別府アルゲリッチ音楽祭と昼どきクラシック

ちかごろ、興味深い室内楽コンサートを二つ続けて聴いた。
一つは、5月16日(日)の別府アルゲリッチ音楽祭室内楽コンサート、もう一つは、5月18日(火)の横浜みなとみらいホールの昼どきクラシックというコンサートシリーズの一回。
ぼくにとっては、横浜のコンサートがとても楽しく興味深かった。
ウィーン・フィルのヴァイオリン、チェロ、クラリネットの首席奏者と西山郁子というウィーン在住の若手ピアニストの共演。ウィークデーの14:30開演ということで、午前中から所用で横浜に出かけていた妻と落ち合って軽く昼食をとってから会場に入った。中年の婦人や高齢の夫婦が目につく。たぶん、ぼくの世代の男性は少数派なのだろうな。
町の歌というニックネームを持つ、ピアノ、クラリネット、チェロのトリオに始まり、シューマンのクラリネットの幻想小曲集、無名作家のヴァイオリンとチェロ(原曲はビオラ)のパッサカリアなどなど。最後は、ブラームスのハンガリアン・ダンスで締めくくられた。
1時間ちょっとと、コンサートとしては短かったが、なんと入場料がたったの千円。毎月聴きに来る常連も多いとのこと。
コンサートの後、妻と、近くのホテルでお茶を飲みながら余韻を味わった。
演奏者(若いピアニストを除いて)もみんなリラックスしており、聴く側にも、何とも言えぬ余裕というかゆとりが感じられた。
かといって、演奏に手を抜くということもなく、聞き手も、たとえば、チェロとピアノで演奏されたブルッフのコル・ニドライなど、最後の余韻まで聴き逃すまいとするように、拍手が始まる前に、絶妙な空白があった。一方、カステルノーヴォ=テデスコによるヴァイオリンのためのセビリアの理髪師のテーマによるパラフレーズ(初めて聴いた楽しい曲!)など、演奏を終えるか終えないかのうちに盛大な拍手。曲による拍手の間合いの違いからも、聞き手の成熟ぶりが素直に感じられた。
このような反応が、演奏者によい影響を与えないわけはなく、会場には演奏者と聴衆との間の心地よい一体感が拡がっていた。
夕方の横浜港を眺めながら、ぼくたち夫婦は、何とも言えぬ贅沢な時間の余韻を過ごしたのだった。
今聴いたばかりの楽しい演奏会の印象は、自ずから、少し前に聴いた別府でのコンサートを思い起こさせた。
決して悪い演奏会ではなかった。今年で6年目を迎えるというアルゲリッチがプロデュースする音楽祭の掉尾を飾る室内楽コンサートで、音楽祭の参加者総出演で、何と16時開始で終わったのが22時という文字通りのマラソンコンサート。さまざまな弾き手が入れ替わり立ち替わり趣向を凝らした曲目を演奏するのだから、まあ、体力さえあればさぞ楽しい演奏会になるだろうと思いきや、正直なところ、楽しさもそこそこのものだった。というか、演奏者と曲目による落差が非常に大きかった。
不満の一つ。中国のベテランピアニスト、フー・ツォンが弾いたモーツァルトのコンチェルト。
ピアニストの演奏スタイル(大時代がかったショパン風のもの)と、コンサートホールのピアノ(おそらくはニューヨークのスタインウェイ)、若手演奏家たちによる弦楽合奏(管楽器はなし)、近代的な指揮の教育を受けたとはとても思えない指揮者(後で知ったのだが、ロシア生まれでアメリカ在住のヴァイオリニストらしい)といった組み合わせからは、何とも奇妙奇天烈な食い合わせの悪いばらけた印象の音しか聞こえてこなかった。
急いで付け加えておくが、個々の演奏者が決して悪いということではなく、フー・ツォンがアルゲリッチとやったモーツァルトの連弾曲など、個性の違いを認め合った上で合わせよう、といった大人の遊び心が感じられて、それなり以上に楽しめたのだが。
不満の二つ。
イダ・ヘンデルという御年84歳というかつての天才ヴァイオリニスト。
うーん、昔は良かったかもしれないけれど。毒のある言い方になるが、かつての人気歌手が落ちぶれて場末のホテルでディナーショーをやっている感じ、とでも言えばいいのだろうか。
アルゲリッチとのフランクのヴァイオリンソナタを皮切りに、延々と彼女のゆったりしたテンポの大時代がかった演奏を聞かされたのには、正直なところうんざりした。追い越しもままならない細い坂道で、紅葉マークの車の後ろについたような気持ち、とでも言えばいいのだろうか。伝説は伝説として、潔くもっと早くに引退していれば良かったろうに。
不満の三つ。
コンサートが終わって、客席中央前方に座っていた男性が、スタンディングオベーションを始めた。ぼくは、ブーイングこそ控えたものの、とても、盛大な拍手をする気にはなれず、儀礼的な軽い拍手をしていた。
驚いたことに、その男性は、客席の後ろを振り向いて、他の聴衆に向かって、手を動かしてスタンディングオペーションを促したのだった。
こういう気分を、鼻白むって言うんだろうな。
本人が自己陶酔するのはご自由だが、それを他人に強要するのはやめていただきたい。
イダ・ヘンデルの演奏だって、蓼食う虫も好き好きで、魂が打ち震えるほど感動する人がいるかもしれないし、別に、そのことをとやかく言うつもりはない。
しかし、アルゲリッチの出番が終わった後、歯が抜けるように空席が目立ち始めた客席の、いささか寂寞とした雰囲気が分からなかったのだろうか。もしかしたら、イダ・ヘンデルの音楽に共感できない聴衆がいるかもしれない、という想像力は持てなかったのだろうか。
ぼくは、せっかく別府にまで招いてくれた友人への感謝の気持ちが、その男性のせいで、少し後味の悪いものになったことが、残念でならない。
別府アルゲリッチ音楽祭が、地元の多くの音楽愛好家によって支えられていることは想像に難くない。受付やら休憩所の飲食物の販売やら、みなさん、気持ちよく対応してくださっていた。
しかし、このコンサートは、有料のコンサートで、聴きに来ている人たちは、みな客のはずだ。テレビのお笑い番組の公開録画ぢゃあるまいし、聴いた音楽の評価を、どのような形で表すかは、いわば聴衆一人一人の権利と言ってもいいものだと思う。
ぼくは、スタンディングオベーションを強要した男性に、ある種の独りよがり、独善を感じた。
地方都市で、上質な音楽を提供し続けることが困難なことは理解しているつもりだ。だからこそ、個々の演奏者に対しても、プロデュースを行ったアルゲリッチに対しても、時には厳しい評価を表すことが、音楽祭をより良いものに育てていくことに繋がるのではないか。
横浜の昼どきクラシックを聴いて帰った後、ぼくたちは、7月と8月のコンサートのFAX予約も行った。このシリーズ、人気が高くて、FAX予約は、時に抽選になるらしい。

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