小倉朗交響曲ト調

2013年12月6日(金)日フィル定期。小泉和裕指揮。サントリーホール。

他に、ベートーベンの2番と7番のシンフォニー。

普段行っている日フィル横浜定期を振り替えて、聴きに行った。

この曲は1968年の作曲。ぼくが、小倉朗と親しく交わるようになったのは、大学の2年生(この年、次女の令子さんが1年遅れて同じ大学に入学してきた)の1971年以降なので、ぼくはこの曲を少なくとも生演奏では聴いたことがなかった。その後のヴァイオリンコンチェルトやチェロコンチェルトなどは、ほとんど初演を聴いている。

それにしても。やはり冷静に聴くことは出来なかった。リズム、メロディ、音色のいたるところに、ぼくが接した小倉朗という存在そのものが浮かび上がってくる。特に、藤沢市大庭の旧小倉邸で接したころの小倉朗その人の表情とバスバリトンの声の響き。

「タツオくん、君も、存外ペダンティックだね」という、今に至るまで心の奥にトゲのように突き刺さって抜けない人生の警句。

ぼくが、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタのアナリーゼのまねごとのようなことをしていて、最初の楽章、8分の9拍子のリズムを、どう捉えていいのか分からずに投げかけた質問への答えだった。

この一言は、加藤周一が『羊の歌』の中ですくい上げた

「効果をもとめたってつまらねえ」

というベランメエの一言と相通じるところがあった。

ぼくが、「加藤周一さんが『羊の歌』で小倉さんのことを書いていますよ」と言った。しばらくして、小倉さんは、当時刊行されていた平凡社の加藤周一著作集の月報にこのいきさつを「鷹の目」と題して書いた。さらに、「これを読んだある友人が、『あれは君の喋りよりもっと小倉だ!と、感激していた。』」とも書いてくれた。この《ある友人》は、ぼくのことだ。涙が出てきそうになる。もう、40年以上も前のこと。

この「効果をもとめたってつまらねえ」は、ぼくの今に至るまでの生き方の指針となった。

この文章を採録したくて、ぼくは、小倉さんの最後の著書となる『なぜモーツァルトを書かないか』(小学館創造選書)の企画をまとめ、刊行にまでこぎつけたのだった。

小倉朗没後20年を記念する演奏会で、高橋悠治さんがこの本に収められた「竹」という文章の一部を読んでくださったときにも、ぼくは思わず叫びそうになった。「ぼくが企画編集した本だ」

交響曲ト調を聴きながら、ぼくの胸には、そのような若き日々の思い出が、次から次へと蘇ってきていた。小倉さんの音楽の一つの特徴である日本の民謡をモチーフとした切れ味の鋭いリズム、そして、後期の作品に特有な絵で言えば点描のような淡い音色の移ろいが綯い交ぜになって流れていく。気がつくと、曲は第4楽章のコーダに突入していた。

大きな拍手。誇らしげで満足げな指揮者と楽団員。新曲の初演だったら、指揮者が手を目の上にかざして、客席に作曲者を探し、舞台の上に招き上げるところ。でも、客席には小倉朗はいない。そう、あたりまえだけれど、ベートーベンもいない。

音楽とは、文化とは、そういうものだ。リチャード・ドーキンスがミームという言葉で伝えたかったことは、きっとこういうことなのだろう。ぼくの中で、小倉朗は確実に生き続けている。

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