身体感覚と新デバイス技術

身体感覚と新デバイス技術

《愚者の後知恵》JEITAの委員会での報告を元とした論考。このあたりの議論は、もう少し発展させたいなあ。
2000年03月
「次世代コールドエミッション技術の調査研究」 平成12年3月 新エネルギー・産業技術総合開発機構 委託先:社団法人 日本電子工業振興協会 所収

0.はじめに
以下の論考は、1999年12月2日に、仙台ワシントンホテルで行われたコールドエミッション制御技術・応用技術合同分科会の機会に行った報告を基とし同委員会の要請を受けて、報告書に掲載することを目的としてまとめたものである。
ハードウエアの先端的技術研究者の集団が、先端的要素技術の実用化、製品化を検討する際の参考にしていただければ幸いである。

1.技術受容の社会構成主義
1.1.メディアの社会構成主義

社会学、メディア論の研究者の一部に、「メディアの社会構成主義」を標榜するグループがある。彼らの主張を端的にまとめると、「あるメディアが社会に受容されるか否かを決するのは、そのメディア自体の技術的な要件ではなく、社会的な要因である」ということになる。
このような主張に基づいて表された優れた研究所として下記の2点を挙げておく。

  • 吉見俊哉他『メディアとしての電話』(弘文堂)
  • 水越伸『メディアの生成 アメリカ・ラジオの動態史』(同文館出版)

ともに、東京大学社会情報研究所を拠点とする気鋭の研究者のグループに属する人たちによる研究だ。
ここでは、水越の『メディアの生成』に依拠して、簡単に彼らの主張を紹介する。
現在の中波無線による放送は、当初、現在の短波によるアマチュア無線のように、双方向の通話に用いられていた。一方、ワイヤードの電話を、有線放送のようなブロードキャストに用いていた例も多くあった。
中波無線が一方通行の放送に用いられるようになったきっかけは、あるアマチュアミュージシャンのグループが、毎週曜日と時間を決めて、自分たちの演奏を流し始めたことにある。この演奏が評判になり、もっぱら演奏を聴くためだけに通信機を買い求める顧客層が生まれてきた。このアマチュア楽団のメンバーの一人が属していた電機メーカーがこの層に目を付けて、受信専用の無線機を発売して、大ヒットした。同時に、番組(プログラム)の送り手を支援するスポンサーも現れた。
ラジオ放送は、その出自の最初から、情報の送り手と聴衆、それにスポンサーという、現在の商業放送の原型を見事に獲得していた。

水越によるラジオ「放送」の発生にとどまらず、このようなパターンは、多かれ少なかれ、革新的なメディアの登場に必ずのように付きまとう。
ソニーによるウォークマンの誕生など、その典型的な例で、録再可能な小型テープレコーダーから、録音機能を取り除いて再生専用として、それに軽量なヘッドフォーンを組み合わせることにより、それまでには存在していなかった全く新しい生活様式を出現させることとなった。
家庭用ビデオデッキの普及と、ビデオのレンタルショップの普及も、同じような論点から論じることができるだろう。

1.2.規格の社会構成主義
筆者らは、ここ数年、電子協の電子化文書動向調査専門委員会を舞台に、「規格の社会構成主義」といった立場から、さまざまな調査研究を行ってきた。(http://www.jeida.or.jp/committee/ed/index.html)
当然のことながら、この発想の背景には、「メディアの社会構成主義」から受けた大きな示唆がある。
要は、メディアの普及が社会的な要因によって左右されるものであるのならば、規格の普及にも、社会的な要因が大きく係わるであろう、という問題意識である。
このような問題意識に基づき、広い意味でのデジタルドキュメントに関するさまざまな電子文書規格やシステムの策定・開発・普及に当事者として係わった方々をお招きして、成功談、失敗談をうかがい、事例研究を積み重ねた。
その結果、ある文書規格やシステムが社会に受容されるための共通の必要条件がいくつか存在することが分かってきた。端的にまとめると、以下のような形となる。

    ・策定・開発の当事者が自信と確信を持っていること。要は右顧左眄ではなく、ある種の確信犯として明確な意図を持って策定・開発に係わることが必要である。複数の視点の妥協からは、革新的かつ社会に受容される規格・システムは誕生しない。・規格・システムの熱心な支持者層が存在する。いわば、サポーターといったものだが、当事者がいくら騒いでも、それを指示する人々が存在しないことには、ことは始まらない。昨今の、Linuxの急速な普及など、このサポーターの存在抜きには考えられない。・エンドユーザーの潜在的な欲求に合致している。これも当然と言えば当然だが、どれほどマニア受けしても、エンドユーザーに受け入れられて、初めて普及ないしは社会的受容が完了するのである。 技術的にどれほど優れたメディア・規格・システムであろうと、これらの条件が満たされなければ、普及はおぼつかないわけである。逆にいえば、これらの条件をすべて満たしていたからといって、必ず普及するとは言い切れないところが辛いところなのだが。

1.3.「作る人」「担ぐ人」「使う人」
新しい要素技術を製品として生かしていこうと考えるとき、上記の「作る人」「担ぐ人」「使う人」といった視点から、それぞれ検討してみるだけで、一つの視点からは思いもつかなかった問題点が明確になることが、多々あると思われる。
いわば、「作る人」としての確固たる信念を持った上で、「担ぐ人」「使う人」の立場にも立てる柔軟性が必要、ということになろうか。

2.身体の外延としての道具を目指して
2.1.ハイデッガーの道具論

東京大学教育学部の佐伯胖とスタンフォード大学のテリ-・ウィノグラードが、共通してハイデッガーに依拠したインターフェース論を展開している。(「コンピュ-タと認知を理解する 人工知能の限界と新しい設計理念」 テリ-・ウィノグラ-ドフェルナンド・フロレス /産業図書)

この論点も筆者なりに簡単にまとめておく。
たとえば、金槌でくぎを打っているとき、金槌はいわば手の外延として身体化している。ところが、誤って自分の指を打ってしまった途端、金槌は自らの身体から離れ、自分の外側に存在する物として立ち現れてくる。
完全に身体化するインターフェースは、何か事故が起こったとき、回復の手がかりを掴むことが極度に困難になる。もしくは、決定的な破局が訪れるまで、異物感に気づくことが出来ない。
インターフェースを開発設計する際には、完全に身体化してしまうものでも、全く異物として身体に同化しないものでもなく、適度な異物感を残して身体化するように、設計することが肝要である。

2.2.佐伯の「お箸型道具とナイフフォーク型道具」論 同じ佐伯胖が、「お箸型道具とナイフフォーク型道具」という論を展開している。
これについては、さして説明する必要もないと思われるが、「お箸型道具」とは、使いこなすためにはある程度習熟の必要があるが、一端習熟すると何にでも応用が利く汎用的な道具、「ナイフフォーク型道具」とは、誰にでも簡単に使えるが、使用目的が限定されている専用の道具、といったことになる。
佐伯は、この例としてワードプロセッサーとエディターとの対比を用いていたが、昨今ではWindowsやMacなどのGUIとUnixのCUIの対比などにも適応できよう。

2.3.ユビキタスコンピューターの二つの側面 さて、昨今、ユビキタスコンピューターという言葉をよく耳にするようになっているが、この言葉には異なる二つの側面がある。
一つは、水や空気のようにどこにでも普遍的に存在するコンピューターという使われ方であり、他の一つは、いつでもどこにでも持っていける身体化したコンピューターという使われ方である。
例えば、家庭の各部屋にまで普及したテレビは、前者の方向性でブロードキャスト型のユビキタスコミニュケーションを実現したといえるし、昨今の携帯電話の軽量化は、後者の身体化という方向性でのユビキタスコミニュケーションを実現しつつあるかに見える。

2.4.ユビキタスLCDは、身体化するか風景となるか
液晶を用いたさまざまなコミニュケーションツールを考える際、人間の身体性とどのように係わるかを十分に考慮する必要がある。
身体性という観点から見れば、液晶のピクセル密度を高める際、人間の裸眼の識別能力(170dpiから200dpi程度)が要求精度の一つの閾値となる。携帯電話などについても、さらなる軽量化の余地はまだ残されているが、小型化については限界に来つつあると考えられる。人間の手の大きさを無視した小型化は、ユーザーを無視した技術の独善となりかねない。
「ナイフフォーク型」の道具が数多く普及すると、そこに用いられる液晶も、それぞれの道具の使用目的に適したものが一つずつ必要となり、「お箸型」道具の場合は、さまざまな用途を想定した汎用的なものが必要となる。
これらの道具が身体化する場合は、身に着けるという観点から、重量や柔軟性といった液晶の物理的な特性が重視されることとなるし、風景となるためには、まさに湯水のごとく使えるほどの劇的なコストダウンが最優先の要素となる。

3.本のメタファーかテレビのメタファーか
3.1.メタファーとしての新メディア

新しいメディアが社会に受容される際、それまでのメディアと隔絶したメディアが受容されることは稀である。新しいメディアは、常に何らかの形で旧来のメディアのメタファーとして出現する。
グーテンベルクの活版印刷は、先の千年期の後半に大きな影響力を持ったが、その思想は活字の設計、版面の組み方、造本に至るまで、基本的には手写本の模倣にあった。
また、現在のデスクトップコンピューターは、基本的にはテレビジョンのメタファーからスタートしており、ノートブック型コンピューターは、本もしくは手帳のメタファーからスタートしている。デスクトップコンピューターとノートブック型コンピューターでは、その使われ方、受け取られ方がかなり相違している。

3.2.コーデックス型かパピルス型か
同じ「本」といっても、その歴史を振り返ってみると、現在のグーテンベルク型の見開きに綴じられた本だけが存在していたわけではない。聖書の写本などでは、初期には蘆の繊維を漉いた短冊状のパピルスを綴ったものが主で、後に羊や山羊などの皮を鞣したものを折り畳んだコーデックスに変わっている。
翻って、日本にも、巻物という優れた本の形が存在した。
このように見ていくと、電子化された文書の閲覧方式にも、パピルスなどの巻物型のものと、コーデックスのようなページめくり型のものが存在することが分かる。

3.3.LCDは、どのようなメタファーを目指すのか
LCDの使用目的を考える際、このような視点も必要なのように思われる。
テレビメタファーで考えるならば、柔軟性はさして必要がなく、平面性を保ったまま大型化する技術が必要となる。
コーデックスメタファーの場合、ページをめくるという動作をどのようにしてLCDで具現するか、という問題が生じてくる。携帯性のための柔軟性、複数ページを連続してみるための厚みの軽減、といった要素も必要となる。
巻物メタファーの場合は、HTMLのブラウザーなどのようなスクロールに相当するインターフェースとの親和性が比較的高いことが予想される。
短兵急に結論を急ぐ必要はないが、グーテンベルク以前のパピルスメタファーについて、もう少し研究してもよいように思える。

4.まとめに代えて
技術は実用に供されて初めてその使命を達成する。
しかし、ある使用目的を明確にした技術には、使用目的が事前に明確になっている故の、革新性の乏しさが伴う。
真に革新的な技術は、社会のあり方そのものを変える潜在的な力を持っていると同時に、潜在的な社会的な必要性に呼応しない限りは、社会に受容されることもない。
社会に変革をもたらす技術とは、技術者の確信に満ちた独創性と、常にユーザーのことに思いを致す柔軟性を両輪として初めて実現できるものではないか。
ユビキタスLCDを実現するためには、このような技術者の琢磨が必須のことである。

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