稲垣良典の「神とは何か」

先般、稲垣良典の「神とは何か」を読んだ。読み終わってから、稲垣氏の死を知った。もう2年以上前(2022年〈令和4年〉1月15日)に亡くなっていた。氏の畢生の大事業だったアキンのトマス「神学大全」の全訳には、手も足も出なかったが、氏のいくつかの著作には目を通していた。敬虔なカトリック信者でもあった碩学の著作には、学生時代以来の行きがかり上(ぼくは荒井献の本当に不肖の弟子だった)プロテスタント系の聖書学者による書物を読むことが多かったなかで、ある種の救いというかより所というか、カトリックの聖職者ではないカトリックの信仰を持った研究者による信頼できる書物、みたいな感じで、畏敬の念と一方的な親近感を持って接してきた。

ちかごろ、ミサのおりに唱えられるニケアコンスタンチノープル信条(ローマ教会の洗礼信条だったいわゆる使徒信条でもいいのだが、なぜか近ごろはニケアコンスタンチノープル信条が唱えられることが多い)の文言が気になってしかたがない。まあ、5世紀ごろ成立したといわれ、この信条の成立を契機に、正統と異端との境界が明確になったともいわれているわけで、カトリック教会正統の拠り所になっていることも理解できる。しかし、みなさん、この信条を字義通り信じているのかしら、みたいな疑問も持ってしまう。

そもそも、

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、見えるもの、見えないもの、
すべてのものの造り主を。

という劈頭の宣言からして、よくわからない。5世紀の信徒が信じると宣言し、そして、現代の信徒がその言葉を復唱することによって宣言する信仰の対象である《神》ってそもそもどのような存在なのだろう。対象がはっきりしなければ、信じるも信じないもないだろうに。

といったようなわけで、またも、老いた子羊の彷徨が始まる。

そんな折、たまたま稲垣氏の「神とは何か」が目に留まり、表題と著者にひかれて、アマゾンでプチった。

読み始めたが、正直なところ半ば過ぎまではどうもスッキリしない。「知識」と「知恵」の違いとか言われてもねえ、みたいな。

ところが、半ばを過ぎたあたりから、俄然、腑に落ちるようになってきた。多分、最初にフムフムきたのは、Kindleで76%あたりのところ。イギリス人の枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの『承認の文法(An Essay in Aid of A grammar of Assent)』への言及のあたり。

「卓越した思想家・神学者であったニューマンはこの著作の中で、学識ある聖書中心主義者の多くに見られる「観念的承認」( notional assent)と、素朴無学ながら信心深い信徒(もちろん、卓越した学識と豊かな聖性を備えた人物を除外するのではなく)の信仰を支えている「現実的承認」( real assent)との差異を鮮やかに示している。私はニューマンが、ロック、ヒューム、ミルなどの経験主義的哲学者が輩出した英国の思想家らしく、つねに経験的事実に基づきつつ、具体的に論を進めていることにとくに感銘を覚えたのを記憶している。「信じる」という選択的な行為を呼び起こし、直接に支える知的な働きが「承認」( assent)であるが、ニューマンの言う「観念的承認」と「現実的承認」はほぼ次のように理解できると思う。キリスト信者の間で「信仰」と呼ばれているものには二つの種類があって、一つは教養や学識のある人が聖書を熱心に学んで、自らがそれに基づいて生きるべき自覚的信念として形成した信仰、もう一つは何らかの仕方で伝えられた神の言葉が、聴く者においていわば「受肉」して──というのは、その人が自然・素朴に信じている「神」が、その自然な素朴さはそのままに、超自然的な神の認識へ向けて完成されて──神は現実に実在する神として受け取られるようになる、という仕方で生まれる信仰である。前者が「観念的」(思考や認識の領域に属するという意味であり、空虚というニュアンスはない)承認に基づく信仰であり、後者が「現実的」(「ここで・今」経験される現実よりも、より現実的な実在)承認に基づく信仰である。」

漱石が「門」で描いていた

彼は平生自分の分別を便(たより)に生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは、信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。

のところ。宗助が観念的承認の人(承認するか否かは措くとして)だとすると、漱石が触れている「始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図」「信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進」はまさに、現実的承認そのものではないか。

もう一個所、というか、稲垣氏が書きたかったのは、ここだったのだ、と思えるところ。Kindle版で77%のところ。「3.キリストの「神秘」を開く鍵が『イエスの秘密』」の節。

「書き込み」とは福音書の中で繰り返し語られる「イエスは《山に》ひき籠り、夜を徹して祈り、父とともに《ひとりで》いた」という言葉である。実際、四つの福音書すべてに「イエスは祈るために山にお登りになった。夕方になってもただひとりそこにおられた」「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」「イエスはひとりでまた山に退かれた」などの言葉が繰り返されている。

稲垣良典. 神とは何か 哲学としてのキリスト教 (講談社現代新書) . 講談社. Kindle 版.

確かに、福音書にはしばしばイエスが一人引きこもって祈る場面が描かれている。しかし、当たり前といえば当たり前の話だが、そのイエスの祈りの内容についての記述はない。弟子たちは、あるいは遠く離れており、あるいは、眠りこけていたのだから、イエスの祈りの内容について知るよしもない。しかし、稲垣氏を触発した教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーは、言う。

イエスを理解するには、 イエスが「山に」引きこもり、夜を徹して祈り、父とともに 「ひとりで 」 い た と い う 、 繰 り 返 し繰 り 返 し語 ら れ る 書 き 込 み が 重 要 で す 。 こ の 短 い 書 き 込 み は イ エ ス の 神秘のヴェールを少 しばかり開いてくれ、イエスの子と しての実存、彼の行動と教えと苦しみの源泉
に私たちを導いてくれます。イエスのこの 「祈り」は子の父との語らいです。イエスの人間 としての 意 識 と 意 志 、 人間 と して の イ エ ス の 魂 は こ の 祈 り に 吸 い 込 ま れ て ゆ き 、 人間 と して の 「祈 り 」 は 、子と しての父との交わりへの参入となることが許されるのです。
イエスの福音は父からの福音であり、福音の中に子は含まれない。 したがってイエスの福音には キリスト論は属していないという、アドルフ・フォン・ハルナックの有名なテーゼは、この視点から、自ず と訂正されることとなりま しょう。イエスは彼自身、子であり、子と しての父との交わりの中にいるからこそ、彼は父について彼が語 ったように語ることができたのです。キ リスト論的な考 え 方 、 す な わ ち 、 父 を 示 し現 す 者 と して の 子 の 神 秘 、 一 言 で い え ば 「キ リ ス ト 論 」 と い う こ と で すが、それはイエスの言葉と行いすべての中に現存するのです。
ここには更に重要なことが見えてきます。人間と してのイエスの魂は祈りの行為において子とし ての父との交わりの中に引き込まれてゆくと私は申 しま した。イエスを見る者は父を見る(ヨハ14 ・9)のです。イエスとともに歩む弟子は彼とともに神との交わりに引き込まれてゆきます。まさ に こ れ が 本 来 の 救 い 、 人 間 と して の 制 約 の 超 克 な の で す 。 こ の 制 約 の 超 克 は 、 神 の 創 造 の 行 為 に おける神の似姿性によって、期待として、可能性と して、すでに人間のうちに置かれていたのです。
『ナザレのイエス』(春秋社、2006年、p.27)

足下を掬われたというか。この指摘は、もしかしたら、ものすごいことを言っているのかもしれない。イエスがアッバ(おとうちゃん、といった語感なのかしらね)と呼びかけた《神》に何をどのように祈ったのか、稲垣氏の言葉を借りると《イエスの秘密》を追い求めていくこと(記録が残されていないのだから解明することは出来ない、しかし、そのことについて想像すること、深く考えることは出来る)によって、その後の、弟子たちの信仰、そして、キリスト教のいわゆる信仰の遺産の内実が見えてくるのではないか。
弟子たちは、イエスの後ろ姿を通して、《神》を見た。イエスの言葉と行いに、イエスが対峙した《アッバ、神》を見たのではないか。それも、イエスが磔刑に処せられて命を落とした後になって。

(ここからもうすこし考える)キリスト教、特にカトリックは、神と対峙したイエスをまさに神の子(エンマニュエル)として神と重ね、その後ろ姿を追い求め続けたものではなかったか。


マタイ:14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


マルコ:06:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


ルカ:06:12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。


ルカ:09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

マタイ:06:05「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。06だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。07また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。08彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。09だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

10御国が来ますように。

御心が行われますように、

天におけるように地の上にも。

11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12わたしたちの負い目を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

赦しましたように。

13わたしたちを誘惑に遭わせず、

悪い者から救ってください。』

14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」


マタイ:14:13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


マタイ:26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


マルコ:01:35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。36シモンとその仲間はイエスの後を追い、37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


マルコ:06:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


マルコ:14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


ルカ:05:12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。


ルカ:06:12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。


ルカ:09:18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」


ルカ:09:28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ルカ:11:01イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。02そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

03わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

04わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

05また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。06旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』07すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』08しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。09そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

ルカ:21:34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。38民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。


ルカ:22:39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

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