を制作するに当たり、大きさといい、リガチャの用い方といい、能う限り従来の写本の技術を継承することを目指した。グーテンベルクが作ろうとしたのは、いわば、写本の模造品ではなかったか。技術の革新性について云々しているのではない。インキュネブラ時代に活版印刷技術がヨーロッパ全土に拡がっていく速度は、目を見張るものがある。まさに燎原の火といった趣である。しかし、聖書が真に民衆に普及し、宗教改革へのエネルギーを蓄積させるには、アルダスによる馬の鞍に挟める小型聖書の発意を待たなければならなかった。アルダスは、読書の習慣そのものを変革することにより、ヨーロッパ近代の大きな礎を築いたのだった。
グーテンベルク革命以来の大きな変革の時期にあって、今、待望されているのは現代のアルダスなのかもしれない。