NHKのノーナレで浮川和宣・初子夫妻が取り上げられた(2021年1月15日)。初子専務から放送日の連絡をいただいて、録画した上で見た。
見終わって、何だかそこはかとない物足りなさが残った。
1989年の初夏に、小学館からジャストシステムに移って以来、1998年に退社した後も、ご夫妻自身がジャストシステムを退社して、メタモジ社を創業されるまで、それこそ、ATOK監修委員会の設立から、同じくATOKの方言対応に至るまで、間近でその開発現場に係わってきた。ATOKの開発とそのデジタル通信環境での日本語の使われ方に与えた影響ってこんなもんじゃないよな、という思いが残った。直裁に言えば、ATOKが社会に与えた影響が描き切れていないという思い。
そんな思いを抱きながら、二日ばかり過ごした。夜中に目が醒めて(歳のせいで毎度のことなのだけれど)、歌舞伎の舞台写真家、渡辺文雄さんの言葉が、忽然と思い起こされた。
「紀信は人を撮るけれど、俺は舞台を撮っているんだ」
渡辺さんとは、銀座の男のきもの専門店サムライで知り合った。いわば、着物についてのぼくの師匠みたいな存在。
舞台写真の世界では、吉田千秋のお弟子さんで、木村伊兵衛の流れを汲む正統派中の正統派。
知り合ってまだ間がないころ、十八世の中村勘三郎が世を去ってそれほど経ってはいなかった。家庭画報にその追悼として載った篠山紀信の写真が強く目に焼き付いていて、その思いを渡辺さんに、少し熱くなって語ったことがあった。
渡辺さんは、ちょっと憮然とした感じで、こう言ったのだった。
どちらがいいとか、悪いとかいった話ではない。そもそも、篠山紀信と渡辺さんとでは、ファインダーを通して見ている世界が、全く異なる、ということなのだ。
そのころ、家庭画報の記事だけではなく、テレビ番組なども含め、勘三郎の人となり、歌舞伎にかけてきた思いは、さまざまに語られていた。なによりも、ぼく自身が、勘三郎の大ファンで、彼の舞台を追って、隅田川沿いの平成中村座やら金比羅宮の金村座やらに出向いたりしていた。家庭画報の写真に、ぼくはそのような、ぼく自身の勘三郎に対する思いを重ねて見ていたのだろう。
知遇を得た直後、渡辺さんは、ぼくに一冊の写真集をくださった。「名残りの花」(マガジンハウス刊)。歌舞伎批評の泰斗、渡辺保さんとの共著で、文雄さんが撮った晩年の六世中村歌右衞門の舞台写真に保さんが文章を付けたもの。
この本が、ぼくにとっては、またスゴイ本で、保さんの文章を読みながら、文雄さんの写真を見ていると、実際には生の舞台を見たことのないのに、歌右衞門がどのような思いを舞台での一挙手一投足に込めていたかが、まさに手に取るように見えてくるのだ。歌舞伎とはこのようなものなのだ、と納得されられる。六世中村歌右衞門がいて、渡辺保さんがいて、渡辺文雄さんがいて、初めてぼくの目の前に拓ける世界。
深夜のベッドの中で、ぼくは、二人の写真家の撮った歌舞伎役者の写真のことを思った。
そのとたん、浮川夫妻を撮った番組に対する、そこはかとない物足りなさは、うそのように消し飛んでいた。
なあんだ、NHKの番組制作者たちは、一太郎やATOKの技術やその社会的影響を描きたかったのではなく、パーソナルコンピューターの黎明期から現在に至るまでその第一線で生きてきた一組の夫婦の生き様そのものを描きたかったのだ。それも、「起業家としての」浮川和宣や「技術者としての」浮川初子ではなく、浮川和宣・初子という昭和から平成を経て令和に生きる稀代の生身の夫婦の今を、丸ごと切り取りたかったのだ。
そんなことを考えながら、ぼくは再び眠りに落ちていた。
3年ほど前のこと。初子専務が、ご自分の手で染めて藍染の着物と羽織を作ってくださった。着物の下前には、御母堂の臈纈染による龍の絵が描かれていて、羽裏には、初子専務による流麗な龍の字が描かれているなんとも贅沢なもの。
お二人は、この着物のお披露目のために、歌舞伎座の公演にまで、ぼくたち夫婦を招待してくださった。至福の時だった。
仄聞するところだと、初子専務は、この後、和宣社長のためにも、藍染の着物を作られた由。コロナ騒ぎのせいもあって、ぼくは、まだ和宣社長の着物姿を拝見していない。