『メディアとしての紙の文化史』

ローター・ミュラー著

三谷武司訳

東洋書林

 

知的興奮に満ちた本。

マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を踏まえながら、はるかに広い視野に立つ。批判的継承という言葉がこれほど適切な例もまれだろう。

全体的な評という点では、巻末の原克氏による解説が間然とするところがない。本書を購わなければ読めない解説ではなく、書評として発表されれば、きっと売り上げ増につながったのに。

ちかごろ仲間内でやっている”Project Beyond G^3″という研究会の内容と、洋の東西を隔てて呼応しているのが、何とも楽しい。

http://www.ebook2forum.com/tag/脱g研究会/

 

ぼくは、2個所ばかりに絞って。

一つ。トランプが印刷機発明以前の紙を用いたメディアとして重要な働きをしていた、という個所(本書では、2-2)。メディアとしてのトランプという視点が、あの楽譜出版で有名なライブツィッヒのブライトコップフの二代目によって書物としてまとめられていた、という。

ぼくは、この個所を読みながら、ビゼーのカルメンを思い起こしていた。例の、第三幕のトランプの三重唱。ここで、カルメンの死の予兆が暗示されるのだけれど、まさに、トランプが冥界と現世を繋ぐメディアとして機能している。

そう言えば、学生時代に、タロットカードについて知りたくて、種村季弘さんの著書などを読みあさっていたこともあったっけ。

となると、日本の花札や貝合わせなどが果たしていたメディアとしての役割なども気になるなあ。

もう一つ。ドン・キホーテの第二部。ドン・キホーテに登場する著者(メタフィクションでのフィクションとしての著者)が、市場でドン・キホーテの冒険の続編に出会うところ。アラビア語の読めない著者に代わって、ノートと古い紙の束を読んでいた男が、突然笑い出す。

「ノートの欄外にある書き込みがひどく面白い」というのだ。曰く「この物語に頻繁に登場するドゥルシネーア・デル・トボーソという女は、豚を塩漬けにすることにかけては、マンチャ地方のいかなる女よりも腕ききだと言われている」といったような。

まあ、ぼくには、この欄外の書き込みがどのように面白いのかは、イマイチよく分からないが。メタフィクションに引き込む装置として手書きノートのそれも欄外を使うなんて、セルバンテスという人はなんとしゃれたことをするのだろう。このエピソード一つで、十分元が取れたような気がした。

 

 

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