言語表現と非言語表現

言語表現と非言語表現

《愚者の後知恵》電子的に作成した原稿を紙媒体で発表すると、どうしても紙媒体による校正という作業が介在するために、紙媒体による最終的な形態と電子的に記録されている形態との間に齟齬が生じる。この原稿に関しても、紙幅の関係と、編集部の要請により、当初の「解題」を大幅に短縮し、別に同じ特集に寄稿された井上夢人氏、高本條治氏の原稿をも対象とした、用語や概念の解説を中心とする総論を書き足している。しかし、僕自身としては、当初の形態の方が、三宅さんや安斎さんとの結構長いつきあいへの思い入れも含めて、うまくまとまっているような気がする。そんなわけで、最初の解題の部分は、雑誌未掲載のものであることをご了承いただきたい。また、末尾には、変更した前書きおよび総論を掲載しておく。(1998年2月28日記)
1998年2月
月刊国語学「現代の言語表現」

解題
以下は、三宅なほみ氏(中京大学教授、認知科学)、安斎利洋氏(CG作家)および小林龍生(㈱ジャストシステム勤務、文責)による、「インターネットの表現論」に係わる電子メールを用いた議論のまとめである。以後、この議論の過程を電子鼎談と呼ぶこととする。
インターネットを中心とする電子メディアに関するリテラシーに乏しい読者のために、簡単にこの議論の背景を記しておく。
一般に、電子メディア(デジタルメディア)は紙メディアに比較して、改竄が容易である。同時に、劣化を招くことなく複製することが容易である。さらに、ネットワークを利用することにより、同時的な伝達も容易である。これらは、技術的には同一の根を持っている。
この特性から、電子メディアは、固定された結果よりも変化しつつある過程により多くの力点が置かれる傾向がある。
今回の電子鼎談でも、すぐに気づかれることと思われるが、参加者それぞれが、議論の過程で少しずつ立場ないしは論点をずらしていっている。議論のテーマの一つに、「発信する側のフレーム」と「受容する側のフレーム」という問題があるが、今回の議論そのものがこの論点の一つの実例になっていることに、ぜひ注目していただきたい。インターネットで多く行われる、電子メールや掲示板における議論に普遍的に見られる現象でもある。
因みに、掲示板とは、参加者だれもが読んだり書いたりできる議論、情報交換の場で、ちょうど、学生のクラブ活動の部室やペンションなどに置かれた落書き帳を思い起こしていただければよい。

議論に頻出するハイパーテキストという言葉について。
電子メディアの対話性を利用することにより、さまざまな分岐を含んだテキスト群を扱うことが可能となる。雑誌などに掲載されているYes、Noによって分岐していく占いやゲームなどを思い起こしていただければよい。ボタンが用意されていて、受け手の選択により様々な分岐の可能性を持つ。また、参考文献や注釈などを、通常は隠しておき、必要に応じて表示することなども可能となる。
古くは、テッド・ネルソンによって提唱された「ザナドゥ」が有名。アップルコンピューターのマッキントッシュ用にビル・アトキンソンによって開発された「ハイパーカード」により、一般に広がった。
インターネットにおける、ワールド・ワイブ・ウエッブにより、地球規模でのハイパーリンク関係が、誰にでも利用できる環境が整った。
筆者自身は、本質的な問題だとは考えていないが、画像や音声なども、このハイパーテキストの枠組みの中で利用することができる。
一般に文学作品を中心とする書物が、線形に通読することを前提としているのに対して、ハイパーテキストは、様々な読みの可能性を読者に委ねている。このような状況下での、送り手側の意図と受け手側の意図の違い、というのも電子メディアにおける表現を考える上で、非常に重要な問題となってくる。

もう一点、今回の電子鼎談の問題点を挙げておく。本来、電子メールは、個人対個人の閉鎖的なものであるはずである。筆者を含め、今回の参加者の間では、様々な形で電子メールでの議論の経験がある。そこでは、いわば日常のモードでの語り口というのが明らかに存在しているのだが、今回の、公開を前提とした電子メールでは、その語り口がやや変化している。それでも、電子メールでの語り口が、一般の手紙や論文、随筆などとは異なっていることは、くみ取っていただけるのではないかと思う。
個人的な語り口を不特定多数にさらす、という構造は、インターネット上でのいわゆる個人のホームページにも共通する問題で、今回は触れることはできなかったが、表現論としては、今後議論を重ねていく必要があると考えている。

このような次第で、電子的メディアでの議論の通例にもれず、今回の電子鼎談には結論らしきものは何もない。読者諸賢も、議論にヴァーチャルに参加しながら、過程それ自体を楽しんでいただければ幸いである。なお、印刷されて第三者の目にさらされることを勘案して、理解を容易にすることを目的として、一部、小林の責任において、参加者の発言の省略、改竄を行っている。三宅氏、安斎氏、そして読者のご寛恕を乞うゆえんである。

(小林龍生記)

>From:Kobayashi
三宅さん、安斎さん
元気にお過ごしですか。月刊「日本語学」から、原稿を頼まれました。「言語表現と非言語表現――インターネットの表現論――」というものです。かってに受諾してしまったのには目論見があって、お二人とインターネットでの代表的な表現方法の一つである電子メールで議論をして、そのまま原稿にしてしまおうというわけです。認知科学を専門とされている三宅さんと、ネットワーク上で「連画」というCGによるコラボレーションの試みを一貫して追及しておられる安斎さんのお二人なら、この問題に関する刺激的な議論が期待できます。それにやりとりの結果をそのまま紙に印刷することで、従来とは異なる電子メールの表現を少しは読者に読みとってもらえるかもしれません。

マーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に、こんなエピソードが紹介されています。

<citation>
たとえば、いま二人の男についての映画をアフリカの観客に見せているとする。ひとりの男の演技が終って場面の端から姿を消す。すると観客は男がいったいどうなったのかをたずねるのである。彼等にはその男の演技が終ったために、もはや物語は彼を必要としないということが解らない。そのため画面から消えた男がどうなったかを知りたがるわけだ。この疑問に答えるために、われわれは西欧人の観客には不必要な場面まで書き加えなければならなかった。たとえば、男が道を歩いていき角を曲がるところまでカメラが追う、といったふうに書きかえられた。在るものは画面から消えてはならず、現実にある曲り角のむこうに消えるのをみてはじめて納得するのである。
つまり、映画中の行動も、現実の事件発生の手順を追わなければならない。
</citation>

以前のぼくは、いわゆるマルチメディアには、かなり批判的で、「マルチメディアはサルにも分かるが、言語表現は人間にしか理解できない」などと公言してはばかりませんでした。しかし、この一節に出会って、君子豹変、この批判を口にすることはなくなりました。ただし、条件があります。マルチメディアにも、映画が育んできたと同様な文法の成立が必須である。
「言語表現と非言語表現」というテーマから最初に思いついたのは、このマクルーハンのエピソードです。お二人の刺激的な反応を待っています。

小林龍生

>From:Anzai

小林さん、三宅さん

小林さんの第一信、まるで近所のガキ大将が、ポケットの中の戦利品を見せびらかせて「なあ、いいだろうこの挿話」と言っているように思えました。
このエピソード、僕にとってふたつの意味で「いい戦利品」でした。ひとつは、絵を描く者が否応なく意識する「フレーム」に関する問題だということ。それから、人物が「道を歩いて行き角を曲がる」というイメージに、僕自身触発される何かがあるということ。それは、僕のトラウマ(人物は女ですが)にも関係していて、もし僕がこの映像を見せられたら、きっとアフリカの観客と同じように背中を向けて街角から消えていく人物に意識が釘付けになって、そのあとの映画が上の空になっちゃうと思います。人物が消えていくことに対して、受動的な了解ができないのです。僕のトラウマは、さておき。
線形の映像表現は「とりあえずこの人物の行方は保留して……」というふうに、進んで行きます。誰でも等しく、フレームの外に出ていった話線からは意識を外すだろうというコンセンサスが「映像の文法」であって、誰かはここにこだわり続けるだろうとか、ここをブックマークするだろうとか、ここから別のストーリーに分岐するだろうとかいうことになれば、客体化された映像表現は自ずと崩壊します。マルチメディアにも「文法の成立」が必要であると小林さんは書いていますが、それはコンセンサスを積み上げれば出来上がるというような呑気なものではなくて、ハイパーテキストが個々の体験や能動的な行為と地続きになった空間に生成するという、本質的な問題から出発しなければならないのです。
映像のフレーム、絵画を囲むフレーム、顕在化した言葉と潜在するコノテーションの境界、リニアライズ(線状化)のプロセスで保留されたパラレル世界の淵、ハイパーテキスト構造の表現は、それらを突き抜けるものとして立ち現れたわけですが、同時にハイパーテキストの表現は、「その男の演技が終ったために、もはや物語は彼を必要としないということが解らない」ところまで退行しているわけで、そこからすべてやり直さなければならない、もしくはそこからやり直すことができるのです。ひとりひとり個別に歪んだ土地に築くバベルの塔、といった感じでしょうか。その均一ではすまないところに、僕はわくわくします。
僕たちがやっている連画という方法も、フレームへのひとつの問題提起であると考えています。絵のフレームは、鑑賞者と制作者を分断するための装置として発明されました。このフレーム内は芸術である、という意味では美術館も大きなフレームでした。フレームの中は日常ではない、という意味が付与されてはじめて作品が成立するという構造は、フレーム(額)を故意に用いない現代美術の諸作品も同じことです。フレームの外にいるものがフレームの内側に手を入れると、けたたましくブザーが鳴る。
連画は、ほかの作品にリンクしていくことが大前提であって、リンクを断ち切る仕組みとしてのフレームとは相容れないものがあります。関連する絵が明示されていないと、連画はつまらない。誰もがここで連続を断ち切るという保証された輪郭を持たず、客体化し鑑賞する視点に立ったとしても、すぐさま手を入れて書き換える立場への転身を余儀なくされます。見ることと描くことが、あるいは観ることと行為することが分かち難く一体になった状態をもたらすという意味で、より原始的な絵を描く衝動にまで、人を引き戻してしまう、もしくは引き戻すことができるのが、連画の面白さなのです。

 

安斎利洋

 

 

>From:Miyake

小林様、安斎様

kobayashi> マルチメディアにも、映画が育んできたと同様な文法の成立が必須である

それはそうでしょうね。ここで言う文法が「実現象を解釈するために必要な枠組」というような広い意味で理解すれば、当然かとも思いますが。
マクルーハンの例についてちょっと不可解だなと思ったのは、アフリカの観客の反応で、ほんとにビデオや動画を「見たことがない」人だったのであれば、違和感はその程度ではすまなかったとしても不思議はないのに、ということです。物語や、芝居、ステージパフォーマンスについての経験的な知識がないとは考え難いですから、メディアが新規だというだけで
「在るものは画面から消えてはならず、現実にある曲り角のむこうに消えるのをみてはじめて納得するのである。」
と言われてもちょっと納得できないなぁ、という感想を持ちました。私たちが住んでいる現実そのものが結構マルチメディアなんだとすると、そこでもう現実に起きて流れて行くたくさんの事象を扱う「文法のようなもの」を、人間が、資産として、持っていない、というのも不思議な考え方であるような気がします。
けれど、この例で小林さんがいいたかったことは、なんなのだろう? 非言語表現にも文法が必要、ということであれば、異論はありません。それが、今のマルチメディア環境でどう作られていくのか、「こっちの方がいい」とか「こうすべきだ」とか言って関与する人なり団体なり、もっと漠然と規範なりが、必要なのではないか、という話であれば、ちょっと疑問です。小林さんの意見はどうなんですか? 私は、少なくとも自分がそういうものを作って人を規制する必要があるとはあまり思わない方ですし、ましてやそういう側に回ろうとは思っていません。

人は、新規なものに対して、自分の過去の経験を総動員して対処しようとしますよね。だから、「人物が消えていくことに対して、受動的な了解ができない」という人が現代日本にいても不思議はない。こういう立場を取ってしまうと、受動的な了解を出来なくさせているこの人の過去の経験ってなんなのだろう………と、興味の対象がそっちに向いたりします。アフリカでのマクルーハンの反応も、そうであっても良かったのではないかしら。この男が、今この画像を見て頭に思い描いているものが彼にとっての解釈であり、彼の物語である、と。もとの話を一観客(受け手、と言った方がかっこいいですね)の解釈による別の物語に<つないで>、そこから別の物語の可能性を見付けて行く、というような反応は、この映画作りをしていた人たちの頭の中にはなかったのかもしれません。そのあたりに、one voice による表現の限界を見る、とかいったら、これは安斎さんたちの<連>に触発され過ぎかもしれません。

でも、安斎さんが、このエピソードに関連させて、

Anzai>連画は、ほかの作品にリンクしていくことが大前提であって、リンクを断ち切る仕組みとしてのフレームとは相容れないものがあります。関連する絵が明示されていないと、連画はつまらない。

と書くのを見ていると、ここにはもう一つの読みが可能なことに気付かされます。上の文だけ読むと、連画によってフレームは壊れていくように読めるのですけれど、これは多分、表現として「見てとる」ことが可能なフレームの壊体を意味してはいないのでしょう。人と人との協調作業のプロセスそのものの中では、こういうフレームの壊体が起きるのかも知れません。けれど、現実の、目で見たり、手で触ったりできる<もの>(それが文章や、音声言語であってさえも)を通しての表現は、フレーム無しでは成り立たない。相手のフレームがあるからこそ、「そこから先は私がこうする」という世界が開けるはずだ、と思うのです。
「解釈のための文法」とか「フレーム」というものが一体なんなのか、私たちの敵なのか味方なのか、武器なのか、邪魔ものなのか、その辺の見究めをつけるために、もう一度安斎さんを引用しますと、

Anzai>誰もがここで連続を断ち切るという保証された輪郭をもたず、客体化し 鑑賞する視点に立ったとしても、すぐさま手を入れて書き換える立場への転身

が余儀なくされるような仕掛け、それが連画の場合には CG という<過去への退却可能な>メディアである可能性が高いのではないかと思うのですが、その仕掛けそのものの性質やら働きやらを探って行く必要がありそうだな、と感じています。

三宅なほみ

>From:Kobayashi
三宅さん、安斎さん

じつのところ、最初のメールでは、「マルチメディアの文法」とかいっても、あまり深く考えていなかったのです。しかし、お二人の議論の焦点が、マルチメディアの文法があることを前提にしながら、それを作り出す主体がどこにあり、その文法がどのように変化していくか、もしくは、その文法をどのようにして崩していくか」という問題に絞られているのに、正直なところ、やられたな、といった感じです。

お二人のメールを三回ぐらい読み返して気づいたことなのですが、小生が「文法」といった言葉を安斎さんが「フレーム」と読み替えて、そのうえで安斎さんの中で「フレーム」の意味が多重化してきていて、三宅さんは、その安斎さんの「フレーム」をさらにずらして解釈している。
お二人の議論を、「インターネットの表現論」に引きつけて読むと、インターネットでの、特にウェッブでの表現というのは、いえ、ウェッブで表現されている個々のページを様々に渡り歩きながら「ブラウズ」していくという「表現の受容の仕方」というのは、表現する側が持っている「フレーム」を別の「フレーム」で切り取り直す作業と言えそうですね。そして、そこには、ブラウズする側の誤読の権利といったものが、かなり明確にある。この権利というのは制度的に保証されたものでも経験的に積み重ねられてきたものでもなくて、技術的にその可能性が高い、ということでしょうね。

最初のメールでのマクルーハンの引用ですが、ちょっと補足しておくと、あのエピソードはマクルーハン自身のものではなく、ロンドン大学アフリカ研究所のジョン・ウィルソン教授の論文からの引用なのです。(“Film Literacy in Africa”Canadian Communications, vol.Ⅰ, no.4, summer, 1961, pp.7-14)
ま、マクルーハンも思いっきり引用による誤読を活用しているかも知れないけれど。
ついでに、同じ論文からの戦利品をもう一つ。

<citation>
次に生じた現象は証拠資料としてたいへんに興味深いものだった。この衛生監視員である男はアフリカ原住民の部落内にある一般家庭で溜り水を除去するにはどうしたらよいかを教示するため、ごく緩っくりとしたテンポで撮った映画を作ったのだった。まず水溜りを干し、空きかんをひとつひとつ拾って片づける、といった場面がつづく映画ができあがった。われわれはそのフィルムを映し、そのあとで彼等がなにを見たかを尋ねた。すると彼等はいっせいに鶏がいた、と答えた。ところが、映画を映して見せたわれわれのほうは鶏の存在に全く気付かなかったのである!……中略……すべてがスローテンポで撮られている映画なので、ゆっくりと空かんに向って進み、それを拾い上げるといった緩慢な動作が続く。そのなかで急に飛び出した鶏は彼等にとって明らかに生き生きとした現実の断片であったにちがいない。
</citation>

小林龍生

>From:Anzai

三宅さん曰く

Miyake>私たちが住んでいる現実そのものが結構マルチメディア

これには笑ってしまいました。だって、普通の人は現実こそがマルチメディアのお手本だと考えているわけで、すると
「私たちが作っているマルチメディアそのものが結構現実」
という言い方がノーマルになるんでしょうね。そういえば、この鼎談のはじめに小林さんが、

Kobayashi>マルチメディアはサルにも分かるが、言語表現は人間にしか理解できない

と言ってますが、これも逆のようで実は根っこが同じ。つまり、テキストに絵をつけ音をつけ動画をつけ……と人間の諸感覚の扉をひとつひとつあけていくうちに、挙げ句には現実のように豊かな、あるいは現実以上に豊かな仮想世界が繰り広げられるだろう、というふうにはお二人とも考えていない。傍らで鶏が走りぬけ、消え去った男は別なドラマをはじめるような、そういうわれわれをとりまく現実をそのままゴッタ煮状態で転写したマルチメディア表現なんてものが、いったいどんな意味があるっていうんだ? ってことですよね。そんなものは、現実の富士山そのものが表現でないのとおんなじで、カメラマンがフレームをファインダーに切り取らない限り写真表現にはならない。マルチメディアが表現となるためには、なにが必要か。文法? フレーム? というふうに問い掛けるのがここまでの話の流れでした(と僕は解釈しました)。

そこで、われわれは(少なくとも僕は)苛立つのです。本当は可能性に満ちているはずのマルチメディア表現が、そう易々とはテキストや映像の力強い表現に優ると思えないからです。マルチメディアって、実はメディアの退行なんじゃなかろうか。マルチメディアには、何かが決定的に足りないんじゃなかろうか。その欠落を新たなキーワードで言うなら<物語>なんじゃないかと思うんです。

物語の語り手は、複雑で入り組んだ世界の構造を巧みに一つの話線として紡ぎ出す技術をもっています。彼の周りを、静かに聞き入る聴衆が取り囲んでいる。聴衆は、語られているコンテンツを聞くばかりでなく、語り手の芸(変換技術)に聞き惚れる。それが、物語の景色であり、また書物や映画や放送の景色でもあります。マルチメディアの表現空間には、そのようなナレーターもいないし、作者は複雑なパラレル構造をシリアル変換することも放棄しています。どこにも語り手のいない空間は、まるでいま生きている現実の空間と同じで、すべて自分自身が選び取り、自分自身が語りを構成していかなければならない。

必要なのは文法だけではなくて、物語を超えてそれを補うような<何か>ということでしょう。電子メディアがその特性を生かしながら物語そのものを取り戻そうとすると、みんなRPGになっちゃいますよね。それも情けない。

僕の場合は、そのなにかを<連>に求めているということかもしれない。

miyake>相手のフレームがあるからこそ、「そこから先は私がこうする」という世界が開ける

kobayashi>「ブラウズ」していくという「表現の受容の仕方」というのは、表現する側が持っている「フレーム」を別の「フレーム」で切り取り直す作業

これらも、話し手と聞き手の錯綜したあたらしい景色を描こうとしているように思えるのですが、いかがでしょうか。

 

安斎利洋

 

 

>From:Miyake

職場の同僚(というには相当年齢、経験ともに上の方なのですけれど)に戸田正直という学者がおられて、イマジネーション=細切れビデオテープ説というものを考慮中です。経験のビデオテープは、細切れにされて再生されて、「物語」になり、人に伝えられたり、自分自身の反芻のデータになったりするのでは、という話です。なんで細切れになるかというと全部は保存できないからで、細切れになることの良さは、再生に時間がかからないこと。うまくいけば、ものごとの原因と結果のところだけが残っていたりして、そういう運のいいまとめが蓄積されればそこから自然界の法則性何かが見えてきたりすることがあるかもしれない、と。超うまくいけば予測に使える。しかも、もともと全部じゃなくて細切れを適当に繋ぐわけですから、現実には起こり得ない飛躍、現実に制約されない統合、現実には不可能な省略などが全部可能になるのですね。そこから、現実そのものを見直す契機が生まれてくる余地も出てくることが考えられます。そういうものがイマジネーションの価値だろう、というのが戸田説です。

これに、連画やらマルチメディア制作やら私の考えている思考中途結果の外化と操作による思考深化なんていう話を絡めて考えると、マルチメディア表現や認知過程の履歴が現実を切りとって、いわば細切れ<にしか>捉えられないことには積極的な意味があると考えてみることができます。さらに、細切れにしか捉えられなくても、それでも/なおかつ/その上に、電子化された表現は、undo を含めて、表現そのものを作り変えて行くこともできる可塑性を持っていますから、これまで頭の中でしか作り変えることのできなかったイマジネーションに逆に働きかけることが可能になったわけで、つまり、マルチメディア表現が、人間の持つイマジナティブな力、想像性そのものに働きかけて、太らせてくれる可能性があるのだ、と信じてみたくなります。

戸田説の不思議なところは、ビデオテープのスライシングのやり方がどうなっているのか、まだ説明されていないところ。マルチメディアのいかがわしさなりもどかしさも、それが現実すべてを切りとり得ないのだとしたらどこに焦点を当てて切り取るつもりなのかの覚悟がないところかも知れません。というところまで来て、これまでの安斎さん、小林さんの話ともつながりました……。
テキストだと自ずと切り取れるところが決まってきてしまう、という感覚そのもの|過程としての表現論

三宅なほみ

【愚者の蛇足】
月刊『日本語学』本号は、「現代の言語表現」が特集として組まれている。中でも、高本條治氏による「Eメール----新しい書き言葉のスタイル」、井上夢人氏による「ハイパーテキスト小説への期待」、そして筆者らによる「インターネットの表現論」の三本は、広い意味での電子メディアを対象として取り上げている。これらの三本の記事(それぞれ少しずつ意味合いが違っているがまとめて記事と呼ぶこととする)は、当然のことながら電子メディアに係わる共通の背景を持っている。簡単に解説を加えておく。

電子メディア(デジタルメディア)の特質をハードウエアの面から見ると、以下のような三点に逢着するように思われる。

紙メディアに比較して、改竄が容易であり、また、劣化を招くことなく複製することが容易である。
ネットワークを利用することにより、複数の対象への即時的な伝達が容易である。
情報のランダム(順不同)な読みとり、書き込みが可能である。この特性を生かすことにより、ユーザーとの対話による、自由な分岐やジャンプ(本質的には同じこと)が可能となる。

本号の*記事*の中から、上記の特性と関連する部分の例をいくつか見ておこう。
高本氏の*論文*中、相手から届いたメッセージの引用を示す符号への言及がある。また、筆者らの*記事*にも、相手のメッセージの引用が頻発する。このような「そのまま引用する」習慣が定着した背景には、複製が容易で、自由に切り取ったり張り付けたり出来るというハードウエアの特性がある。今回の特集では触れられていないが、複製、改竄の容易さは、技術的には従来の著作権の概念と真っ向から対立するものであり、この問題についての議論も巷間喧しい。
井上氏の*評論*に、分かりやすい解説があるハイパーテキストは、分岐可能性を最大限に利用したものといえる。ハイパーテキストは、技術的には、非常に単純な構造(単なる有向グラフ=いわゆるリンク)の集積にすぎないが、非常に多彩な表現の可能性を持っている。電子メディアの可能性を探る上で、このハイパーテキストの無限ともいえる組み合わせの可能性と、従来の紙メディアで一般的だったシークエンシャル(線形)で選択の余地のない情報の流れとの対比は、常に意識していただきたい。

以下やや詳しく、ハイパーテキストという構造を考える。ハイパーテキストは、複数のノードをリンクで繋いだものと考えることが出来る。地下鉄の路線図を想像していただけば良い。それぞれの駅がノードであり、そのノードを繋ぐリンクがレールに相当する。出発点と目的地が確定した場合でも、経路は複数ある。
考慮すべき問題は、ノードとリンクに大別できる。
ノードに関して。ノードをどの単位で取るか、という問題がある。語彙の単位、文の単位、パラグラフの単位などが考えられる。また、言語だけではなく、画像、音声などの非言語的表現も、ノードとなりうる。
井上氏のハイパーテキスト小説では、それぞれのページが、三宅氏が紹介している戸田正直氏の「イマジネーション=細切れビデオテープ説」では、細切れにされたそれぞれのビデオテープがノードに相当する。
また、個々のノードが、単独に存在するときも、表現を持ちうることに留意されたい。地下鉄の駅にもそれぞれの個性がある、ということである。
リンクに関して。地下鉄の例でも述べたように、一般に、ハイパーテキスト構造において、複数のリンクが存在するとき、あるノードから別のノードへの経路は、複数存在する。短時間で目的地に到達することを選ぶか、乗り換えを最小に留めるか、はたまた、地上に出て風景を眺める経路を選ぶか。複数の(時に無限の)経路を準備しておき、その経路の選び方を情報の受取手に、委ねるところにハイパーテキスト構造の大きな特徴がある。表現の問題に引きつけて言うと、情報の受取手によって、経路が選び取られることによって、初めて表現が完成する、ということが出来よう。井上氏の*評論*に紹介されていた、経路を問い合わせてきた読者は、ある種の権利放棄をしていることになる。

最後に、簡単に二つの問題に触れておく。過程の重視について。井上氏のハイパーテキスト小説は、未完成の状態で既に読者の目に触れている。筆者らの*記事*も、議論の経過によりそれぞれの立場が変化していることが読みとれることと思う。追加改変や伝達の容易さというハードウエアの特性が引き起こしたものであるが、結果ではなく過程をそのまま表現に結びつける傾向は、電子メディアにおいて顕著である。
話し言葉と書き言葉について。Eメールや電子掲示板などに顕著であるが、従来の書き言葉とは異なる、話し言葉に近い表現が現れている。筆者も、本稿と別稿で、あえて文体を変えている。電子メディアの特性と短絡することは慎みたいが、明治以来連綿と続く言文一致の動きを踏まえた上で、この問題を捉える必要はあるだろう。

 

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