三笠会館鵠沼店にまつわる思い出

三笠会館鵠沼店にまつわる思い出

《愚者の後知恵》
1997年9月
私信(電子メール)

谷善樹さま

9月8日の御社本店改装の内覧会会場で、石橋総支配人にご紹介いただいた、ジャストシステムの小林です。もう四半世紀ほどにもわたって、さまざまな形でお世話になってきた三笠会館の経営者にお目にかかれて、感銘深いものがありました。
小生にとって、本店を初めとして、新宿店、ボーノボーノ、鵠沼店などのお店には、家族の歴史の節目や、仕事上の大きな転機と係わり合って、とても懐かしく豊かな思い出が数限りなくあります。特に、鵠沼のお店には、小生の結婚、子供たちの成長、実母の葬儀と、小生の両親、小生の夫婦、子供たちの三代にわたる思い出が、本当にぎっしりと詰まっています。
お忙しいことと思いますが、感謝を込めて、三笠会館にまつわる思い出を書きつづることをお許しください。いえ、ちょっと長くなりますので、急いでお読みいただくことなどありません。
当方も徒然なるままに書き連ねますので、お暇な折りにでもご笑覧いただければ幸いです。

きっかけは鵠沼店でした。おそらくは出来たばかりのことだったでしょう。4歳ばかり年長の友人が、「鶏の唐揚げとカレーライスがとてもおいしい」といって、連れていってくれました。この友人とは、カトリックの信仰を共有する、神戸以来の家族同士のつきあいでした。
鶏の唐揚げ、スープ、カレーライスというボリュームたっぷりのディナーは、大学生だった若者には、リーゾナブルな価格で豪華な雰囲気を味わうことの出来る格好のメニューでした。三笠会館の名は、親父やお袋も存じており、近くに銀座から本格的なレストランがやってきた、ということで何か鵠沼という土地柄自体が華やいだものになったような気がしたものです。
梅雨に入る直前、5月の末から6月初旬でしょうか、真夏を思わせる日差しが、鵠沼の海岸を照らすわずかな日々があります。そんな折り、その友人や兄弟たちと、水辺で戯れ、そのままの格好でお店にうかがったことがあります。今から思えば、ずいぶんと失礼なことをしたと思うのですが、海水に濡れた若者の一団が「お茶だけなのですけれど」などとお願いしても、お店の方はいやな顔一つせずに、中に案内してくださいました。

そのころから感じていたことなのですが、鵠沼のお店は、郊外店のゆったりした雰囲気と都会的なスマートさとを見事に統一していました。海岸沿いにある何軒かのレストランが、あるいは、若者に迎合したり、あるいは、ある種の尊大さで若者を拒否したりしていたのに対して、三笠会館のお店は、暖かく泰然としながらも、お店と思いを同じくするお客さんを、きちんと選んできた、そんな気がするのです。僕たちが(気分がゆったりしてきました、「小生」から「僕」に切り替えることをご寛恕ください)、通い始めたころから今に至るまで、お客さんの雰囲気が全く変わらないのです。
その後のいくらかの経験で知ったことですが、良いお店は、それと悟らせることなく、お客さんを選ぶことが出来るのですね。
後になって、隣にマクドナルドの大きい店が出来たとき、たまたま僕たちは開店の日に、お店にうかがっていました。入り口の石畳の上で、当時の支配人の石橋さんが、ものすごい目で隣を睨んでいたのを覚えています。もちろん、マクドナルドにはマクドナルドの生き方があり、三笠会館には三笠会館の生き方があるのでしょう。石橋さんのその時の思いを知る由もありませんが、隣のマクドナルドは三笠会館には、少なくとも僕に見える範囲では、全く何の影響も与えませんでした。

僕たち夫婦は、藤沢カトリック教会で結婚式を行い、鵠沼のお店でささやかな披露のパーティーを開いたのですが、その前にも、二人の思い出は一杯です。
結婚を意識するようになってからでしょうか、二人で行った、二度の食事をとてもよく覚えています。
一度は、ローストビーフのワゴンサービス。水曜日だったかしらん、えーと、4500円? そのころの学生の身には安いものではありません。家庭教師のアルバイトの謝礼を、文字通り握りしめて、一大決心をして、彼女を誘いました。昼下がりの海岸側の窓際の席。向かい合って。
思い切って、お店の方に
「ワインを飲みたいのですが。でも、よく知らないのです。」
親切に、こう教えてくださいました。
「それなら、ボジョレーをお飲みなさい。困ったときのボジョレーだのみ、値段も安いし、どんな料理にも無難です。」
帰りに、分厚いワインの本を貸してくださいました。
この時以来、鵠沼のお店は、僕にとって料理やマナーの学校になりました。ワインのテイスティングの方法を教わったのも、シャブリと生ガキが合うことを教わったのも、このお店でした。僕たちが何か尋ねると、みなさん、本当にうれしそうに親切に教えてくださるのです。そう、小学校の先生が、良い質問をした生徒に答える、という雰囲気でしょうか。
知ったかぶりをするのではなく、知らないことを知らないと言うこと、そして、教えを請うこと、このことは、食事に限ったことではなく、小生にとっては、人生全般にわたる努力目標なのですが、鵠沼のお店から得た教訓は決して小さいものではありませんでした。
次のデートは、生ガキ半ダースに、シャブリのハーフボトルのサービスセール。
今にしてみると、嘘みたいな話ですね。シャブリがサービスですよ。小生は、三笠会館の教育にも係わらず、ワインの銘柄はなかなか覚えられないのですが、さすがに、ボジョレーとシャブリ、それから、後に触れる新宿店でのエルミタージュ、ボーノボーノのソアベ・クラシコとエスト・エスト・エストなどは、思い出とともに頭と舌に焼き付いております。

僕たちが結婚したのは、1976年の10月30日。僕が6年かかって大学を卒業し、小学館という出版社に入社した年の秋でした。妻の幸子は、私立の女子大を4年で卒業し、彼女の実家のある大船で、母校の教師をしていました。
結婚の半年前に、大船の教会で婚約式。この折りも、二人の家族と鵠沼のお店で会食しました。その前に結婚した姉も、婚約式の折りの会食は、やはり鵠沼のお店でした。

僕たちの結婚披露のパーティーは、今でも親戚の間で語りぐさになっています。
そう、料理がおいしかったって。新郎がりりしかったとか、新婦が初々しかったとかの話は、皆無です。
あのころ、まだ鵠沼のお店は、結婚披露パーティーの経験がさほど無かったのではないでしょうか。そのせいか、石橋支配人初め、みなさん、ほんとうに一生懸命に対応してくださいました。まあ、料理のメニューを決めるためだけに、二度も打ち合わせに出向いたカップルもそうはいないでしょうが。
出席者は、60人足らずと、こじんまりしたものでしたが、形式張らないとてもいいパーティーになったように思います。シェフがマイクを持って、わざわざメニューの説明をしてくださいました。今、念のために当時の写真を見てみたら、何ということでしょう、お袋がシェフに食らいついて、説明を聞いているショットがありました。お袋も、本当に食べることと料理を作ることが好きな人でしたから。
メニューの目玉は、ウェリントン。ところが、新婦がお色直しに中座している間に、ソールドアウトになってしまい、新郎は長年にわたって恨み言を聴かされる羽目になりました。
家内の怨念がはらされるのは、ずっと後になって、親父の古希の祝いを開いたときでした。
この他にも、上の妹の婚約の時、下の妹の結婚の時、親父の喜寿とお袋の古希を同時に祝った時と、僕たちの家族は、折に触れて三笠会館鵠沼店に集い、語らい合ってきました。人生の節目には、鵠沼のお店でパーティーを開く、というのが誰が言うともなく恒例になっていたのです。

昨年の2月、お袋が他界しました。その顛末は、別に書いたものを小生のホームページ(http://www.kobysh.com/tlk)に上げてありますので、のぞいていただれれば幸いですが、お袋の葬儀の際も、誰が言い出すでもなく、三笠会館で食事をしようということになりました。急なことでもあり、葬儀ミサと火葬とのスケジュールの調整など、面倒なことをお願いしたにもかかわらず、お店の方々の対応は、大変心の行き届いたものでした。結婚などの祝い事であれば、お店の方も明るく華やいだ対応をすればよいのでしょうが、このような弔事の際の対応は、難しいのではないかと忖度します。しかし、入り口にさりげなく清めの塩を準備しておいてくださったり、落ち着いた感じの花を飾った故人の写真を置く台を用意しておいてくださったり。
料理は、言うまでもありません。お袋の古希の祝いの際に、鵠沼のお店の同じ部屋で撮ったお袋の写真を囲んで、僕たちは、お袋とともに過ごした日々を料理の味と重ね合わせながら、存分に語り合うことが出来ました。

僕たち家族にとって、三笠会館鵠沼店は、パーティーのためだけの存在ではありません。もちろん、毎月、毎週訪れるほどの経済的な余裕はありませんが、ここ数年、僕たちは子供を連れて、6月の妻の誕生日の前後と、10月の僕たちの結婚記念日の前後の、二度はお店を訪れます。
結婚後、横浜に住まいを移したこともあり、子供が次々に生まれて、子育てに忙殺されていたこともあり、しばらくは、日常的にお店におじゃまするのが難しい時が続きましたが、下の娘が幼稚園に入るころから、この習慣は始まりました。

鵠沼のお店にうかがうのは、たいてい日曜日の午後。ここのところ、メニューはお昼の小皿コース。子供たちは小さい間は、お子さまメニューでした。中学校に入ったら、大人メニューの仲間に入れてあげる、というルールにしていました。
料理の種類の少ない子供たちは、僕たちよりも早く食事が終わってしまうのです。
退屈して席を立ってうろうろし出します。グリルのところに行って、高尾シェフとおしゃべりしたり、入り口の階段のところでお店の方に遊んでいただいたり。
ともすると、きちんとしたフレンチレストランは、小さい子供連れの入店を断ったり、それでなくても、何となく迷惑がったりするようなところがありますが、鵠沼のお店は、全然違うんですね。他のお客様も、子供たちがうろちょろするのを迷惑がるどころか、とても暖かくて優しい目で見ていてくださる。そんな中で、子供たちは、少しずつ周りの人に不快な思いをさせない、というマナーの基本を学んでいったようにも思います。
長男が、お子さまメニューを卒業し、次男が卒業し、長女は、末っ子の特権でしょうか、まだ、小学生なのに、いつのまにか、一人前に小皿コースに挑戦しています。長男はまもなく二十歳になります。普段は、家にいるかいないか分からないような生活をしていますが、三笠会館だけは別です。家族五人が、本当に揃って楽しく食卓を囲むことが出来ます。とても暖かくて、ちょっとよそ行きの気分で。

時に、食後に海岸を散歩することもあります。鵠沼の海岸もずいぶんと変わりました。思えば、鵠沼のお店も、もう四半世紀が、経っているのですね。僕たちの家族も、前史を含めれば、鵠沼のお店とほぼ同じだけの歴史を積み重ねてきたわけです。先日、親父は鵠沼の家を売りました。今は、姉の住む世田谷に小さなマンションを購って暮らしています。鵠沼は僕にとって青春と呼べるある時期を過ごした忘れ得ぬ場所です。その鵠沼に、僕たちの生活の痕跡は、もうほとんど残っていません。でも、三笠会館があります。
このお店を訪れるごとに、僕は、単なる思い出としてではなく、今に続くものとしての、自分を取り巻くささやかな歴史を呼び戻すことが出来ます。そして、食事の後の満足感は、半年後に訪れる時への期待に満ちています。
「おいしかったね。また来ようね」
誰とも無く、口にするこの言葉とともに、僕たちは、また日々の歴史を刻むために日常に帰っていきます。
このようなレストランを持つことが出来た幸せを、僕は改めて思いしめています。感謝を込めて。そして、鵠沼のお店が、建物や内装が変わっても、味と雰囲気だけは決して変わらないことを願って。

突然の不躾なメール、ご寛恕ください。

不一

p.s.新宿のお店にも、本店にも、ボーノボーノにも、それぞれ愉快な思い出があります。そんな話は、よろしければ、またの機会に。

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