門前の老いた子羊

先般、知人から心に刺さるメールをもらい、その返信に、あまり脈絡もなく、漱石の「門」の一部を引用した。

彼は平生自分の分別を便(たより)に生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは、信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立む(たたずむ)べき運命をもって生まれて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の道へ引き返す勇気を有(も)たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

メールにも書いたのだけれど、ぼくは、「門」がこの部分で終わったように記憶していた。最初に読んだのは多分高校生のころで、数年前にも江藤淳の「漱石とその時代」を読み進めながら、漱石の主だった小説は読み直している。何度も読み直しているはずなのに、記憶ではこの部分で終わっている。というか、この部分だけが記憶に残っている、というのが本当のところなのだろう。まあ、歳のせいもあって記憶力の減退はいたしかたないが、この箇所が「門」のいわばキモであることに疑いの余地はない。漱石は、「それから」や「彼岸過ぎまで」のように小説のタイトルにはそれほど拘りを持っていなかったと言われている。しかし、この「門」に関しては、書き始める前の漱石がどこまで具体的なイメージを抱いていたか措くとしても、「門」というタイトルがあった上で、この箇所に向かって書き進められたことに疑いの余地はない。

「門」の文庫本を引っ張り出してきてこの箇所を引用した後、どういうわけか、「三四郎」に頻出するストレイシープという言葉が頭の中でグルグル回って止まらなくなった。言うまでもなく、ルカ福音書の迷える子羊の箇所。

「ルカ:15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

ヘンリ・ナウエンという神父の著作に「放蕩息子の帰郷」(片岡伸光あめんどう、2019)という名著がある。表紙に使われたレンブラントの絵も印象的。ついでなので、放蕩息子の箇所も引用しておこう。

ルカ:15:11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

ナウエンのこの本の最大の魅力は、放蕩息子の兄の立場にも温かな視線を注いでいるところにある。このナウエンの伝で、福音書には書かれていないが、失われた羊の立場で、このたとえ話の場面を見てみたらどうなるだろう、という妄想が膨らんで止まらなくなった。

たとえば、こんな具合。

子羊はなぜいなくなったのだろう。ただ単に迷子になったのだろうか。そうではなく、羊飼いに見守られて仲間もおり、夜には柵の中で狼からも守られた安穏とした生活と一方でのそこはかとない束縛感、そこからの一時の離脱を目指したのではないか。

ルカのたとえ話では、失われた羊は、無事に見つかったけれど、見つからなかったら羊飼いはどうしただろう。子羊はどうやって夜を過ごしただろう。

なによりも、漱石が「三四郎」で描いているストレイシープは、まさに、群れから離れ、羊飼いの庇護からも離脱した状態の子羊そのものではないか。

ぼくには、「門」で描かれた門前の宗助と「三四郎」で語られるストレイシープが何だかつながっているように思えた。そう思うと、妄想はますます拡がっていって。

羊飼いの庇護から離脱した子羊は、あたりに闇が迫ってきて、狼への恐怖と里心から、囲いの柵のトビラの所まで戻ってきた。トビラは、子羊が帰ってきたときのために、少し開けてあった。しかし、子羊は、トビラの内側に入ることがどうしてもできなかった。夜が明け始め辺りが明るくなってくると、子羊はトボトボと森の中に戻っていった。次の晩もその次の晩も、子羊はトビラのそばで夜を明かし、昼間は森の中をさまよい続けた。

年を重ね、子羊はいつのまにか成長した羊となり、そして老いていった。

子羊は、いつまでも柵のそばと森の中を行き来して命を重ねていった。

おしまい。

ぼくは教会の親しいご婦人などに、ちょっと冗談めかして「ぼくは、熱心な信者ですが、敬虔な信者ではありません」などと言う。冗談めかしてはいるが、じつはホンネだったりして。

ブレーズ・パスカルに帰される言葉に「我疑う故に我信ず」という言葉がある。いうまでもなく、ルネ・デカルトの「我思う故に我あり(Cogito, ergo sum)」のもじり。とはいえ、信仰の本質を鋭く突いているとも言えよう。

そんなわけで、カトリックの信仰(ぼくはある意味筋金入りのボーンクリスチャンです)と新約聖書学に係わるとりとめのない話題をこのカテゴリーで。

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