小倉朗とバルトーク

  • タイトル:第639回定期演奏会 Bシリーズ
  • 開始日時:2007-02-24 19:00
  • 終了日時:2007-02-24 21:00
  • 場所:サントリーホール
  •  指揮:高関健

    ピアノ:田部京子

    ピアノ:小川典子

    打楽器:安藤芳広

    打楽器:小林巨明

    児童合唱:TOKYO FM少年合唱団/世田谷ジュニア合唱団

    《別宮貞雄プロデュース 日本管弦楽の名曲とその源流4》

        * 間宮芳生:合唱のためのコンポジションNo.4 「子供の領分」

        * 小倉朗:管弦楽のための舞踊組曲

        * バルトーク:2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲

        * バルトーク:舞踊組曲

小倉朗は、ぼくにとってとても大切な人だ。学生時代に知遇を得、亡くなるまでのほぼ20年、音楽のみならず全人格的な生きざまの師として接した。彼の最後の著書『なぜモーツァルトを書かないか』を企画編集する機会にも恵まれた。その彼の曲が演奏されると苑子夫人からうかがって出かけた。

演奏全般について正直に告白すると、ああ、小倉朗も古典となったのだ、という感慨。決して悪い演奏ではない。いや、破綻もなくうまい演奏といっていいのだろう。しかし、その破綻のなさ、見通しの良さが、どこか素直な感動に入っていけない欲求不満を残す。今から振り返ってみると、バルトークも小倉朗も前世紀の作曲家で、それぞれの曲は同じ時期に書かれたと言ってもいいほど、時間が経っているのだ。過去の偉大な作曲家の作品に連なる古典曲として冷静緻密に演奏されるのが当たり前と言えば当たり前なのか。

中では、バルトークの2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲が、高い緊張感と密度を保持し続けていて、非常によかった。まあ、この曲の原曲は、打楽器奏者にとっては室内楽の古典中の古典ということになるのだが、協奏曲版はめったに演奏されることがないのではないだろうか。ぼくも、バルトーク自身が夫人とともに演奏したライブのレコードをずうっと以前に聞いた記憶があるだけ。ソナタ版に比しても、他のバルトークの協奏曲に比しても、うまいオーケストレーションとは言い難い。しかし、当夜の演奏は、そのことが逆に幸いして、ソリストたちの主体的な会話を指揮者とオーケストラがそっと支えるといった塩梅になっていた。

この曲を聴きながら、ぼくは、ずうっと以前に交わした小倉朗との短い会話を反芻していた。

学生時代、まだ小倉さんが藤沢市の大庭に住んでいたころ。大学の小倉ゼミ(ぼくが企画して、大学の正規の全学一般ゼミナールとして認められていた)の仲間が集まってホームパーティのようなことをやっていた。ぼくは、バルトークの2台ピアノと打楽器のソナタのミニチュアスコアを持っていって、ある個所のリズム構成について質問しようとした。

小倉さんは一言

「きみもペダンチックだねえ」

とだけ答えた。

この答えが、ぼくにはとてつもなく応えた。そして、人生の指針となった。

音楽にたどり着く道はアナリーゼだけではない。もっと大切なものが他にある。頭の中で音符を切り刻む前にもっとやるべきこと考えることがある。ことは音楽だけではない。書物にしても事象にしても、自分を埒外において批判的に見るのではなく、全人格をもって立ち向かえ。

四半世紀経って、ぼく自身の言葉で小倉朗の言葉を敷衍すると、おおむね上記のようなことになる。小倉朗は、ぼくの質問から、そのころの青臭いぼくの性向を見透かし、たった一言で生き方全体に対して大きな方向付けをしてくれたのだった。

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