銀婚式ディナー

銀婚式ディナー

《愚者の後知恵》三笠会館社長の谷氏に宛てた私信の形を取っているが、実際には送っていない。書いた当時、妻の幸子に「やりすぎ」と言われて、送信を思いとどまった。最近になって、この料理を作ってくれた高尾シェフの訃報を聞いた。改めて読み返してみると感慨深いものがある。(2004年11月7日)
2001年11月
未発表

谷善樹さま
小林龍生です。
覚えておいででしょうか、もう五年ほども前に、一度メールを差し上げました。
今日は、どうしても、ご報告したいことがあって、久々にキーボードに向かっている次第です。

先日、2001年10月30日に、ぼくたち夫婦は結婚25周年の記念日を迎えました。
この日、そう、ぼくたちは、家族で三笠会館の鵠沼店に行ったのです。ぼくたちが経験したすばらしいディナーの報告をさせてください。

そろそろ銀婚式が見えてきたころから、正確に言うと、2000年の春なのですが、ぼくは、銀婚式のディナーを三笠会館鵠沼店で食べよう、と固く決心していたのです。
この秋、ぼくは、アメリカ出張の折りに、サンフランシスコ在住の友人に案内してもらって、ナパヴァレーのワイナリー巡りをしました。さまざまなワイナリーを回ったあと、セントヘレナという町にあるワインショップに立ち寄ったのです。ここには、ナパヴァレーの主要なワイナリーのプレミアムワインが非常に多く置かれていました。
ぼくはこのとき決心しました。ここでプレミアムワインを買って、銀婚式の時に三笠会館に持っていって、ワインに合った料理を食べさせてもらおう、と。
この時から、ぼくは、この友人の先達で、少しずつワインのことを知るようになり、アメリカに出張するたびに、二三本ずつのワインを買って帰るようになりました。少しずつ集めていったワインを並べて、銀婚式の時には、どのワインを開けようか、と考えるのが、新たな楽しみとなりました。

いよいよ、銀婚式の日が近づいてきて、ぼくは、鵠沼店に予約の電話を入れました。
「10月30日の夜、6人で予約をお願いします。お宅で結婚パーティーをやったぼくたち夫婦の銀婚式なんです。*円ぐらいの予算で(言わぬが花ですが)メニューを考えていただけませんか?」
電話を横で聞いていた娘が、間髪を入れずに叫びました。
「ウェリントンがいい!」
「ええっと、メインディッシュはウェリントンにしていただいて。」
後で詳しく述べますが、この時点で、娘にとってウェリントンは、話でしか知らない幻の料理だったのですが。
「ワインを一本持っていきたいのです。ルーチェというイタリアのワインか、ドミナスというカリフォルニアのワインか、どちらかを。料理と合わせて、どちらを持っていったらいいか、ソムリエの山田さんにアドバイスをいただきたいのですが。」
「それから、二階の個室が使えるようであれば、お願いします」
「かしこまりました。では、後日、山田の方から連絡をさせていただきます」

銀婚式の3日ほど前になって、山田さんから電話が入りました。
「シェフの高尾とも相談したのですが、今回のメニューには、ドミナスの方がよろしいかと思います。前日か前々日にセラーから出して、立てておいてください。そっと持ってきていただければ大丈夫ですから。当日、わたしは生憎休みに当たっていますが、すべて分かるように申しつけておきますので」

10月30日当日、ぼくたち家族は、我が家のファミリーファーザーとも言うべき、ジョン・カーテン神父と共に、三笠会館鵠沼店に向かいました。
休みのはずの山田ソムリエが出迎えてくれました。
「あれ、お休みではなかったのですか」
「いえ、せっかくですから。ご心配なく、休みは他の日に振り替えて取りますから」
ぼくは、後生大事に抱えてきた(ぼくは車の運転をしていたので、抱えてきたのは妻ですが)ドミナスを、山田さんに預けました。

ぼくたちが、案内された個室は、婚約式の後の会食をした部屋でした。ナプキンの畳み方もなんだか特別で、小さな花が添えてありました。高尾シェフがさっそく挨拶に来てくださいました。
「おめでとうございます」
「高尾さんは、ぼくたちの結婚式の時、もうこの店にいらしたんですよね」
「ええ、二番をやっていました。お二人の結婚式は、よく覚えていますよ。あとで、またうかがいますから」

この部屋で、ぼくたちは、カーテン神父の司式で、(神と)子供たちの前で、結婚の誓約の更新をしました。山田さんが、その様子を写真に撮ってくれました。

乾杯は、山田ソムリエオリジナルのフランボワーズとシャンペンのカクテル。

山田さんが、ドミナスのデキャンタージュをやってくれています。デキャンタは、山岸支配人がフランスで買ってこられたという、水鳥の形をしたもの。ろうそくの火で澱を見ながら、ずいぶんと丁寧にやってくださっています。

最初のオードブルが出てきました。大きなマッシュルームとヒラメを軽く昆布締めにしたもの。上には、阿寒湖のザリガニ。出足快調です。高尾さんお得意の湘南フレンチ。海の幸を使って、和風の味付けを取り入れた高尾さんの技法は、ぼくも大好きで、以前ごちそうになったそばの実とじゅんさいのスープなど、忘れることが出来ません。
オードブルの二皿目は、フォアグラ、アナゴ、長なすをトウモロコシの粉で作ったクレープのようなもので包んで焼いたもの。これもまた絶品で、ドミナスとものすごく合うのです。料理とワインの取り合わせとは、こういうものだったのか、と変に納得したりして。
「どうぞ、ソースもパンに付けてお召し上がりください。ソースが残っているとね、キッチンが心配して、お客さんに理由を聞いてこい、なんてうるさいんですよ」
そういえば、次男は、子供の時から、お皿のソースをパンで拭って食べるのが得意で、本当にお皿がぴかぴかになるまで、ソースを片づけてしまうのですね。彼なりに、そうすることでお店の方が喜んでくださることを、感じ取っていたのでしょう。

食事をしながら、ぼくたちの話題は、三笠会館と家族のささやかな歴史を巡って、つきることがありません。
「以前は、よく、食事の後に、前の海岸を散歩したね」と長男。
「ええ、昔は目の前がすぐ海でしたから。今では、防砂林と遊歩道で遮られてしまいましたけれど」と山田さん。
「ぼくたちが初めてワインを飲んだものこのお店だったんですよ、ローストビーフのワゴンサービスで」
「水曜日でしたね。今日も、後で高尾がウエリントンをワゴンでサービスしますよ」

スープは、日本とフランスのキノコが何種類も入ったもの。器までオーブンで焼いてあって、最後まで熱々のまま飲めました。

「今日は、キッチンもピリピリしていまして。高尾が直に手を出しているものですから、下のものが恐れをなしてしまって」
「それでも、今日はウィークデーでお客様が少ないので、他のお客様に迷惑がかからずにすんでいます」
「いやあ、無理をしてでも、結婚記念日当日に来て、本当に、結果オーライだったね」

魚料理は、アワビを蒸したもの。柔らかくってジューシーで。
カーテン神父が
「これはおいしい。こんなアワビを食べたのは初めてだよ。今まで、アワビなんてこの世になくてもいいと思っていたけどね」
「あれ、世の中になくてもいいものは、ナットーだけじゃなかったの」
「そういえば、昔はよくアワビのドリアを食べたね」
「ええ、あれも当店の名物料理でした。最近は、器としてはアワビの殻を使っていますが、中身はふつうのシーフードのドリアになっていますが」

思い出しました。学生時代にオーケストラ活動を通して知り合った京都の友人、神前和正君が婚約したばかりの遊亀さんを紹介してくれたときも、アワビのドリアを食べたっけ。
彼は、ぼくたちの結婚式にも来てくれて、鎌倉のホテルにも一緒に泊まって、朝起きたらぼくたちの車は、ビニールテープと空き缶で見事に新婚カップル仕様になっていたっけ。
彼も、今では鬼籍に入ってしまった。

さて、いよいよ、メインディッシュとともに、高尾シェフの登場です。
「最近は、ウェリントンをご注文くださるお客様もほとんどいらっしゃらなくて。今回も、久しぶりなんですよ」
高尾さんが、あざやかな包丁さばきで、お皿に切り分けてくださいます。ソースもアシスタントのかたを押しのけて、ご自分で。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
このウェリントンを、どう表現すればいいのでしょうか。
中のお肉がミディアムレアなのです。ぼくの記憶では、ウェリントンは、もっとよく火が通っていて、肉汁が外側のパイ生地にしみこんだあたりが一番おいしい、といった塩梅だったのですが、今回のウェリントンは、肉そのものがとびきりおいしい。うまみがすべて肉の中に封じ込められている、といった風なのです。
「すごくいい肉が手に入ったものですから。ふだんは、ウェリントンなどにはしないのですが。」

「あたし、絶対に三笠会館で結婚パーティやるんだ。それで、ウェリントンを絶対に食べるのだ」
と娘。
「相手がいればね」
と、長男、次男が同時に合いの手。
前の手紙にも書いたことですが、ぼくたちの結婚パーティの時も、ウェリントンがメインディッシュだったのですが、ウェリントンのワゴンサービスが始まった時、妻はちょうどお色直しで席をはずしていて、食べそびれてしまったのでした。
この後、父の古希の祝いの時に、ウェリントンを出していただいて、妻は結婚パーティの怨念をはらしたのでした。
日ごろから、このような話を聞かされていた娘は、ウェリントンを食べることをとても楽しみにしていたのです。
ぼくは、メインディッシュは、この二三年秋にお邪魔する際の定番になっていた、ローストビーフもいいかな、などと思っていたのですが、娘はよほどウェリントンが食べたかったのでしょう、先にも触れたように、ぼくが電話で予約をしているまさにそのときに
「ウェリントン」
と叫んだのでした。
それにしても、このとびきりのウェリントンに出会えたことは、娘に感謝しなければならないでしょうね。

デザートは、洋なしのソルベとコンポート。
びっくりしました。ぼくと妻の皿には「祝銀婚式」という文字が、チョコレートで。
みなさんが、心からぼくたちの銀婚式を祝ってくださっていることが伝わってくるような文字でした。そして、ぼくたちの思いこみかもしれませんが、みなさんが、ぼくたちの特別なディナーを祝うことを、楽しんでくださっている、という気配も感じることが出来ました。

こうして、ぼくたちの銀婚式ディナーは、終わりました。お店を出る前に、もう一度、山岸支配人と高尾シェフにご挨拶。
「高尾さん、ごちそうさまでした。娘の結婚式でもウェリントンをよろしく。その時まで現役でいてくださいね」

山田さんが、扉の外にまで見送りに出てきてくださいました。
「山田さんも、まだまだ引退できませんよ」

あの日のディナーのすべてを文字で伝えられないのが、いささか歯痒くはありますが、ことの顛末は、以上のようなものです。

ぼくたちのささやかな家族の歴史の節目を、こんな素敵なディナーで祝うことができた幸せを改めて噛みしめています。

感謝を込めて。高尾シェフ、山岸支配人、山田ソムリエを初めとする三笠会館鵠沼店のすばらしいスタッフの方々に。そして、このようなすばらしいスタッフを育んでこられた三笠会館の経営者に。

素敵なディナーとすばらしいもてなしをありがとう。そして、これからも、末永くよろしく。

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