2016年1月15日(金)
神奈川県立近代美術館鎌倉館が、1月一杯で閉館になり取り壊される。見納めに、混雑を覚悟で行くことにした。
とはいえ、週末を避けて、金曜日の開館と同時に入館。でも、もうチケット売り場に列が出来ていた。
1月2日に次男の家族と一緒に、生まれて初めて鶴岡八幡宮に初詣に行って、ものすごい混雑の中で、じゃがバタなどの屋台飯を堪能したばかりだった。
鎌近が出来たのは、1951年。ぼくたち夫婦が生まれた年でもある。展示されていた収蔵品(ごく一部の代表作)に添えられた解説文の端々から、ぼくたちが生きてきた時代のさまざまな出来事が思い返されて、感無量。建物や設計者の坂倉準三がデザインした家具調度品もまた良かった。耐震対策が出来ないという理由で使われていない新館に入れなかったのがちょっと残念。
少し時間があったので、別館にも足を延ばした。ここで思わぬ拾いもの。
イサム・ノグチと魯山人の交友関係。イサム・ノグチが山口淑子と結婚した当初、鎌倉の魯山人工房に寓居して新婚生活を始めたとのこと。そして、陶芸もやっていたとのこと。
この工芸品を中心とした別館の展示物の中に、パブロ・ピカソが焼いた絵皿が一点あった。どっかで、大量のピカソの絵皿作品を見たっけなあ、と思ったら、昨秋訪れた甲府の山梨県立美術館だった。
http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/specialexhibit_201509.html
響子(娘)のお姑さんと幸子と三人で、勝沼のワイナリー巡りをした際、訪れた。眼目は、ミレーを中心とするバルビゾン派の絵だったのだけれど、企画展でピカソをやっていた。正直なところ、絵画作品はイマイチだったように思われるが、絵皿はよかった。純粋美術作品としての絵画や彫刻と工芸品を敢えて区別して論ずることの愚を、まざまざと思い知らされた。
おっと、鎌近のこと。
長男の巌生がまだベビーカーに乗っているころ、幸子と岳父英次とともに鎌近を訪れたことがある。
岳父は、デッサンのための木炭を焼くことを生業としていたのだが、美大を卒業した画家でもあった。絵が高く売れたという話は聞いたことがなかったが、数年に一度は、銀座の渋谷画廊で個展を開いていた。鎌倉の画家たちとの交流もあったようで、高田博厚の知遇も得ていたらしい。
その岳父が、「高田さんのエッセイによると小町通りに旨い蕎麦屋があるらしい」という。ははん、と思った。一茶庵だ。小林勇の『一本の道』だったか『山中独膳』だったかの跋を高田博厚が書いている。これがすこぶるいい。曰く。「鎌倉の小町通りに新しい蕎麦屋が出来た。ぶらりと入ってみると、若い夫婦がかいがいしく働いている。舌代の文字が又いい。『だれが書いたの』と聞くと『小林勇先生に書いていただきました』との返事。むべなるかな。」この時点で、小林勇と高田博厚には互いに面識がなかった。後に、高田が小林の絵の個展に出向いた際、初対面の開口一番、高田が「あんたの字を鎌倉の一茶庵で見たよ」と言ったら、小林が間髪を入れず「だったら、あんたとおれとは、その時から友だちだ」と答えたという。
岳父は、この跋が後に高田の随筆集に収められたものを読んだようだった。
しかし、小町通りには、件の蕎麦屋が見当たらない。しかたがないので、段葛にあった適当な蕎麦屋に入った。蕎麦はまあまあだったけれど、アルバイト風の女店員が、天ぷらの喰い方を上から目線で指導するものだから、ちょっとムカっと来て「湯桶をくれ」と言ったら、湯桶も知らない。店主と思われる男が、慌てて「そば湯、そば湯」と耳打ちしているので、興が冷めた。
後で知ったが、そのころは、鎌倉の一茶庵は、大鳥居の横に移転していて、観光客相手で大繁盛していたよし。
専修大前にあった一茶庵に行った折に、女将に鎌倉一茶庵のことを聞いたら、「のれん分けです」と、ほとんどそっぽを向いて答えた。けんもほろろとはこのことだ。
そんなわけでもないが、鎌芸ともなんだか随分長い間ご無沙汰してしまった。大鳥居前の一茶庵には、結局一度も入らずじまいだった。鎌倉には知人もいるし、時々は、食事をすることもあるが、大抵は少し駅から離れた谷戸の奥だったりして、歩いて行くにはちょっと不便だし、車で行くとなると駅の周辺は年がら年中混雑している。
帰りに、大鳥居前の食べ物屋で旨そうなところ、と当たりを付けていた大石で天ぷらを喰った。すこぶる旨かった。店は、週日の昼間だというのに結構客が入っている。一人、常連客とおぼしき男性が、天丼を注文した。横目でチラッと見ると、これがまた旨そうだった。コースの方は、それなりの値段がするし、天丼だって安い、というわけではないのだが、ネタもたくさん乗っていてね。電車で鎌倉に行く楽しみが出来た。
でも、次に行く時には、鎌芸はもうない。