福永陽一郎のこと
北嶋さま、
ご無沙汰しています。ずいぶんと時間が経ってしまいましたが、過日お目に掛かった際にお話しした、作曲家の小倉朗と指揮者の福永陽一郎との小生の個人的な出会いの体験、少しずつですが書き始めることにしました。福永陽一郎の『演奏家の時代』の本質をエドワード・サイードや渡辺裕の『聴衆の誕生』の出現を待つまでもなく見抜いていらした北嶋さんのことです、小生の若いころの思い出も、時代背景も含めて理解していただけるものを勝手に思いこんでいます。煩わしいとお感じになるかも知れませんが、おつきあいいただければ幸いです。
小生の実母逝去の際のことどもを綴った文章をホームページにアップしてあるのですが、思いの外多くの方が、好意的な読後感を語ってくださいます。ごくごく個人的な体験に共感してくださる方を見いだすことが出来るのも、インターネットの良いところなのでしょう。
福永陽一郎:1926年神戸生まれ。指揮者。1989年2月逝去。
寒い土曜日でした。僕はいつものように藤沢市民交響楽団(以下藤響)の練習に顔を出していました。棒を振るはずの福永さんはなかなか来られませんでした。団員の一人が代棒を振り始めたころ、そのころ団長だったコントラバスの山田君が、ティンパニーを叩いていた僕のそばに来て、耳元でささやきました。
「小林さん、ちょっと。陽ちゃんが危ないらしい」
藤沢市民病院に、古くからのオケの仲間数人と駆けつけました。間に合いませんでした。福永先生は、霊安室に移されたばかりでした。夫人の暁子さんが、
「だめだったの。馬鹿よね、退院するためのリハビリだなんていって、病院の階段を昇ったり降りたりするんだもの。弱っていた心臓に来ちゃって。」
気がつくと僕の頭の中では、ヴェルディの歌劇「椿姫」のフィナーレのティンパニーの連打が鳴り響いていました。
「タツオくん、そこはトレモロではなくて、刻んで。インテンポで。トゥッタフォルテで叩ききってください。ヴィオレッタの心臓の音です。音楽が鳴り止んでも、ヴィオレッタの心臓の音が、みんなの頭の中で永遠に鳴り響いているように。」
福永さんは、そのような言い方で音楽を作っていく人でした。「椿姫」の第2幕で、ヴィオレッタがアルフレードにそれと告げずに、別れようとする場面で、ソプラノのハイトーンにオーケストラのトゥッティがかぶります。
「ティンパニー。フォルティッシモ。大丈夫です、ちゃんとしたソプラノの声なら、オーケストラを突き抜けます。ヴェルディは、そう書いています。それに、オペラはオーケストラで作るものです。歌が聞こえなくたって、音楽で聴衆を泣かせてみせます。」
本番直前になって、ウィーンでも歌ったことのあるプリマドンナから、クレームが来たそうです。ティンパニーが大きすぎると。彼女の意を受けた副指揮者が僕のところに注意に来ました。僕は聞きませんでした。
「福永先生が、フォルティッシモでやれって言いましたから。文句があるのなら、福永先生に言ってください。僕は、福永先生の指示以外は聞きませんから。」
福永さんは、最後まで僕に音量を落とすように、との指示は出しませんでした。
「タツオくん、ここ見てごらん。ヴィオレッタがアルフレードと初めて出会った舞踏会の後の場面。このエストラーノ、エストラーノ(不思議だわ、不思議だわ)のところ、アウフタクトの音が、一回目は八分音符で、二回目は十六分音符で書いてあるでしょ。ここでヴィオレッタは恋を自覚するんだよ。これを振り分けなくっちゃ。」
福永さんと一緒にやってきた音楽の断片が、それこそ洪水のように頭の中を駆けめぐっていました。
ブラームスの第四シンフォニーの第一楽章。最後のティンパニーの刻みを、僕は時間が止まるのではないかと思えるほどのリタルダンドをかけて叩いたのでした。
この演奏全体が、僕にとって忘れることの出来ない体験で、
「生きているということは、今ここで福永陽一郎とこのブラームスのシンフォニーを演奏していることそのものではないか」
とさえ、感じられるような体験でした。
この演奏会の後、藤沢市民オペラの「アイーダ」が音楽の友社賞を受賞した記念パーティーの席で。
「タツオくん、ブラームスのティンパニー、よかったね。何だかティンパニーコンチェルトを振っているような気がしたよ。」
ベートーベンの第九シンフォニーの最終楽章。Allegro energico, sempre ben marcato 4分の6拍子。手元の譜面では、719小節目のところ。
「あそこ、見事にテンポが落ちたね。あれ、二度と出来ないよ。本当に、ティンパニーのアウフタクトの一発で、テンポ変えたからね。」
失敗もあります。シンフォニーでも、オペラでも。
「アイーダ」の2幕。凱旋行進曲の後で、囚われの身となったアイーダの父アムナズロが、不幸を呪詛する場面で。僕は、コントラバスのピチカートと一緒に叩く合いの手を、見事に落としました。幕間に謝りに行った楽屋で。
「コラ、指揮者を殺す気か!!」
第九の2楽章のソロを落としたこともあります。その場面を、ソニーのトリニトロンの発明者で、オケの主席チェリストだった宮岡さんが、初期のホームビデオに録画しており、忘年会で指揮者の後ろ姿が、文字通りズッこけるところをさんざん見させられました。
同じ第九の3楽章で、コントラバスと交代してティンパニーが叩くべきバスの音型を、2小節早くコントラバスと一緒に叩いてしまって、完全に落っことしたこともあります。練習だったので大過なくすみましたが、このミスで、その個所のティンパニーの音型の重要性をいやというほど思い知らされました。この個所は、後に若杉弘との第九の演奏の際、鮮やかに蘇ります。
福永陽一郎の死去を巡る思い出は、この病院のシーン以降、葬儀の時まで完全に欠落しています。ともあれ、彼の死は、僕にとって、まさに初めて体験する二人称の死でした。人が死ぬと言うことが、とりもなおさず自己の存在そのものの部分的な喪失であることを、僕はこのとき初めて知りました。僕の青春と呼べる時代が決定的に終わったのでした。そして、僕は少し大人になりました。