東京卸売り市場が、築地から豊洲に移転する前後に、小池東京都知事が使い始めたのが最初ではなかったか。記憶違いかも知れないし、寡聞にしてぼくが知らなかっただけかも知れない。
コロナウィルスの蔓延で、日本国中が大騒ぎになったころから、小池さんだけではなく、管総理を筆頭に、与野党を越えて、多くの政治家がこの言葉を口にするようになった。曰く、「日本国民の安全安心のために」云々。
ぼくは、この言い方にずっと違和感を覚え続けている。どうして、「安全」と「安心」が、このように一つの言葉として強く結びつくのだろう。
ちょっと思考実験というか「安全」や「安心」を含む短文を考えてみれば、「安全」と「安心」が全く異なる働きを持つ言葉だということは、一目瞭然のことのように思われる。
「安全性は私どもが保証しますので、安心して空の旅をお楽しみください」
「安全」とは、科学や技術の領域に属する言葉で、「安心」とは心の在り方に関する言葉なのは、明白なことだ。
この二つの全く異なる領域で異なる機能を果たしている言葉が一つに結びつくことによって、現今の日本の政治的な発言(ディスクール)は、いとも奇妙な状況に陥っている。
学生時代(従って半世紀以上前)に、武谷光男の「安全性の考え方」(岩波新書、1967)を読んだ。委細は記憶の彼方にあるが、「マスとしての安全性は確率論で論じることが出来るが、当事者にとっては、(安全性の対偶としての)危険性は、100%なのだ」といった主旨の既述が、妙に記憶に残っている。
ぼくには、武谷は、核物理学、素粒子論を知的バックグラウンドとして持つ、社会主義的な科学論、技術論の論者として、見えていた。
いずれにしても、武谷が、「安全性」を科学技術の言葉として論じていたことは疑い得ない。だからこそ、この当事者にとって云々という言葉が、胸に刺さったのだろう。
一方、「安心」は、まさに、心の領域に属する言葉である。カトリックの許しの秘蹟での司祭の常套句「あなたの罪は許された。安心して生きなさい」は、まさに、「安心」の極みだろう。
安全性が科学的に100%保証されても、安心できないという状況もあれば、何ら安全性についての科学的な説明がなくても、不安を覚えない(消極的な安心)という状況もありうる。
〈安心〉という言葉は、容易に〈安心する〉というサ変動詞になりうる。一方、〈安全〉という言葉は、〈安全する〉といった使い方には、大きな違和感がある。
ぼくが、〈安全安心〉という言葉に、そこはかとない違和感を抱く、理由の一つは、ここいらへんにあるようにも思う。
為政者が、「国民(都民)の〈安全安心〉のために」と言うとき、それは何を意味するのだろう。
おそらくは、「国民(都民)に〈安心〉していただくために、〈安全〉性の向上に尽力します」といったことだろうと忖度する。
しかし、ぼくには、ここに、大きな陥穽があるように思えてならないのだ。
〈安全〉という優れて科学や技術に係わる言葉を〈安心〉という、個々人の心の動きに安易に結びつけることにより、〈安全〉という言葉の背後にある、科学的・技術的な議論をあいまいなものにしているのではないか。
この論点では、野党の〈安全〉の根拠があいまいである、という批判は正鵠を射ていよう。言い換えると、〈安心〉という個々人の心の在りよう、情緒と言い換えてもいいだろう、と結びつくことにより〈安全〉という言葉の背後にあるべき科学的・技術的議論の必要性があいまいになり、〈安全〉という言葉そのものが、情緒的な色合いを強く帯びてしまったのではないか。
このことは、しかし、為政者だけの責任に帰されるべきではないだろう。巷間しばしば議論されるように、日本の社会には、100%の安全性を求めるという、いわゆる安全性神話の性向が強くある。おそらくは、このような性向があるゆえにこそ、為政者側の〈安全安心〉という曖昧な言葉を無批判に受け入れてしまうことにつながっているのだろう。
100%の安全性という、いわば、画餅への希求ともいえる情緒的な反応から抜け出し、!00%とは言えないまでも、社会的コストをも考慮した上でのより高い安全性を求める理性的な議論に移行するためにも、ぼくたちは、為政者たちの言葉の用い方に、もう少し敏感になってもいいのではないかしらん。